紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き15日目の2(奈良井宿)

2度目の中山道15日目の2
3月25日(水)の2


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奈良井宿入口】


10:40 馬頭観音
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10:41 「ならい」の文字の植え込み(躑躅でしょうか)
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10:42 「ならい」植え込みの上から川を見下ろしました。
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10:43 奈良井踏切
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10:46 丸山漆器大谷石
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塩尻市観光協会「時めぐり」より

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奈良井駅北側に建ち、石造三階建、切妻造、妻入、桟瓦葺である。大谷石積みで栃木県宇都宮大谷から運び、石工を招いて建築された。妻にペディメント表し、2階と3階の妻面には石造の庇がついた窓を設けており、特徴的な外観かつ丁寧に施工された石蔵である。国登録有形文化財

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10:50 奈良井駅 トイレを借りました。
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10:55 奈良井宿入口
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案内板
「 国選定重要伝統的建造物群保存地区
長野県塩尻市奈良井

所在地 長野県塩尻市奈良井
面積 約17.6ha
選定年月日 昭和53年5月31日

奈良井宿は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。
奈良井宿は、中山道最大の難所と言われた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く、『奈良井千軒』とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。
建物の大部分は中二階建てで、低い二階の全面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど、鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成している。 」


11年前のブログより

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奈良井宿は、江戸時代にワープしたような町並みです。卯建(うだつ)が上がる家々が並んでいました。

奈良井宿は標高約940mと、中山道中、最も高いところに位置しています。

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【水場と奈良井宿町並み】

10:58 下町水場
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あぶらや
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町並み
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湯筒屋
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漆器
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民宿「豊飯豊衣(ほいほい)」
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町並み
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民宿「しまだ」
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11:00 水場
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町並み
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11:02 茶房
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抹茶オレホットを飲もうと、中に入ろうとしたら満席でした。

町並み
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越後屋で昼食】

11:03 越後屋 昼食
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ラーメン500円
五平もち350円(胡麻味噌2個、蕗味噌1個)
そば茶とお漬け物
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勘定書の裏側に書いてありました。
「ありがとうございました。
又御出かけください。
奈良井宿
越後屋
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11:29 出発
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煙草屋
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11:30 横水 水飲み場
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町並み
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松坂屋
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食事処たなかや
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美しい連子格子
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旅館 越後屋
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せんべい 会津
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町並みf:id:asiandream0804:20200715121629j:plain


【上問屋跡】

11:35 上問屋跡
上問屋資料館
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奈良井宿観光協会ホームページより

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国指定重要文化財
上問屋資料館は古文書・陶器・漆器など400点余りの諸道具を展示しており、国の重要文化財に指定されています。
昔宿駅には幕府の役人や諸大名・その他の旅行者用のために、幕府の定めた一定数の伝馬(てんま・宿駅用の馬)と歩行役(人足)とを定備しておき、旅行者の需に応じていました。これを宿駅制度(宿場・伝馬制度)といいます。
木曽11宿には1宿につき25人の歩行役と25疋の伝馬を用意していたといいます。

この伝馬と歩行役を管理運用していたのが「問屋(といや)」です。問屋の下には数人の年寄役があって、問屋を補佐していました。
奈良井宿の上問屋は慶長年間(1602年)から明治維新までのおよそ270年間継続して問屋を務めました。時には庄屋を兼務することもあったようです。

その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示したのがこの資料館です。
往時を偲ぶよすがとなれば幸いです。

入館料:大人300円/子供200円
(団体割引あり/30名以上 1割引

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明治天皇御駐輦所・明治天皇奈良井宿行在所
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【鍵之手】

11:37 鍵之手(枡形)
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11:37 不動堂
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鍵之手水場
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鍵之手の店
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鍵之手を振り返る。
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【中村邸など】

町並み
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駒屋
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11:39 中村邸
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奈良井宿観光協会ホームページより

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元櫛問屋

元櫛問屋・市指定有形文化材
漆櫛の商いをしていた中村邸は、奈良井宿の典型的な民家造りの家です。
現在も昔のまま資料館として一般に公開されています。

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戈田(ほこた)屋漆器
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竹仙堂
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町並み
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【高札場跡・鎮神社】

11:42 高札場跡
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11:42 宮の沢の水場 奥に庚申塔道祖神があります。
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11:42 鎮神社
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案内板
「 鎮神社 shizumejinja shrine

奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ )寿永から文治(12世紀後期)のころ中原兼遠が鳥居峠に建立、天正年間(一五七三~九二)にいたり、奈良井氏が現在地に移したとつたえる。また、元和四年(一六一八)に、疫病流行を鎮めるため、下総国香取神社を勧請したことから、鎮(しずめ)神社と呼ばれるという。本殿は、寛文四年(一六六四)の建築で、村指定有形文化財。社叢は、村指定天然記念物。 」


奈良井宿も終わる頃、鎮神社があり、その奥の石段が鳥居峠の登り口です。


11:43 楢川歴史民俗資料館
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塩尻市観光協会ホームページより

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木曽の生活・暮らしを知る 鳥居峠の登山口にあるこの資料館には、木曽谷に暮らした人々の生活を偲ぶ数々の品物や生活道具が展示されています。 宿場当時の江戸時代から、明治〜大正〜昭和へと時代の流れに沿って変化していく暮らしを見ることができます。奈良井宿の概要を知るのには必見の資料館です。伝統的な奈良井宿のお祭りのことについても知ることができ、こちらで奈良井宿の切り絵のオフィシャルグッズも購入することができます。

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楢川歴史民俗資料館前にある句碑
「 お六櫛
つくる夜なべや
月もよく

山口青邨


石仏石塔群
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何の碑でしょうか。碑面が読めません。
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11:46 分岐の方へ上る(山道へ)
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2度目の中山道15日目の3(鳥居峠)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/17/184833



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き15日目の1(贄川宿2〜旧平沢村)

2度目の中山道15日目の1
3月25日(水)の1


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仕事が減ってしまったり、エトセトラ後から旅が増えましたが、1月から計画していた本命の青春18きっぷ旅は、今回の中山道歩き。

今日は木曽路贄川〜奈良井〜鳥居峠〜藪原〜宮ノ越、そして本当は木曽福島まで行きたかったのですが時間切れで、原野駅まで、41,504歩、約30キロ歩きました。


贄川関所を見下ろして】

前夜、日野(東京都)のホテルに泊まり、日野駅、朝4:43発の電車に乗って、高尾、大月、甲府塩尻で乗り換えて、8:30に贄川着。

新府駅付近では富士山が右に見えたり左に見えたり、それも、思っていたより大きく富士山が見えました。

新型コロナウィルス感染防止のため、しょっちゅう送風があり、寒いです。これで風邪ひいたら、余計新型コロナウィルスに感染しちゃうんじゃないかなあ。

贄川駅でトイレを済ませて、8:33に出発。
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8:37 贄川関所とトンネルを見下ろしました。
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12月に贄川関所に来たときには、閉館間近だったため、「また3月に来ます」と言いましたが、関所&木曽考古館の開館は9:00で、まだ開かない時間だし、もしかしたら今は新型コロナウィルスの影響で閉館中の可能性もあるので、残念ながらパス。
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8:38 メロディ橋
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贄川宿

8:40 贄川宿へ入ります。
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8:41 水場
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8:42 贄川本陣跡
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今回は「贄川本陣跡」の看板が出ていましたが、11年前には何もなく、どこか分からずに通りすぎてしまいました。

11年前のブログより

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2009.9.8.

