2度目の中山道6日目の 4
3月14日(土)の4
【間の宿原市】
12:17 安中市原市の杉並木
12:19 安政遠足(とおあし)之図
安政遠足は、映画「サムライマラソン」のモデルです。
こちらは、映画「サムライマラソン」を観たとき、わたしが描いた絵です。
「越智前社長のおちゃめ日記」より
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杉並木が途切れると旧街道の雰囲気を醸し出している古民家などが目立ちだします。杉並木の入り口付近にある給水塔の壁面に刀を背負った侍達が走っている図が描かれています。
この安政遠足(とおあし)之図は、安政2年(1855年)、安中城主板倉勝明が藩士の鍛錬のために、藩士96人に安中城門から碓氷峠にある熊野権現神社までの約28kmの距離を走らせたのが始まりの『安中藩安政遠足』の様子を描いたものです。走破時間や着順は昭和50年(1955年)に碓氷峠の茶屋で偶然発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』に記されてはいるものの、この安政遠足は走者に意義を持たせることが目的で開催されたもので、順位やタイムは重要視されていませんでした。ゴールした者には餅などが振る舞われた…と記録に残っています。この安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には『安中藩安政遠足の碑』と『日本マラソン発祥の地』の石碑が建てられています。
また、昭和50年からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されています。ランナー達は侍など昔ながらの格好に扮装して走るのだそうです。最近は、侍などの昔ながらの格好ではなく、思い思いの仮装で走るランナーが多いのだとか…。この日のスタートポイントだった安中市商工会館の入り口に今年の「安政遠足 侍マラソン」のポスターが貼られていました。
それにしても約28kmの距離を走らせて、ゴールが碓氷峠にある熊野権現神社ですか…。碓氷峠の標高は約960メートル。安中市役所の標高は海抜180メートルほどなので、780メートルを一気に駆け上がるわけです。ちなみに箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)の5区山登りの区間で駆け上がる国道1号線の最高点である箱根峠の標高は874メートル。ほぼ同じくらいの距離と高さを駆け上がるわけです。箱根駅伝との違いは舗装されていないまったくの山道を駆け上がること。そう思うと、この安中藩安政遠足、箱根駅伝名物の山登りの5区以上に過酷な“遠足”です。ちなみに、小学校などで行われた「遠足(えんそく)」の語源も、この安中藩安政遠足なのだそうです。
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12:22 稲荷神社
正一位稲荷大神が祀られているそうです。
12:44 ココス安中店でランチ
サイコロステーキを食べました。
13:05 天然記念物安中原市ノ杉並木碑
側面 「昭和九年三月建設 文部省」
13:08 双体道祖神
13:10 原市村戸長役場跡
旧原市村の戸長役場がそっくり残されているそうです。戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。
もともとは碓氷郡原市村でしたが、原市町を経て、今は合併し安中市原市となっています。
【茶屋本陣跡】
13:14 明治天皇原市御小休所跡
茶屋本陣・高札場跡
明治天皇原市御小休所
案内板
「 説明
明治十一年北陸東海巡幸の際九月五日御小休所となりたる處にして主要部分はよく舊規模を存せり
注意
一、火氣に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せざる事
昭和十三年五月
文部省 」
13:16 石祠
ご神灯が対で建っています。
13:17 真光寺
Travel & Portal WEB GUNMA より
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真光寺の鐘は、原市の仁井与惣衛門が真 真光寺に寄進した鐘で、安中藩第12代藩主 板倉勝暁の代に「時の鐘」として許可され、鋳直(いなお)して鐘楼を建て直し、天明元年(1781年)7月2日に撞き始めが行われました。
真光寺は天保3年(1832年)に本堂、鐘楼が焼失しましたが、その後も時の鐘として、男二人を雇い昼夜怠らず時を知らせ続けました。このような由緒から第二次世界大戦においても供出を免れることができ、安中市ではこの鐘と、板鼻の称名寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘の3つが供出を免れています。
