紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き6日目の3(安中宿)

2度目の中山道6日目の 3
3月14日(土)の3

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【安中宿】

11:34 安中宿下ノ木戸跡
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11:37 安中宿本陣跡(安中郵便局敷地内にる)
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11年前に初めての中山道を歩いたときには、旧中山道より一本北の道、大名小路を歩きました。

11年前のブログより

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2009.4.15.

東海道ウォーキングの時は、なるべく旧東海道を歩くことにこだわりましたが、今度の中山道ウォーキングは、かなり柔軟に行こう、と決めているので、伝馬町交差点で曲がって一本脇の大名小路を歩きました。

碓氷郡役所、垂れ桜がきれいな安中教会、そして有料公開されている郡奉行役宅と武家長屋を見学。郡奉行役宅の管理人さんから、「男部屋」の説明と、この近所に、この家で生まれ育ったお嬢さんが90何歳で元気でおられて、当時の暮らしについて話してくれたことを二、三、聞きました。

まず、男部屋と言うのは、当時まだ暗い早朝に出勤してきて、薪割りをして竈に火を起こしたり、井戸水を汲んで湯を沸かし、夜遅くまで働いては家に帰る通いの男の人がいて、その人は、土間より上には上がってはいけない決まりになっていたため、疲れて休みたいときに、ちょっと腰掛けるだけの板の間のスペースをもらっていて、それを男部屋と言います。覗いてみると、横になるほどの長さはなく、本当に腰掛けるだけ。

また、この家のお嬢さんは、自分で足袋を履いたことがないそうです。朝、起きれば、使用人の女性が足袋を履かせてくれる。しかし、そんなお嬢様がとにかく辛かったのは、寒い時期の湯殿。当時は湯船はなく、沸かしたお湯をかけてもらうだけだったそうですが、実際見学してみてなるほど、と思いましたが、板の壁は隙間だらけ。特に上下に隙間がある。昔のシャワーは命がけだったんですね。

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11:42 青柳質店
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11:43 ギャラリー米庄 温故知新館
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米庄商店の米貯蔵庫をギャラリーに使っているようです。


11:48 清水商会 サカウエ薬局
蔵造りの商家
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11:56 株式会社有田屋・便覧舎跡
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株式会社 有田屋ホームページより

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江戸時代,中山道の宿場町として栄え、山紫水明の郷として知られる上州安中。美しい山々と清らかな水が流れる川が私たちにもたらしてくれたのは、醤油づくりに適した上州の豊かな風土と天の恵みでした。

有田屋は、天保三年(1832年)、上州安中の地に創業いたしました。以来180余年もの間、昔ながらの天然醸造の製法にこだわった醤油を作り続けています。語り継がれる味、そして語り継がれてゆく味。伝統の味を守りつつ新しい試みを繰り返しながら、「ありのまま」の醤油の味わいを今に伝えています。

日本人の心の味、醤油の真の味わいを守ってゆきたいと願って、今日も努力を重ねています。

有田屋 当主

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便覧舎跡

安中市ホームページより

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湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。便覧舎は無料で利用でき、自由な閲覧が可能。人々は一心不乱に本を読み、新しい思想を身につけようとしました。これが民間人が創設した最初の図書館です。その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。

石碑
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【右側面】
湯浅治郎設立 日本最初の図書館と云われる東京書籍館の創立と同年なり 図書三千余無料で自由に閲覧させた
【正面】
便覧舎址
【左側面】
明治五年(一八七二)建設
明治廿年(一八八七)焼失

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案内板
「 便覧舎

明治5年(1872)、有田屋3代目当主の湯浅治郎が 日本で初めて設立した私設図書館。蔵書は、和、漢、 洋に亘り3000冊、誰でも自由に無料で閲覧できた。 又、同志社大学設立者の新島襄先生より感化を受けた 男 16名、女14名の人々がキリスト教の洗礼を受け、 安中教会設立の原動力となったのもこの場所である。 明治20年(1887)の大火で建物は消失し、現在は碑 が残るのみである。

株式会社 有田屋 」


11:59 愛宕神社
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古今東西御朱印と散策」より

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歴史・沿革

 当社は火防守護の神として信仰され、また夏祭には旧中仙道に露店が立ち並び、安中ひな市と並び賑やかである。また祭りに雨が降っても火伏せの神であるので、却って喜ばれるものである。

 境内はかつて古墳であった所で『安中志』には「永禄二己未年(1559年)谷間なりしを土をならして家をたつ故に谷津村となづけしとなん。 愛宕大権現 祭神伊弉冊尊迦遇突智命 本地仏将軍地蔵菩薩。 一、例祭 正月 六月廿四日」と記されている。

 創建の由来は、江戸時代末期の弘化二年(1845年)の手水鉢、御神徳奉賛額の大山融斎撰文に依ると、元禄年間(1688-1704)に祠を祀り柳沢豊昵の夢告によって手水鉢を奉納したとある。『旧市史』の記事では、文武天皇の頃、又醍醐天皇の延喜の御代に霊地として信仰を受けたとある。旧別当は本山派修験の千寿院で裏の墓地にその面影を残している。また境内は、かつて古墳(愛宕神社古墳 円墳? 現状50m、高さ3m )であったとされ歴史を偲ばせる所である。

 明治時代の神社合併の際、当社を熊野神社に合祀しようしたが、当社は、火の神、熊野神社末社諏訪社は水の神であるから宜しくないという事で合併しなかったと云う逸話が伝えられている。水利に不便な町中では特に火災が一番心配な事であるから、火伏せの信仰は現代も脈々と続いている。
愛宕神社由緒書より)

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11:59 常夜燈
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12:00 大島酒店
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間口が広く蔵があります。


12:09 新島譲旧宅入口
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安中市ホームページより

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新島譲旧宅

新島襄は、天保14年(1843年)、安中藩士の子として江戸・神田に生まれました。21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ帰郷し、キリスト教を伝道しました。その後、神戸から京都へ向かい、同志社英学校を設立し、47歳でこの世を去りました。ここでは、その遺品や関係書類、写真などを展示しています。ぜひ、お出かけください。

「 新島 襄」について
安中市は、「文教のまち」として知られています。これは、江戸時代の安中藩主板倉勝明侯によって基礎が築かれました。
新島襄は、この勝明侯の感化を受けましたが、新島襄自身も安中にキリスト教の教えを伝えるなど、安中の文化に多大の影響を残しました。新島襄の影響を受けた安中の文化人には、湯浅治郎、湯浅半月、海老名弾正、柏木義円、千木良昌庵などがいます。また、碓氷社でも社員教育キリスト教の教えを採用していました。

新島襄は、明治7年(1874)11月29日に、この家で元治元年(1864)以来十年ぶりに父母姉妹と再会しました。ここは新島襄が、まさに十年間にわたるアメリカでの苦学を活かして日本での活動を始める第一歩となったところです。
その後、新島襄は、京都に同志社英学校を設立してキリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で亡くなりました。

その後、昭和38年に安中市はこの新島襄の旧宅を移築し、その遺品や関係書類及び写真等を収集して展示する施設を造り、昭和39年に開館しました。ここを訪れる人々が新島襄の事績を偲ぶとともに、その精神を受け継いでいくことを念願いたします。

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12:09 道祖神 弘化四年(1847)建立
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2度目の中山道6日目の4(間の宿原市から郷原)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/22/044121


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003