贄川宿の街は、昭和5年の大火で多くの建物が焼失してしまいました。

公民館が本陣跡でしたが、看板も標示もありませんでした。

その中で、深沢家住宅は江戸時代末期に建てられたものが保存されていて、平成17年に国の重要文化財に指定されました。

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往時の本陣跡は焼失しましたが、ずっと本陣を務めていた千村家が今も贄川宿にお住まいなので、今の千村家の門前に「本陣跡」の札を出しているらしいです。

脇本陣も焼失しましたが、脇本陣を務めた贄川家も、今も贄川宿にお住まいのようです。


8:43 麻衣廻(あさぎぬの)神社
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案内板
「 麻衣廻(あさぎぬの)神社

天慶年間(九三八〜九四七)に創立。天正十年(一五八二)に戦火により焼失し、元禄年間(一五九二〜九六)に現在の地に再建したと伝える。祭神は建御名方命で、毎年春の祭りに加え、六年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。


観音寺

高野山金剛峯寺を本山とする真言宗の寺院で、本尊は十一面観音。山門は寛政四年(一七九二)に再建された楼門で、楢川村有形文化財に指定(昭和六十年) 」


8:43 津島神社
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8:45 まるはち漆器
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8:46 水場 津島神社秋葉神社
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8:46 国重要文化財深沢家住宅
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案内板
「 国重要文化財 深澤家住宅三棟

所在地 長野県塩尻市大字贄川
一六二二番地
所有者 深沢辰夫(千葉県流山市)

主屋 桁行10.6メートル 梁間17.3メートル
二階建、切妻造、
東面便所及び廊下附属、鉄板葺
北蔵 土蔵造、桁行3.3メートル、
梁間9.1メートル、
二階建、切妻造、鉄板葺
南蔵 土蔵造、桁行3.4メートル、
梁間8.4メートル、
二階建、切妻造、鉄板葺
附・家相関連資料 五点(家相図 四枚、 地理家相建物之断書 一冊)

宅地 564.47平方メートル 一六二二番地
右地域内の石垣を含む


深澤家は、屋号を加納屋と称し、行商を中心とする商家を営み、文化年間には、京、大阪などにも販路を伸ばし、幕末には、名字を許されるなど贄川屈指の商人となった。中山道に西面した短冊形の敷地に中山道に面して主屋が建ち、その背後に中庭をはさんで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は嘉永五年(一八五一)の大火後の再建で、同七年に竣工したと伝え、北蔵は文政四年(一八二一)、南蔵は文久二年(一八六二)に建築されたものである。
深澤家住宅は、各建物の建築年代がほぼ明らかで、保存状態もよく、江戸時代末期の木曽地方における宿駅の町家の姿を忠実に留め、主屋の規模の大きさ、独特な正面外観、整然とした架構、洗練された細部によって重厚で落ち着いた室内を構成し、木曽地方の町家建築の到達点を示す建物で価値が高い。

塩尻市教育委員会

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8:48 右折
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8:49 左折
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8:50 跨線橋で線路を渡る
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贄川のトチ】

8:52 中山道 贄川のトチ
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案内板
「 長野県天然記念物
贄川のトチ
昭和四十四年七月三日指定

トチは、トチノキ科・トチノキ属でヨーロッパ・北米・東南アジア等に約二十四首が知られているが、日本ではただ一種の落葉高木である。
北海道から九州北部まで広く分布し、山野に自生する。特に東北地方に多いが、本県においても古来夏緑広葉樹の代表樹である。また実は、あくぬきをして『トチモチ』を作ることでも知られる。

この樹は、樹令約千年と推定され根もとの周囲が十メートル以上あり、コブの上(約一メートル上)では、八・六メートルの巨木であり、県内に現存するトチの木として最大でのものである。
また、コブの上約三メートルから太枝が分かれ、さらに五本に分岐して茂り、枝張りも、樹姿、樹幹の美しさにおいても県下第一のものであろう。
地元では、樹木の下にまつられる小祠(ほこら)(ウエンジン様)にちなみ、『ウエンジンサマのトチの木』と呼び昔から大切にしているものである。

長野県教育委員会


天然記念物に指定されている中信地方の樹 (昭和62年3月現在)

県天然記念物

大塩のイヌサクラ...北安曇郡美麻村
(S.37.7.12 指定)
梓川のモミ.........南安曇郡梓川村
(S.37.9.27 指定)
乳房イチョウ.......南筑摩郡生坂村
(S.40.4.30 指定)
石原白山社のスギ...北安曇郡小谷村
(S.40.4.30 指定)
千手のイチョウ.....松本市山辺
(S.40.7.29 指定)
妻籠キンモクセイ..木曽郡南木曽町
(S.43.3.21 指定)
大野田のフジキ......南安曇郡安曇村
(S.43.5.16 指定)
贄川のトチ..........木曽郡楢川村
(S.44.7.3 指定)

(指定年月日順) 」


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このトチを間近に見るために設置された鑑賞台(物干し台か、別荘のベランダみたいな木の柵のようなもの)が壊れていて載ることが出来ず、足元に気をつけて木の根本から見上げました。

勇壮な巨大なトチの木。中山道を行き交う旅人をずっと見下ろしてきたのでしょう。


9:07 石仏石塔群(桜宮跡)
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道路の右側を歩いていたら、左の脇道に入れず、旧道の出口でやっと合流出来ました。

脇道を少しだけ戻ると、一里塚跡があります。


【押込一里塚跡】

9:18 押込一里塚跡
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案内板
「 押込一里塚

一里塚のある桃岡地区は、江戸時代に押込村に属していたため、押込一里塚と呼ばれた。
一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、押込一里塚は鉄道と国道十九号線の敷設で面影をとどめてなく、片側の塚は現在畑になっている。
押込一里塚から北に向かうと、木曽十一宿北端の贄川宿に入る。宿場内の中町には本陣と脇本陣があったが、本陣の建物は現存していない。
江戸時代に贄川宿の北のはずれに、『女改め』と、木材の監視・統制をする『新良貴改め』の役割を担った贄川関所があった。昭和五十一年に当時の姿を忠実に復元した贄川関所が再建された。

