紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

史蹟 赤門屋敷跡

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案内板
「 史蹟 赤門屋敷跡

江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為『中山道』が碓氷峠熊野神社』前を通り、此の赤門屋敷跡には『加賀藩前田家』の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿『追分・沓掛・軽井沢』を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(一八六一)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。明治十一年(一八七八)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町『峠部落』も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。此の屋敷は熊野神社代々の社家『峠開発の祖』曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門『御守殿門』及び格調高い『上屋敷』の滅失が惜しまれている。

赤門の由来
現在 東京本郷 東大の赤門が現存しており、此の門は文政十年(一八二七)今から約百七十年前、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ十一代将軍徳川家斉(いえなり)の息女溶姫(ようひめ)の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。

平成七年五月十五日

熊野神社 宮司 曽根恒季 」