紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き7日目の4(碓氷峠越え後半)

2度目の中山道7日目の4
4月4日(土)の4


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【山中茶屋跡】

11:53 山中茶屋跡
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案内板
「 山中茶屋

 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で慶安年間(一六四八~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
 寛文二年(一六六二)には十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
 明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。」


11:53 山中学校跡
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案内板
「 山中学校跡

 明治十一年、明治天皇御巡幸の時、児童が二十五人いたので、二十五円の奨学金の下賜があった。供奉官から十円の寄付があった。 」

ここに残っているプレハブ小屋は、物置なのか、お休み処のような売店のようのものがあったのか、そう古いものではないと思います。

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【山中坂】

11:57 山中坂
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案内板
「 山中坂

 山中茶屋から子持山山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は『飯食い坂』とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
 山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 」


11年前のブログより

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昔、何らかの施設があった跡地の廃屋、廃バスがあり、その少し先には、また廃車がありました。

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何らかの施設、と書いた廃屋は、何かの保養所だったらしいです。
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【一つ家跡】

12:05 一つ家跡
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案内板
「 一つ家跡
                 
 ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。 」


11年前のブログより

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左側に、「一ッ家跡」の立て札。昔、この辺りに一人の老婆がいて、旅人を苦しめたという、と説明がされていましたが、山姥?鬼婆?

以前は家族で茶屋をしていて、みんな亡くなって一人残され、本人は旅人と話がしたかったのに、旅人が怖がって逃げた、というのが真実ではないか、と、想像…。

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今考えてみても、同じ想像をしますね。


陣場が原追分】

12:10 陣場が原追分
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案内板
「 陣馬が原

 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。 」


12:10 子持山
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案内板
子持山

 万葉集第十四 東歌中
       詠人不知

 兒持山若かへるでの
      もみづまで
 寝もと吾は思う
     汝はあどか思う
      (三四九四) 」
          

 この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、

 子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?

注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。

 山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。

歌垣(うたがき) wikipediaより

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古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になるとされる。語源は「歌掛き(懸き)」であり、東国方言の「かがい(嬥歌)」も「懸け合い」に由来すると考えられている。時期としては春秋に行われ、生産の予祝・感謝としての性格を持っていたとされる。

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歌垣は元々中国の風習で、ベトナムを 経てインドシナ半島、フィリピンやインドネシアでも似た風習があるそうです。

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11年前のブログより

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やがて、子持山の立て札と、陣馬が原の立て札。ここが分岐で、旧中山道は左に入ります。右の林道は、皇女和宮の道&安政遠足の道。

ガイド本によると、旧中山道は熊が出たり、雨で増水すると通れないところがあり、東京屋の方も、旧中山道は通れないかもしれない、と言っていたので、私は皇女和宮の道を通ることにしました。一人旅だから、回避できる危険は回避して、安全な旅を心がけるべきだと思います。

林道歩きは変化には乏しいけれど、一定に歩けるので、ぐんぐん距離を伸ばしました。

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夕べの宿、東京屋のご夫妻が、熊が出るから皇女和の宮の道を行きなさい、とおっしゃっていたので、11ねんまえはこの分岐から皇女和の宮の道(安政遠足コースであり、中部北陸自然歩道でもあります)を行きましたが、今日は旧中山道を行きます。

ここから暫くは、初めて歩く道です。

12:18 化粧水跡
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案内板
「 化粧水跡

 峠町へ登る人々がこの水で姿・形を直した水場である。 」


12:20 道が崩壊していました。
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【人馬施行所跡】


12:21 人馬施行所跡
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案内板
「 人馬施行所跡

 笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて、人馬が休む家をつくった。 」

足元に「←中山道」という道標が、落ちているのか、わざわざ足元に設置してあるのか、その矢印通りだと、もう少し川上(谷の奥側)へ進まねばならないのですが、それでは沢を渡れそうな所がないし、地図によると、この人馬施行所跡で左に折れて沢を渡るように書かれているので、矢印より地図を信じて沢に進んだのですが、暫くは道を間違えたのではないかと不安でした。


12:23 笹沢を渡りました。
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ガイド本に、熊笹の道、とありましたが、熊笹はほとんど生えていないのも、この道でいいのかの不安の一因でしたが、わずかばかりの熊笹なら生えていました。
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案内板が見えてきたので、この道で大丈夫らしい、とほっとしました。


【長坂道】

12:45 長坂道
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案内板
「中仙道をしのぶ古い道である。 」


その先、T字路を右へ行くべき所を左に行ってしまい、間違いに気づいて戻ってきたら、さっき間違えた分岐に戻るのに10分かかりました。

間違えて歩いていた道
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12:55 先ほどの分岐に戻りました。
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こちらが正しい道
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中山道と、安政遠足の道(皇女和の宮の道)が合流します。

11年前は、旧中山道ではない方の、和の宮の道を歩いてきました。

11年前のブログより

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暫くすると、旧中山道と合流。ちょうど合流地点付近に、仁王門跡、思婦石などがありました。思婦石は、ヤマトタケルが亡き妻、オトタチバナヒメを思って嘆いた、という故事に因んだもの。

ヤマトタケルが走水で入水したオトタチバナヒメを思って「あづまはや」と言ったのが、ここの碓氷峠という説が一番の定説になっていますが、実は碓氷峠は3カ所あって、私は学生時代に、ヤマトタケルが「あづまはや」と嘆いた碓氷峠は、箱根の碓氷坂ではないか、という説を書いたことがあります。

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【思婦石、仁王門跡】


12:57 思婦石(おもふいし)
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案内板
「 思婦石

群馬郡室田の国学者 関橋守(せきのはしもり)の作で、安政四年(一八五七)の建立である。
 ありし代に
   かえりみしてふ
       碓氷山
 今も恋しき
    吾妻路のそら 」