真光寺の鐘(時の鐘)は、現在、お堂の傍らに建っていますが、かつては中山道からの入口すぐ東側にありました。
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真光寺の左に写っている塔は、プロテスタントの原市教会です。
13:18 黒い蔵
13:21 丸太道標 ←松井田宿5.4km
→安中宿 3.7km
【八本木地蔵堂】
13:31 八本木地蔵堂
案内板
「 説明
八本木地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(削った坊主頭)で、体には袈裟と衣を着用し、不通の僧侶の姿をしている。秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。
様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。 」
日本三地蔵は諸説あり、京都壬生寺の「縄目地蔵菩薩」、伊賀壬生野村の「延命地蔵菩薩」、滋賀県長浜市の「木之本地蔵院」、東京巣鴨の高岩寺「とげぬき地蔵」、静岡県沼津市「平作地蔵」などか挙げられています。
当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1,525)松井田小屋城主安中忠清 が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かっての故郷越後国新発田より、近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。
像は木像寄木造りで総高一、一五米、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。
なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。特に江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年~元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。
参勤交代の為中山道を往来の諸大名も、下乗下馬(騎乗のまゝ通れば仏罰により落馬するという)して参詣したと伝えられる。
御利益は除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々の願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。
上州原市八本木
延命地蔵尊奉讃会 」
聖徳太子孝養の像
案内板(印刷物)
「 聖徳太子孝養の像
所在地 八本木地蔵堂境内
要約 地蔵像と誤解されてヨダレカケが奉納され、首にかけられていることが多いが、まぎれもない聖徳太子孝養像で、手に墨壺を持った優品である。全高二メートル九十五センチ(台石百七十五センチ、像高九十三センチ)、立像で、後ろ、上段には、『天保六年歳次末冬11月、信州伊那石工講中、満福寺現住俊澄代』と三行に記され、その一段下の左、右、後の3面に合計五十二名(内一名は名前の部分がかけて不明)の講中の氏名が刻まれている。講元には、『前橋本町、宮下政吉、野口、北原市五郎、安中伝馬町、伊藤弥右衛門・・』と続いているが、伊藤弥右衛門は『館の百体馬頭観世音』の主尊に刻まれている石工と同一人物であり、この伊那石工講中をまとめ、この地に孝養の像を建てさせた人と考えることができる。講中として刻まれた人物で西上州の住所となっている者は『伝馬町伊藤嘉吉、磯部堀口直次郎、高梨子国太郎、中後閑佐五郎、藤塚鍛冶屋與六、高崎新田町相沢小右衛門』の六名がある。弥右衛門と嘉吉との関係についてはわからないが伝馬町に二人の石工がいることは無関係ではないと考えられる。
解説 聖徳太子は、法隆寺建立など寺院建築史上でも大きな存在だったところから、建築関係の職人の信仰対象となり、職人たちの守護神として早くから崇められるようになり、『太子講』と呼ばれる祭り一月(二月)、八月(七月、九月)の二十日前後にもてれ、各地に太子像が作られた。太子像は二歳の南無太子像、十六歳の孝養像、壮年期の摂政太子像などがある。八本木の孝養像を建立した伊那石工講中がどのように結成されたかは一切不明であるが、江戸時代末に、上州各地で活躍した高遠石工仲間たちの結束と、信仰の深沢示す資料としても貴重なものである。
案内板(印刷物)
「 地蔵堂便り3
安中最古の庚申石祠
