紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

陣場が原・子持山

陣場が原
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案内板
「 陣馬が原

 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。 」


子持山
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案内板
子持山

 万葉集第十四 東歌中
       詠人不知

 兒持山若かへるでの
      もみづまで
 寝もと吾は思う
     汝はあどか思う
      (三四九四) 」
          

 この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、

 子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?

注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。

 山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。

歌垣(うたがき) wikipediaより

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古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になるとされる。語源は「歌掛き(懸き)」であり、東国方言の「かがい(嬥歌)」も「懸け合い」に由来すると考えられている。時期としては春秋に行われ、生産の予祝・感謝としての性格を持っていたとされる。

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歌垣は元々中国の風習で、ベトナムを 経てインドシナ半島、フィリピンやインドネシアでも似た風習があるそうです。

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