12:57 石仏石塔群
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12:57 仁王門跡
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案内板
「 仁王門跡

もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。 」


12:58 中部北陸自然歩道道
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上州碓氷峠越えのみち
←坂本宿8.5km・霧積温泉6.1km
熊野神社0.3km


11年前のブログより

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暫く林道へと進むと、霧積温泉への道との分岐に出ました。

西条八十の帽子の詩を思い出しました。

「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。(後略)」

松田優作主演、ジョー山中の主題歌で話題となった映画「人間の証明」の1シーンで、吊り橋から麦わら帽子が落ちていく、あのシーンが目に浮かんできました。

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【史蹟 赤門屋敷跡】


13:00 力餅、見晴亭(閉まっています)
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13:01 史蹟 赤門屋敷跡
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案内板
「 史蹟 赤門屋敷跡

江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為『中山道』が碓氷峠熊野神社』前を通り、此の赤門屋敷跡には『加賀藩前田家』の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿『追分・沓掛・軽井沢』を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(一八六一)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。明治十一年(一八七八)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町『峠部落』も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。此の屋敷は熊野神社代々の社家『峠開発の祖』曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門『御守殿門』及び格調高い『上屋敷』の滅失が惜しまれている。

赤門の由来
現在 東京本郷 東大の赤門が現存しており、此の門は文政十年(一八二七)今から約百七十年前、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ十一代将軍徳川家斉(いえなり)の息女溶姫(ようひめ)の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。

平成七年五月十五日

熊野神社 宮司 曽根恒季 」



熊野神社 県境】

13:02 熊野神社
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安政遠足決勝点

「信州STYLE」より

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沿岸防衛が重要視される安政2年には安中藩主・板倉勝明が50歳以下の藩士の鍛錬のため、藩士96人を安中城の城門から碓氷峠熊野権現まで徒競走をさせています(『安中御城内御諸士御遠足着帳』)。
これが有名な「安政遠足」(あんせいとおあし)で、日本のマラソンのルーツともいわれています。途中で碓氷峠の関所、ゴールの熊野権現で神主のサインを受け、帰路も駕籠(かご)などを使えば厳罰というお達しでした。峠では力餅の接待が用意されていました。
毎年5月の第2日曜には安中城址をスタート地点に、旧碓氷峠をゴールにする30km(標高差1050m)という過酷な『安政遠足侍マラソン大会』が開催されています。

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県境があります。
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13:03 山口誓子句碑
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案内板
山口誓子句碑

朝日俳壇で活躍していた山口誓子の作を刻んで昭和50年に建立されました。

剛直の冬の妙義を引寄せる

(この下に、同内容を英語、ハングル、中国語で書いてあります。) 」


碓氷峠熊野神社

群馬県神社ゴシュインマップ」より

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【由緒】
熊野神社は「碓氷権現」「熊野権現」として世に知られる、日本三大熊野の一つ。中山道碓氷峠の頂上に位置し、群馬県と長野県の県境が神社の中央を通っている。景行天皇40年(西暦110年頃)日本武尊は上野を経て碓氷坂に差し掛かったが、濃霧にて迷われた。その時、一羽の大きな八咫烏が紀国熊野山の梛の葉を咥え来て尊の御前に落しながら道案内をし、尊は無事頂上に達することができた。碓氷峠に立った尊は棚引く雲海より海を連想され、相模灘で入水された弟橘姫を偲び「吾嬬者耶」(嗚呼愛しき吾が妻よ)と三度嘆かれた。以後ここより東の国を吾妻と呼ぶこととなった。(日本書紀)このことからこの地に日本武尊が紀国熊野の大神を勧請した。

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碓氷峠熊野神社の古鍾

「信州STYLE」より

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上州側の新宮には1292年に鋳造されたことが刻まれた「正応五年」銘入りの古鐘がありますが、群馬県側ということで、現存する群馬県最古の鐘として県の文化財に指定されています。
刻まれた銘には「奉施入臼井到下今/熊野大鐘 事/正應五年壬辰夘月八日/右志者為松井田一結 衆/十二人現當悉地成就也」とあり、松井田の住民12人(武士12人)が結縁して卯月8日(釈迦生誕の日)に寄進したものとわかります。鋳造当時は別当寺(神仏混交時代に神社を守護する寺)の神宮寺にあったものと推測され、安政3年(1856年)、大砲鋳造のため引き上げを命ぜられたが、当時時鐘として用いられていたことから軽井沢宿の人々の嘆願により許され、現存しています。
安政2年(1855年)に水戸藩では那珂湊反射炉建設(大砲鋳造のための反射炉)が始まり、安政3年には中小坂鉄山(なかおさかてつざん/群馬県下仁田町にあった鉄鉱山)の磁鉄鉱調査など水戸藩への鉄供給が安中藩に迫られる課題だったのです。

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【旧中山道碓氷峠道跡】

13:05 旧中山道碓氷峠道跡
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案内板
「 旧中山道碓氷峠

 江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津東海道と合する。
 この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
 『旅人の身を粉に砕く難所道
      石のうすいの峠なりとて』

 『苦しくも峠を越せば花の里
      みんな揃って身は軽井沢』
 
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の 神、熊野権現が祀られている。
 現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。

 軽井沢町教育委員会
 軽井沢町文化財審議委員会 」


トイレに行きたかったので、見晴台入口の門を潜って、トイレに行きました。

曇っていたし、ここの見晴台は以前にも来たことがあるので、見晴台へは上りませんでした。


2度目の中山道7日目の5(碓氷峠から軽井沢宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/28/165914

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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003