寛永二年(1625)造立
庚申信仰の由来
庚申信仰はその源を中国の道教に由来する。六十日に一度巡ってくる庚申の日に、人間の身中に住む三尸虫が、深夜ひそかに就寝中の体内より抜け出して、天帝(北斗星)にその人の罪を告げる。天帝はそれを記録し、罪の軽重により寿命を決定するといわれる。この信仰は平安時代には既に守庚申として宮廷貴族に伝えられ、鎌倉・室町時代には武士階級に庚申待として広まった。更に江戸時代には農業神とも結びついて、各地に庚申講が結ばれ、庚申の夜、身を清め宿の家で大盛の飯を食べ徹夜して三尸虫の出るのを監視した。
更に庚申信仰は佛教と習合しては『青面金剛尊を本地佛』とし、神道と結びついては『猿田彦命を主神』として、各講単位に庚申供養塔や庚申祠が造立された。これらの塔には、一猿、二猿、三猿、他にも日月や鶏の像が刻まれることが多い。なお、縊死祠の屋根に鬼面の刻まれるものは特にふるいとされる。庚申講の習俗は、今も各地に残されている。
平成三年六月
小坂橋良平氏資料より転記する 浦野 」
立て札
「 安中最古
庚申石祠
寛永二年(一六二五)建立 」
境内には他にも、石仏石塔群がありました。
13:35 道祖神
13:56 村社日枝神社
咲前(さきさき)神社のリンクより
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日枝神社(ひえじんじゃ)
鎮座地
郷原2804番地
創建
応永4年(1397)
祭典日
春祭 4月10日
夏越大祓 7月31日
秋祭 10月10日
大歳参り 12月31日
日枝神社
芸能
神楽殿が毎年九月十九日に例祭が行われ、「花神楽」を奉納するのが旧例であった。尚、『自性寺文書』に文久二年(一八六二)、明治二年(一八六九)に太々神楽奉納の記録がある。
『安中志』
「山王大権現 一村鎮守 祭神 大物主神 御朱印四拾壱石余一、 例祭九月十九日 花神楽興行 自性寺 一、日枝山王上七社の内第一の社、大宮は祭神大国主命にませは其大宮をうつし成へし。」
由緒
当社は、安中市西部に位置する郷原の鎮守で、旧号「山王大権現」と称し、かつては一体であった旧別当職、真言宗豊山派 自性寺と隣接して鎮座する。
慶安二年(一六四九)徳川家光より御朱印四一石八斗の奉納を受けた。
また神仏習合の頃は、境内で護摩祈祷などを行った模様である。また山王権現のお使いが猿であることから、延宝八年(一六八○)の庚申燈籠を始め供養塔、青面金剛碑などの石造物がある。
本殿は、山門のように正面に配置されているのは拝殿で、神楽殿も兼ねた物である。元禄十年(一六九七)建立で棟札に大工三左衛門尉とある。
また、大正二年(一九一三)には大規模な社殿修理が氏子総出でなされた。
一の鳥居は、明治二八年(一八九五)『古社調』に山王鳥居の図が見える。平成十年(一九九八)御鎮座六○○年記念の石鳥居が氏子一同により奉納された。二の鳥居は元文元年(一七三六)の物である。
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境内も広く立派な神社で、トイレをお借りしました。
14:05 自性寺
Travel & Portal WEB GUNMAより
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郷原自性寺
郷原自性寺は、真言宗豊山派の寺で、国道18号線と平行する中山道の北側にあります。自性寺の開基は不詳ながら一説に保延元年(1134年)開創とする寺伝があり、本尊に大日如来を祀っています。
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【郷原のフィールド】
14:09 中山道丸太道標と道祖神・百番供養塔
中山道丸太道標
←松井田宿3.4km →安中宿5.7km
道祖神は、安永三年(1774)建立
この先、新しい道が出来て、そっちを歩いてしまったらしく、ガイド本にあった道祖神や一里塚を見ることが出来ませんでした。
14:23 分岐 右の下り坂へ
ひとっこひとりいない静かな道。
14:27 突き当たって左へ。
ドラクエのフィールドみたいで楽しい。
14:35 道路の下を潜ります。雨の日は、一瞬でも傘をささなくていい場所はほっとします。ガイド本を見直したりも出来ます。
突き当たって右へ。
14:38 Y字は右へ。
14:38 石仏石塔群
14:51 庚申塔
2度目の中山道6日目の5(松井田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/22/095350
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003