紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

八本木地蔵堂 安中最古の石祠

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案内板
「 説明

八本木地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(削った坊主頭)で、体には袈裟と衣を着用し、不通の僧侶の姿をしている。秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。
様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。 」

日本三地蔵は諸説あり、京都壬生寺の「縄目地蔵菩薩」、伊賀壬生野村の「延命地蔵菩薩」、滋賀県長浜市の「木之本地蔵院」、東京巣鴨高岩寺とげぬき地蔵」、静岡県沼津市「平作地蔵」などか挙げられています。


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案内板
安中市指定重要文化財 八本木延命地蔵尊縁起

 当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1,525)松井田小屋城主安中忠清 が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かっての故郷越後国新発田より、近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。
 像は木像寄木造りで総高一、一五米、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。
 なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。特に江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年~元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。
 参勤交代の為中山道を往来の諸大名も、下乗下馬(騎乗のまゝ通れば仏罰により落馬するという)して参詣したと伝えられる。
 御利益は除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々の願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。

上州原市八本木
延命地蔵尊奉讃会 」

聖徳太子孝養の像
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案内板(印刷物)
聖徳太子孝養の像
所在地 八本木地蔵堂境内

要約 地蔵像と誤解されてヨダレカケが奉納され、首にかけられていることが多いが、まぎれもない聖徳太子孝養像で、手に墨壺を持った優品である。全高二メートル九十五センチ(台石百七十五センチ、像高九十三センチ)、立像で、後ろ、上段には、『天保六年歳次末冬11月、信州伊那石工講中、満福寺現住俊澄代』と三行に記され、その一段下の左、右、後の3面に合計五十二名(内一名は名前の部分がかけて不明)の講中の氏名が刻まれている。講元には、『前橋本町、宮下政吉、野口、北原市五郎、安中伝馬町、伊藤弥右衛門・・』と続いているが、伊藤弥右衛門は『館の百体馬頭観世音』の主尊に刻まれている石工と同一人物であり、この伊那石工講中をまとめ、この地に孝養の像を建てさせた人と考えることができる。講中として刻まれた人物で西上州の住所となっている者は『伝馬町伊藤嘉吉、磯部堀口直次郎、高梨子国太郎、中後閑佐五郎、藤塚鍛冶屋與六、高崎新田町相沢小右衛門』の六名がある。弥右衛門と嘉吉との関係についてはわからないが伝馬町に二人の石工がいることは無関係ではないと考えられる。

解説 聖徳太子は、法隆寺建立など寺院建築史上でも大きな存在だったところから、建築関係の職人の信仰対象となり、職人たちの守護神として早くから崇められるようになり、『太子講』と呼ばれる祭り一月(二月)、八月(七月、九月)の二十日前後にもてれ、各地に太子像が作られた。太子像は二歳の南無太子像、十六歳の孝養像、壮年期の摂政太子像などがある。八本木の孝養像を建立した伊那石工講中がどのように結成されたかは一切不明であるが、江戸時代末に、上州各地で活躍した高遠石工仲間たちの結束と、信仰の深沢示す資料としても貴重なものである。

安中市文化財編より
八本木延命地蔵尊奉賛会 」

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案内板(印刷物)
地蔵堂便り3
安中最古の庚申石祠
寛永二年(1625)造立

庚申信仰の由来

庚申信仰はその源を中国の道教に由来する。六十日に一度巡ってくる庚申の日に、人間の身中に住む三尸虫が、深夜ひそかに就寝中の体内より抜け出して、天帝(北斗星)にその人の罪を告げる。天帝はそれを記録し、罪の軽重により寿命を決定するといわれる。この信仰は平安時代には既に守庚申として宮廷貴族に伝えられ、鎌倉・室町時代には武士階級に庚申待として広まった。更に江戸時代には農業神とも結びついて、各地に庚申講が結ばれ、庚申の夜、身を清め宿の家で大盛の飯を食べ徹夜して三尸虫の出るのを監視した。
更に庚申信仰は佛教と習合しては『青面金剛尊を本地佛』とし、神道と結びついては『猿田彦命を主神』として、各講単位に庚申供養塔や庚申祠が造立された。これらの塔には、一猿、二猿、三猿、他にも日月や鶏の像が刻まれることが多い。なお、縊死祠の屋根に鬼面の刻まれるものは特にふるいとされる。庚申講の習俗は、今も各地に残されている。

平成三年六月
小坂橋良平氏資料より転記する 浦野 」

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立て札
「 安中最古
庚申石祠
寛永二年(一六二五)建立 」