平成二十七年三月 NPO法人木曽ユネスコ協会

説明文 楢川中学校三年生 北原眞悠 」


9:19 国道に合流
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奈良井川の橋を渡ります。
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9:25 左斜めへ
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こんな道を歩きました。
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9:32 長瀬集会所 長瀬バス停
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9:35 国道と合流
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9:41 セブンイレブン塩尻木曽平沢
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トイレをお借りして、R-1ヨーグルトを買って飲みました。

9:48 右、県道へ
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【木曾平沢】

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案内板
「国選定重要伝統的建造物群保存地区 長野県塩尻市木曾平沢

全国有数の漆器産地である木曽平沢は、北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。慶長3年(1598)、奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられ、この道沿いに居住することにより成立したと考えられています。この道は、慶長7年(1602)、徳川幕府により『中山道』の一部として整備されます。

木曽平沢は、木曽11宿の一つである奈良井宿の枝郷でした。近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、近世後期になると『平沢塗物』の名で流通するほどに発展します。明治以降も技術革新によって成長し続けました。木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、その地位を維持し続けています。保存地区は、東西約200m、南北約850mの範囲です。

南北に本通り(中山道)と金西町の街路が縦断し、この2本の街路に面して、奥行き深い短冊状の敷地が並びます。

木曽平沢では寛延2年(1749)に大火があり、復興にあたり防火対策として行われた町割りが、現在の町割りの基盤になっているとされています。主屋は街路との間に若干の空き地を取って配されます。中庭を介して漆塗りの作業場であるヌリグラが置かれ、その奥に離れや物置が続きます。主屋を敷地間口いっぱいに建てず、隣家との間に余地を残して塗り蔵への通路とするのも木曽平沢の町の特徴です。伝統的な形式の主屋は中二階あるいは二階建て切り妻平入りで、かつては板葺き石置き屋根でした。間口は三間を標準的規模とし、通り土間にそって、表からミセ、オカッテ、ザシキを並べる基本平面を取ります。塗り蔵は二階建て置き屋根の土蔵造りで、湿度と温度を保ちやすく、通常の土蔵よりも開口部を大きく取るなど漆器の作業に適した造りとなっています。このような作業蔵は漆器生産で生計を立ててきた木曽平沢を特徴付ける建物と言えます。

塩尻市木曽平沢伝統的建造物地区は、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となって、漆器生産の町としての特色ある歴史的風致を良く伝えています。このことが評価され、平成18年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。」

10:05 諏訪神社
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右の道に入ったのですが、どうも違うみたいです。
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中山道ではないみたいですが、方向は大丈夫そうなので、この道をこのまま進みます。
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10:13 旧平沢村
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古い面影を遺す素敵な町並み。ほとんどが漆器店です。
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10:21 津島神社
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10:25 漆器店の先から、右斜め下り坂へ
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10:26 JRのガード下を潜りました。
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【土手の道】

10:27 土手の道
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10:31 対岸に、橋戸の一里塚跡
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10:34 楢川小学校の裏側
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11年前に来たときには、遠くから楢川小学校が見えて、正面側から見ることが出来たのに、今回はたどる道が違うみたいです。

私が間違えたのか、ガイド本が変わると、大筋は同じ道でも、少しずつ違う道が紹介されているのか、どうなのかなあ。

奈良井川橋が見えてきました。
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10:38 自然石の道標
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10:38 奈良井川橋を渡ります。
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2度目の中山道15日目の2(奈良井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/15/174518


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き14日目の5(贄川宿の1)

2度目の中山道14日目の5
12月28日(土)の5

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【只今の気温0℃】

国道19号線に戻り、

15:22 「只今の気温 0℃」の電光掲示
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15:25 贄川駅前の水場
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15:26 贄川駅 トイレを借りました。
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贄川メロディ橋】

15:33 メロディ橋
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鉄琴風で、叩くと木曾節のメロディを奏でます。

以前は叩くための槌のようなものがありましたが、見当たらないので、スマホの充電器で叩きながら歩きました。左側が木曾節前半、右側が木曾節後半です。

ただし、木曾節を知らないと、伸ばし方、跳ね方が分からないので、木曾節に聞こえないかも。

木曾のなー なかのりさん
木曾の 御嶽なんじゃらほい
夏でも寒い よいよいよい
よいよいよいのー よいよいよい

これが、

きーそーのーなーーあ なかのりさーんー
きーそーのーおーんーたーけー
なんじゃらほいー
なーつでーもー さーむーーい
よいよいよい
よいよいよいのー よいよいよい

こんな感じかな。

10年前に来たときには、小学生の女の子が叩いて見せてくれました。

今日は他に誰もいない。

ところで、贄川メロディ橋は、実は老朽化で解体が予定されているらしいのです。

市民タイムスより

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塩尻市は本年(2019年)度、贄川のJR中央西線をまたぐれんが造りのアーチ橋「メロディー橋」の撤去方法の検討を始める。明治42(1909)年に建設されて老朽化が著しく、れんがが貨車に落ちる事故も起きており対策は急務だが、撤去するには工法の難しさや巨額の費用といった課題がある。

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この記事に、「れんが造りのアーチ橋」とありますが、自分で渡っていると、そうは見えないので、ネットから写真を拾ってきました。こんな橋なんだ!
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メロディ橋に掲げられた木曾節の歌詞前半
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「木曽の ナー 中乗りさん
木曽の御嶽 ナンチャラホイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ

袷 ナー 中乗りさん
袷やりたや ナンチャラホイ
足袋そろえて ヨイヨイヨイ

木曽の ナー 中乗りさん
木曽の名木 ナンチャラホイ
ひのきにさわら ヨイヨイヨイ

ねずに ナー 中乗りさん
ねずにあすひに ナンチャラホイ
こうやまき ヨイヨイヨイ

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後半
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人は ナー 中乗りさん
人はみめより ナンチャラホイ
ただ心 ヨイヨイヨイ

心 ナー 中乗りさん
心細いよ ナンチャラホイ
木曽路の旅は ヨイヨイヨイ

男 ナー 中乗りさん
男伊達なら ナンチャラホイ
この木曽川の ヨイヨイヨイ

流れ ナー 中乗りさん
流れくる水 ナンチャラホイ
とめてみろ ヨイヨイヨイ

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木曾節の3番と4番は木曽の五木のことを歌っています。

ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ、こうやまき

この五木のことを歌っています。


贄川関所】

15:35 贄川関所
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塩尻市観光協会ホームページより

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贄川関所

中山道の人と物の往来を監視するために置かれた贄川口留番所で、女改め、白木改めなどの役割を担った。
明治はじめに取り壊されたが、多くの文献をもとに昭和51年に復元された。
実際の場所は鉄道敷地内になっている。
中山道の交通に関わる資料などを展示。

