「群馬県神社ゴシュインマップ」より
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【由緒】
当熊野神社は「碓氷権現」「熊野権現」として世に知られる、日本三大熊野の一つ。中山道碓氷峠の頂上に位置し、群馬県と長野県の県境が神社の中央を通っている。景行天皇40年(西暦110年頃)日本武尊は上野を経て碓氷坂に差し掛かったが、濃霧にて迷われた。その時、一羽の大きな八咫烏が紀国熊野山の梛の葉を咥え来て尊の御前に落しながら道案内をし、尊は無事頂上に達することができた。碓氷峠に立った尊は棚引く雲海より海を連想され、相模灘で入水された弟橘姫を偲び「吾嬬者耶」(嗚呼愛しき吾が妻よ)と三度嘆かれた。以後ここより東の国を吾妻と呼ぶこととなった。(日本書紀)このことからこの地に日本武尊が紀国熊野の大神を勧請した。
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碓氷峠熊野神社の古鍾
「信州STYLE」より
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上州側の新宮には1292年に鋳造されたことが刻まれた「正応五年」銘入りの古鐘がありますが、群馬県側ということで、現存する群馬県最古の鐘として県の文化財に指定されています。
刻まれた銘には「奉施入臼井到下今/熊野大鐘 事/正應五年壬辰夘月八日/右志者為松井田一結 衆/十二人現當悉地成就也」とあり、松井田の住民12人(武士12人)が結縁して卯月8日(釈迦生誕の日)に寄進したものとわかります。鋳造当時は別当寺(神仏混交時代に神社を守護する寺)の神宮寺にあったものと推測され、安政3年(1856年)、大砲鋳造のため引き上げを命ぜられたが、当時時鐘として用いられていたことから軽井沢宿の人々の嘆願により許され、現存しています。
安政2年(1855年)に水戸藩では那珂湊の反射炉建設(大砲鋳造のための反射炉)が始まり、安政3年には中小坂鉄山(なかおさかてつざん/群馬県下仁田町にあった鉄鉱山)の磁鉄鉱調査など水戸藩への鉄供給が安中藩に迫られる課題だったのです。
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