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案内板
贄川関所

贄川関所は明治二年福島関所とともに廃止され、建物も取り壊されました。現在の建物は、寛永4年の『覚』○○○明治九年発行『贄川○誌』の『古関図』を元に復元したものです。
なお、当時の関所○○の位置より西側に○○東を向いて建っていました。 」


JAPAN WEB MAGAZINEより

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贄川駅から歩いてすぐ、中山道贄川宿の北の端にあるのが、贄川関(贄川関所)だ。木曽路の最初の宿場である贄川宿において、福島関の補助的な関所として設けられ、1869年(明治2年)に関所が廃止されるまで、江戸時代を通して女改めや白木(木材)などの流通の監視など、重要な役割を果たした。

贄川の集落は、昭和5年に起きた大火で大半が焼失。この贄川関所は、昭和51年に様々な文献を元に関所があった場所のそば(実際の場所は現在のJR敷地内)に間取りや敷地面積も忠実に復元されたもので、現在、関所関連の資料を展示するほか、階下の木曽考古館では縄文時代の土器・石器なども展示している。

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【上段の間】

見学受付は本当は15:30:までで、もう5分過ぎていましたが、もう今日が最後で明日から休業だからと、特別に案内してくれました。

15:47 上段の間
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床の間の掛け軸は杜甫の詩で、
当時のものだそうです。
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15:47 武器の部屋
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武器は押さえるもので、
脅したりはしなかったそうです。
林業の人達が使う鳶口も
ありました。

いろりの部屋
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贄川駅から帰宅】


15:58 贄川駅に戻ってきました。
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贄川駅 16:06発の予定が遅れてきて、16:08発
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16:20 塩尻着 トイレへ行って、着替えもしました。

待合室で、コナンのパンシリーズの、キッドのホワイトジュエリーパンを食べました。

車内で食べる用にキオスクでおにぎりも買いました。

塩尻発16:59

19:00頃、車内でおにぎりを食べました。

19:48 大月着 19:54発 高尾行きに乗り換え、高尾で中央線、八王子で横浜線に乗って帰りました。


2度目の中山道15日目の1(贄川宿2)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/09/225142


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003





2度目の中山道六十九次歩き14日目の4(是より南木曽路)

2度目の中山道14日目の4
12月28日(土)の4


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日出塩前で線路を渡れなかった話】

13:06 日出塩分岐
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日出塩の桜の名所がすぐ近くにありました。

線路脇の道
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10年前に来たときは、線路左脇の道が正解だったし、ガイド本もこの道を行くように示していましたが、10年前に渡った踏切が見当たらないまま、

13:15 日出塩駅
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ここまで線路の左の道を来てしまうと来すぎなので、戻ることにしました。

13:18 以前は渡れたけれど、今は閉鎖された踏切跡
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と、この時は思って、写真1の分岐まで戻って、新しくできたらしい、線路を渡る道から日出塩に入ったのですが、日出塩の青木(洗馬の肘懸松と並び称される名所)を見ることが出来なかったのです。

しかし、後からよくよく地図を眺めると、多分もっと手前に線路を渡れる踏切があったのではないかと気づきました。

目印がオレンジのカーブミラーなのですが、行きすぎてしまった私がその先で見たのもオレンジのカーブミラーだったのです。

ひとつ前のオレンジのカーブミラーに気づいていれば、踏切も渡れたし、日出塩の青木も見ることが出来たはずです。


日出塩一里塚跡】

13:22 やり直しの道
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さっきも書いたように、本来もっと早く線路を渡れる渡っているはずでした。

先ほどは写真の左側の道(線路の左脇の道)を進みましたが、今度は写真の右の道、線路を渡る道を進みました。

13:27 日出塩一里塚跡
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日出塩の一里塚跡
木の標柱
「 一里塚跡

六十一里塚 江戸より六十一里
京へ七十一里 両側に榎を植えた 」
側面
「平成四年九月吉日 日出塩区建之 」


13:29 長泉寺
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六地蔵が笠地蔵みたいでした。
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【旧道が山の中みたいになってくる】

13:34 筆塚・道祖神秋葉大権現
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国道19号線高架を振り返る
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13:38 中北道標
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13:38 下りていく道
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【初期中山道と桜沢トンネル】

13:51 初期中山道説明板
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初期中山道

suwako.jp(諏訪湖周辺観光情報サイト)より

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初期中山道は、
下諏訪から牛首峠を通って桜沢に至るまでの全長約26kmの街道でした。
この初期中山道は作られてから約十数年で利用されなくなりました。

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案内板(右下)
「初期中山道
中山道は江戸時代の五街道の一つで、初期中山道は慶長6年(1601)に大久保長安によって整備されました。牛首峠を越し小野宿を経て三沢峠へ抜ける道が整備され、元和元年(1615)頃まで利用されました。
当時、中山道の道筋制定に当たって、長安が考えていた一つは、木曽路の山林開発を促進するための経済道路としての構想だったようであり、そのため諏訪と木曾を結ぶ近道として、下諏訪から岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、それより牛首峠を越して木曾の桜沢をくだって贄川に至る道路を選んで開削し、小野街道と称して中山道の本道としました。
長安が没すると諏訪から塩尻峠を越え塩尻に出る道路に変更され、それ以降、小野街道あるいは初期中山道などと呼び、小野を中心にして諏訪・木曾・伊那方面に往来する道路となりました。
辰野町

案内板
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「中部北陸自然歩道

木曾工芸の里峠越えのみち 17.1km

起点― 楢川村 桜沢
終点― 木祖村 藪原

沿線の風景
『是より南木曽路』の石碑が建つ桜沢は、その碑文のとおり、木曽路の北の玄関口です。そこからいくつかの集落を経ると、木曾11宿の北端で、木曽福島関所の副関として重要であった贄川宿に入ります。南へ向かうと木曾漆器の産地・平沢があり、匠の里モデル工房が7軒あります。ここでは帰そ漆器の製造行程や作品を直接見ることができ、漆器を制作する体験コースもあります。奈良井川の清流に沿って行くと木曾11宿で最も繁栄した宿場の奈良井宿があり、300年にわたる街道文化を今に伝えています。ここから鳥居峠へ登る道は、石畳の道が復元され、峠に立つと木立の間から、奈良井宿藪原宿を眼下に望み、遠くに御岳山、木曽駒ヶ岳乗鞍岳が眺望でき、まず、ここは、木曽川信濃川の支流奈良井川分水嶺です。かつては難所といわれたこの峠道も、今は歩道として整備され、どなたにでも気軽に大自然を満喫する体験ができます。峠から3km程で、藪原宿に到着します。

13:54 建設中の新トンネル(桜沢トンネル)
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私はてっきり現在トンネルを掘っているのだと思ったのですが、貫通式がつい先日、12月15日に行われたそうです。まだトンネル内工事が残っており、実際に通行できるのはまだ先のようです。

このトンネルは全長1.5km、現在作っている国道19号線バイパスは全長2.1km。

現在はカーブが多く、災害時の事故も起きていますが、完成すれば直線の4車線になるそうです。


13:55 「是より南木曽路」の道路標識
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【「是より南木曽路」】

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案内板
「 是より南木曽

この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和一五年に建立。裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。 」

ここから突然山道!
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木曽路はすべて山の中

国道がはるか下に見えます。
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【山道にて】

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14:06 石塔群
三面六臂馬頭観音
明和九年(1772)建立の名号碑
道祖神

この三面六臂馬頭観音を、もっと手前にある馬頭観音と勘違いしたため、この石塔群から右下に下りて国道に出るのに、まだ山道だと思ってしまい、昔の桜沢道をしばらく歩きました。
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トンネルやガードレールや、廃バスや、ベンチも2台ありました。今の季節だから枯れ草を踏みしだいて歩けるけれど、緑が繁る季節だったら藪こぎだなあ。

この辺りの景色、好きです。
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しかしこの先、写真を撮る余裕がなくなりました。

網が張ってあって、それを避けて上へ行ってみたり下へ行ってみたり。

でも、この先とても進めないと思い、その時点では、山道を諦めて国道に出よう。正解をどなたか中山道ウォーカーにSNSで聞いてみよう、と思っていました。

14:28 旧ガードレール。
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やっと写真を撮る余裕が出来ました。この近くに廃バス。これは怖くて撮りませんでした。


三面六臂馬頭観音庚申塔

14:32 三面六臂馬頭観音まで戻ってきました。
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無事のお礼と、これからの旅の安全をお願いしました。

こちらの写真は、三面六臂馬頭観音のアップ。
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右下の急坂を下りて、国道19号線に合流。

暫くは、あの先の山道の正解を知りたくて、左上の山道ばかり見ていました。どこかに山道から下りてくる口があるのではないか、と。

でも、地図を何度か眺めるうちに、私が手を合わせた三面六臂馬頭観音から国道19号線に下りてくる道が正解で、私が暫しさ迷った山道はただの時間の無駄であったことに気づきました。

あの時、山道を諦めて三面六臂馬頭観音まで戻ってよかった!

14:43 白山神社
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14:46 庚申塔
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【旧片平村】

14:49 旧片平村への分岐
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中北道標
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14:52 旧片平村を振り返る
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14:54 桜沢トンネルの出口
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暫くは国道の歩道を歩きます。

【若神子一里塚跡と水場】

14:57 若神一里塚跡
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工事中で歩行者迂回で、遠くからしか見られませんでした。

私の写真では案内板の文字が見えないので、探してきました。

案内板
「 若神子一里塚

塩尻市指定文化財 60.3.15.
楢川村文化財(史跡)指定

一里塚は、街道の里程の目安として一里ごとに道の両側に設置された塚で、榎や松が植えられ往時の旅人の休息の場ともなっていた。
この若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち、楢川地域内の5箇所の一里塚の内のひとつで、江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。
塩尻市教育委員会

14:59 中北道標
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旧若神子村へ
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15:01 若神子バス停の所の水場
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実際に生活に使われている、飲み水です。


【旧道を行く】

15:03 若神子の第二の水場
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15:04 石塔群
道祖神文三年(1534)建立
廿三夜待供養塔 明和二年(1765)建立
馬頭観音

15:06 Y字路の右の上り坂へ
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中北道標
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2度目の中山道14日目の5(贄川宿の1)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/182034


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003



2度目の中山道六十九次歩き14日目の3(本山宿)

2度目の中山道14日目の3
12月28日(土)の 3


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【本山宿下町石造群】

12:02 秋葉神社 本山宿下町石造群
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案内板
「 本山宿下町石造群

庚申塔 一基
供養塔
二十三夜塔
南無阿弥陀仏 文化二年
地蔵尊 二体
南無阿弥陀仏 徳本上人 文政二年
馬頭観音 馬持中 二体
道祖神 寛政二年
常夜燈 秋葉神社

秋葉神社

これらは宿場北端の下木戸(池生神社入口付近)にあったもので、秋葉神社は火除けの神様として信仰され、今でも年一度の代参が行われている。 」


【そば切り発祥の地】

12:08 本山宿そば切り発祥の地
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案内板
「 本山宿 そば切り発祥の地

中山道本山宿のそば切りは古くから様々な文献に紹介された。
『そば切りといっぱ もと信濃ノ国本山宿より出て あまねく国々にもてはやされける』 風俗文選 森山許六 宝永三年(1706)
『本山のそば 名物と誰も知る 荷物をここに おろし大根』 任戌紀行 太田南畝
享和二年(1802)

本山宿本陣の大名宿泊帳には、寛文四年(1664)にそば粉が進物として用いられ、寛文六年(1670)に 丹羽式部少輔(美濃岩村藩主丹羽氏純)に『そば切り御上げ申し候』と記録されている。

これらの文献よりそば切り発祥の由縁となっている。 」

※寛文四年が1664で、寛文六年が1670では、計算が合わないが、案内板のまま。

12:08 下木戸跡(目標物なし)
本山宿そば切り発祥の地の看板の辺りです。


【本山そばの里 宿場御膳】

12:10 本山そばの里
年内の営業は今日まででした。

本山では、中山道を旅する人々にそば切りをふるまってきましたが、明治に入り鉄道が出来ると中山道を歩く人が減ってしまいました。

そば切りはハレの日に食べる祝いの食べ物として、各家々で受け継がれていましたが、そば切り発祥の地である本山宿には蕎麦屋が一軒もなかったそうです。

本山の蕎麦の伝統を守り地域活性化につなげるため、平成三年に地元有志で「本山手打ちそば振興会」を発足。そばの注文販売を始めました。平成5年に信州博覧会でそばを販売し好評を得、平成6年に振興会の会員で出資金を募り、「そば切り発祥の地本山そばの里企業組合」を作り、本山に蕎麦屋を開きました。
(参考:塩尻市ホームページ)

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暖簾に書いてあるのは、


『 本山のそば 名物と誰も知る 荷物をここに おろし大根』
狂歌師 太田蜀山人

『そば切といっぱ もと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける』 風俗文選 雲鈴 一書


太田蜀山人は太田南畝の別号で同一人物。

風俗文選(当初は『本朝文選』)は芭蕉の門人、森川許六が編纂しましたが、その中に書かれている、このそば切りの文章は、許六の弟子の雲鈴が書いた言葉だそうです。

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前菜
パセリのお浸し・
瓜のカレー味の漬物・
野沢菜漬け

パセリのお浸しはびっくりしました。ここの、名物料理らしいです。

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12:19 宿場御膳1,160円
おそば・そば団子の汁物・
そば餅・
そばの実となめ茸の和え物

&サービスのそば餅(甘味噌かけ)
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どの料理も素朴で、どちらかというと薄味ですが、蕎麦尽くしなのに厭きることなく美味しくいただきました。

外にあるトイレを借りました。


【国の登録有形文化財

12:42 下社参道跡
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案内板
「 下社参道跡

下社(諏訪社)は昭和二十六年に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となった。 」


12:47 旅籠川口屋
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池田屋
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松屋
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案内板
「 国の登録有形文化財
川口屋・池田屋・若松屋

川口屋 小林家住宅主屋 桁行12m、梁間9・9m
二階全面千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。
二重出梁は、贄川宿 の深澤家住宅(国重要文化財)以外では唯一のものである。
池田屋 田中家住宅主屋 桁行12m、梁間12m
出梁造とし、二階全面に千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。棟に越屋根をつけている。軸部は弁柄塗りを施している。
松屋 秋山家住宅主屋 桁行8・7m、梁間12m
二階前面を腕木で持ち出す出梁造とし、管柱を立てて格子を設けている。二階全面に千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。
三軒とも明治二年の大火直後の再建と伝えられている。
間口は五間から七間の上級旅籠で、道筋に沿って斜交に建てられている。
中山道の華やか往来がしのばれる貴重な文化財である。 」


中山道 本山宿の大看板】

12:47 下問屋跡
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案内板
「 下問屋跡

明治六年、下問屋跡地に清行学校が創設された。廃寺になった長久寺の材木が使われ、
42坪の建坪であった。
明治八年には本山学校に改称され、57坪に増築された。
明治十三年の天皇行幸の際は、警護詰所に使われた。
本山学校は明治十九年、宗賀学校本山支校となって長久寺跡地へ新築移転された。 」


12:47 本陣跡
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12:48「中山道 本山宿」の案内板
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案内板
中山道 本山宿

 和銅五年(713)に開通した吉蘇路 において、本山は木曽谷から松本へ向かう重要な位置にあった。中世には東山頂に本山城が築かれ、ふもとに本山氏の館(本陣付近)や根小屋から宿場の原型となる集落が形成されていった。
 関ヶ原の戦では、徳川秀忠 軍が開戦当日の慶長五年九月十四日に本山に着陣していた。

 中山道 が制定された慶長七年(1602)、幕府代官頭大久保長安 は江戸の大普請の号令のもと、木曽の木材を搬出するため、江戸への近道として小野新道 をひらいた。これは桜沢から牛首峠をへて小野、岡谷・下諏訪へ至る道である。慶長十八年に長安の死後大久保事件の連座により、松本藩主石川康長が改易され、小笠原秀政 が入封した。秀政は慶長十九年(1614)、宿駅制度を整備し、本山宿に問屋職を定めた。また洗馬宿・塩尻宿 を新設して、もとの塩尻峠超えの道筋が中山道となった。
 本山宿 の問屋は、一ケ月の上十五日を小野七左衛門に、下十五日を小林八右衛門に命じ、半月交代とした。上問屋は小野氏(後に花村氏)が脇本陣と兼帯し、下問屋は小林氏が本陣と兼帯し、幕末まで続いた。

 本山宿は、南から上町・中町・下町で構成され、南北の長さ五町二十間(582m)、道幅は二間~三間、戸数百十七、本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠三十四軒であった。松本藩の南境として口留番所が設けられ、米穀・塩、女など通行改めが行われた。宿場用水は南の二つの沢から山斜面に堰や懸樋で引き込み、宿場の中央に用水を通し、五カ所に土橋が掛けられていた。
 本山の名物そば切りは、宝永三年の風俗文選に『そば切りといつばもと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける』と紹介された。また本陣では、そば粉やそば切りが諸大名に献上されている。
 文久元年(1861)十一月四日、本山宿は十四代将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮の宿泊地となった。京方一万人、江戸方一万五千人、松本藩などの警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日にわたり通行し、空前絶後大名行列となった。助郷二万人・馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったと伝えられている。
 慶応四年二月三十日、本山宿の長久寺において、松本藩主戸田光則東山道軍総督岩倉具定に勤皇の誓約をしたが、態度決定の遅れを理由に、三万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられた。松本藩の戊辰戦争の始まりとなった。 」


【本山口留番所跡 長久寺・常光寺跡】

12:50 上問屋跡・脇本陣
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12:52 本山口留番所
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案内板
「 本山口留番所

寛永十九年(1642)から幕末まで、松本藩によって口留番所 が置かれた。なお享和十一年(1726)から延享元年(1744)の十七年間は、塩尻組が幕府直轄領であったため、村井宿 に口留番所が置かれた。 」


口留番所 wikipediaより

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口留番所(くちどめばんしょ)とは、江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と称した。

戦国時代に戦国大名は領国内の要所に関所を設置し交通や物流の監視、関銭の徴収を行っていたが、江戸幕府寛永年間の武家諸法度の改正において諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていた。

だが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所であった。主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。前者には農民や欠落人(犯罪者)の逃亡防止・傷を負った者・女性、後者には専売品(各藩の特産品)の密輸防止や運上逃れの防止(品質や価格を維持するため)の目的とともに米などの穀物や金銀銅などを藩内に留めて必要な物資を確保しておく意図を有していた。弘前藩碇ヶ関などは特に有名であった。

また各藩において、通行する品物への税金、いわゆる「口役銀」(今でいう関税の様なもの)を徴収するのも口留番所の重要な役目でもあった。しかし、こうした税金を逃れるため不正を行う者が多くいたという。女性の通行に関しては特に厳しく、番所を通過するには、「関所女手形」が必要で、藩によっては通行を一切禁止する場所もあり、不正な通行には磔等の厳しい処罰が下される。また、鉄砲も女性同様に厳しく取り締まられ、「入鉄砲出女」という言葉が出たほどである。飛脚や位の高い武士は、そのまま通行することが可能だった。

番所の開門時間は、明け6つ(日の出)から暮れ6つ(日の入り)まで。日暮れになると門は閉められ、番所の一日は終わる。

また、江戸幕府においても裏街道に口留番所を設置した例はある。ただし、五街道の関所と比較すると小規模なものも多く、番所を破っても関所破りよりは軽い刑であったという。

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12:53 長久寺跡・常光寺跡
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案内板
「 長久寺・定光寺

長久寺(金峰山長久寺 曹洞宗
 天正年間に奈良井義高 が開基し、開山は長興寺三代の康翁寿泰大和尚、二世は充澤普和尚で、勢州渡会郡小林氏と縁あって当所へ来たる、と記されている。正徳三年(1713)には、千九百坪の地内に、客殿・衆寮・庫裡・十王堂など百二十二坪が建立されていた。慶応四年二月松本藩は東山道軍に当寺で勤皇の誓約を行った。明治四年、松本藩の厳しい廃仏毀釈により、十五世関宗和尚で廃寺となった。木材の一部は清行学校(下問屋跡)の校舎として使われた。

常光寺(小沢山常光寺 真言宗
 信濃三十三番札所のうち第二十一番
御詠歌『本山や 常の光の御寺にぞ 有明月に朝日かがやく』
 中世からの古寺で釜の沢奥にあった。以下の伝承が残されている。
 『奈良王という者、牛に経巻をつけて伊那路を超え、釜の沢に出る途中、山中に観音様を見つけたので、堂を建て安置し、そこを堂平といった。その後、宿入口に寺を建て小沢山常光寺と称した。天正の頃、堂塔焼失したので僧なく無住となった。』
 天正十年(1582)七月小笠原貞慶木曽義昌 の戦いがあり、観音堂付近で小笠原家臣が戦死した。
 また天和年間(1680年頃)に耶蘇教であったため廃寺になったとも伝られている。以後幕末まで、長久寺領の常光寺観音堂として残った。
 木曽名所図会 に、『本山観音 信濃巡礼二十一番也』と記されている。
 明治四年の廃仏毀釈で、観音堂は宝輪寺(松本市今井)に買いとられ再建された。本尊の十一面観音は行方不明になっていたが、明治九年に篠ノ井の岡沢彦次郎氏が偶然知った古物商から買い取り、信濃二十一番岡田札所常光寺として、お堂を建立して安置し現在に至っている。」


【高札場跡 常光寺観音堂跡】

12:54 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

高さ二間、長さ二間、横七尺。
宿の入口より三十間南に、建てられていた。

秋葉大権現 文政十三年
常夜燈 秋葉大権現 元治六年 」


12:56 常光寺観音堂
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その観音堂はどうなったんだろうと探していたら、たまたま見つけました。

長野市市制100年記念事業郷土史より

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長野市共和村の常光寺岡田観音堂

観音堂は、本組の西、長塚山の東山麓、遠くむこうに菅平の山脈が望める高台にある。地元の人たちにお観音さんと呼ばれて親しまれ、昔は子供たちの遊び場所でもあった。昭和55年境内は整備され、玉垣に囲まれた、間口3間、奥行き4間の立派なお堂に建て替えられた。

堂前には、定額山善光寺貫主義薫書の「信濃二十一番岡田観音堂」と銘記された石碑が信濃霊場としての風格を表している。石段を上り堂内に入ると、三段台座に蓮華台を置き、舟形光背っを背にした美しい十一面観音を拝することができる。厨子の扇の内側には脇待の不動明王毘沙門天が金箔地に極彩色で描かれている。

この観音は、中山道木曽路の入口である、本山宿の小沢山常光寺にあったが、天和元年(1681)廃寺となり、観音堂は村人に守られ残った。明治元年に公布された、神仏分離令による廃仏毀釈によりより廃堂となり、お堂は松本今井の宝輪寺に移築されたが、本尊の行方は不明であった。明治9年、信仰心の厚い岡田の岡沢彦治郎が、西国巡礼の途中名古屋の宿で同宿した古物商から本山の観音の話を聞き、信濃から由緒ある観音が他国に流れるのを惜しみ、古物商から買求めて自宅に持ち帰り、その後岡沢氏所有の現在地に堂を建て、これを安置し守り続けて今日に至ったものである。

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12:57 本山宿看板
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上木戸跡が所在不明でしたが、この本山宿看板辺りでしょうか?


2度目の中山道14日目の4(是より南木曽路)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/180236


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き14日目の2(洗馬宿)

2度目の中山道14日目の2
12月28日(土)の 2


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【肘懸松】

10:44 平出歴史公園交差点
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10:49 肘懸松(何代目かの松です)
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案内板
「 肱懸松(ひじかけまつ・肱松)

『洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる』と歌われた赤松の名木。細川幽斎が『肘懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風』と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肱をかけて休んだとの説もある。左方標柱辺りにあった。

洗馬区 」

案内板にあった、この古い写真が細川幽斎が詠んだ松と思われます。
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細川幽斎肘懸松碑
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10:50 洗馬宿への分岐
右下への細い下り道
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そこを下っていくと、右に「肘懸松跡」の標柱がありました。
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先程の案内板にも「左方標柱辺りにあった」とあるので、細川幽斎が 『肘懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風』と詠んだ松は、ここにあったのでしょう。


【分去れ】

10:51 分去れと常夜燈
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案内板
中山道善光寺街道の分去れ

中山道は右に折れて肱松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿 へと向かう。江戸へ30宿59里余。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯 は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った。

洗馬区 」


10:54 分去れ道標
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案内板
中山道善光寺道のわかされ

左側の道をおよそ50メートル行くと石造の「常夜灯」のある桝形にいたる。ここが中山道善光寺道のわかされであった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以後右側の新道が開通したおりに桝形からここへ移されたものである。

洗馬区 」


10:55 あふたの清水(邂逅の清水) 入口
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【あふた(邂逅)の清水】

10年前のブログより

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2009.9.7.

今日は、朝、神奈川県の家を出て来て、歩き始めたの時間が遅かったので、塩尻の次の宿場、洗馬(せば)宿に着いた頃は、もう日が傾き始めました。

洗馬宿は、昭和7年(1932年)の大火で20軒に及ぶ家が焼失し、当時の面影はほとんど失われてしまったそうです。

洗馬宿の太田(邂逅=あふた)の清水は、立て札が示す方向に従って坂を降っていくと、今もきれいな水がこんこんと湧いています。

木曽義仲が、後に歌神となる今井兼平と出逢い(邂逅し)、兼平が、この清水で義仲の馬を洗ったところ、馬が癒されて喜んだそうで、洗馬宿の名前の由来になっているそうです。

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10:58 あふたの清水(邂逅の清水)
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石碑
「 あふたの清水

木曽義仲弘仁三令與兵木曾谷討平氏相傳今井兼平自其郷來會邂逅于此時義仲馬額疼兼平牽至此泉洗足以醫其勞是地名洗馬之所以超也而里俗至今呼此泉為邂后清水恐舊蹟之久而煙没建石以表焉 」

このように読めますが、変換出来ない文字が二文字、仮の字で書いてあります。

「義仲馬額疼」と書きましたが、額ではなく友へんに頁、疼ではなくやまいだれに者です。

「信州の水50選」より

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木曽義仲が小県の依田城へ遠征した際、義仲の馬が強行軍のため疲れ果て、一歩も進むことができなくなってしまいました。そこで、義仲の忠臣今井四郎兼平は、この馬を村はずれに鬱蒼と茂る欅の根元からこんこんと湧く清水に引いてゆき、脚を洗ってやりました。すると馬はたちまち元気を取り戻したといいます。それ以来、この清水を「あふた(邂逅)の清水」と呼び、馬を洗ったことからこの地を「洗馬」と呼ぶようになりました。
 洗馬太田にも同じ由来の「太田の清水」があります。

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洗馬駅と洗馬宿について】

11:14 洗馬駅
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ここでトイレを借りました。

トイレを出たら、ちょうど貨物列車が通りました。
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駅から町に戻る道端には、樹齢がかなり嵩んでいると思われるどっしりとした桜の古木が数本並び、春の美しさが偲ばれます。

曲がり角の古い家(もう空き家なのか、どなたか住まわれているのかよく分かりませんでしたが)、古い、水原弘のホーロー看板が印象的でした。
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ここで、洗馬宿について。

塩尻市観光協会HP「時めぐり」より

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洗馬宿

中山道、左北国脇往還善光寺道」と記された道標が立ち、二つの街道の分岐点として栄えた洗馬宿は、起点の板橋宿から31番目の宿場です。

浮世絵師・安藤広重の木曽街道「中山道六十九次」の中で、唯一無二の佳作といわれる「洗馬」を描いた絵図は、洗馬宿にある「邂逅の清水」(あふたのしみず)から奈良井川を見た景色を元に描かれたといわれます。
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慶長18(1613)年に、下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る旧中山道が廃止された翌年、塩尻峠経由の路線が新たに中山道として設定された際、塩尻宿や本山宿と同じ頃新設された宿で、当時の洗馬は上の段を大怒田、下の段を新町と呼び、これらの村や近郷から人々を集めて宿場造りがされました。
その際、宿の南には新福寺(明治4年廃寺)と上神明宮、宿北に下神明宮が置かれました。
宿の北方は中山道と北国脇往還善光寺街道)の「別去れ」で道が左右に分かれ、「右中山道 左北国脇往還 善光寺街道」の道標が建っています。中山道を進むと桔梗ケ原を経由し塩尻宿へ1里30町、本山宿へ30町、善光寺街道を進むと郷原宿へ1里半の道のりで、江戸板橋宿から31番目の宿です。
上町・中町・下町(伊勢町)に分かれ、平均3間間口を1軒役として屋敷割されました。
天保14(1843)年には家数163軒、本陣、脇本陣問屋場があり、旅籠家は29軒でした。新福寺の入口には高札場があり、本陣の南側には幕府の貫目改所が置かれていました。中山道では板橋宿、追分宿と洗馬宿の3箇所に貫目改所が置かれ、継ぎ立て荷物の目方を検査し、規定の重量を越えた荷物に割増賃金を徴収しました。
しかし、昭和7(1932)年の大火で宿の大部分が焼失してしまいました。
史跡としては、細川幽斎にまつわる伝説の肱懸松(ひじかけまつ)、中山道善光寺街道の分岐点の分去れ道標、木曽義仲伝説の邂逅の清水(あふたのしみず)願い事をかなえてくれるという言成地蔵尊などの史跡があります。

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【本陣跡、荷物貫目改所跡】

11:18 洗馬宿本陣跡
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11:19 荷物貫目改所跡
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案内板
「 荷物貫目改所跡

荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されていた。中山道では、洗馬・板橋・追分の3宿に置かれた。規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役に過重な負担がかからないようにした。この建物は、明治の一時期、洗馬学校に利用された。
洗馬区 」

荷物貫目改所ってあまり聞かないな、と思ったら、どの宿場にもあるものではなく、中山道では、洗馬・板橋・追分の三ヶ所だけだったんですね。


11:20 脇本陣
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芭蕉句碑と高札場跡】

11:24 芭蕉句碑
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案内板
信濃の洗馬

ここは洗馬宿の高札場があったところで

入梅はれの
わたくし雨や
雲ちきれ

芭蕉俳句 一葉集より

本句碑建立発起人、武居才吉先生によると『入梅はれ』は『つゆばれ』と読む。また『わたくし雨』は地域の部分的に一時的に降る雨のこと。

洗馬区 」


11:24 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

ここは洗馬宿の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)とよばれた。伝馬駄賃御定や幕府のお触れなどが掲げられていた。明治以降裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は『どんぐりハウス』として、移築利用されている。

洗馬区 」


【言成神社と日殿言成さんについて】

11:27 言成神社への踏切
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11:27 言成神社
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案内板
「 言成地蔵尊と下馬落としの伝説

この言成地蔵尊は、『願い事をすれば必ず叶えてもらえる』地蔵様として洗馬宿時代から周辺の信仰を集めている。初め洗馬宿の出入り口の急坂にあって人々の安全を願っていたが、余りにも落馬する人が多く、ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬ってしまい、これでは縁起が悪いと新福寺に移して安置されたと伝えられている。新福寺は廃仏毀釈によって廃寺になったので、その後地元住民によって今の位置に移され昭和3年御堂を新築して現在に至っている。

洗馬区 」

私は今回、「ちやんと歩ける中山道六十九次」というガイド本を持って歩いています。

2019年3月から7月まで、東海道五十三次日本橋から京都三条大橋まで、計21日間で歩きましたが、その時持って歩いたのは、「ちゃんと歩ける東海道五十三次」でした。

10年前は違う本を持って歩きました。

日殿言成 著「誰でも歩ける中山道六十九次」です。

とても良い本でしたが、上・中・下、三巻、大きくて重くて、必要な頁だけコピーして持っていったりしました。

日殿言成さんは全盲で、お姉さんが付き添って旅をしたそうです。

日殿言成というペンネームは、「人の言い成」の意味らしいです。そして、今日やって来た言成神社からいただいた名前と思われます。

確かに病気もあり、目も不自由な著者は、お姉さんなくしては旅は続けられなかったでしょう。

でも、彼の執念とも言える集大成のこの本は、地図が分かりやすく、分厚くて重いという短所を除けば、素晴らしいガイド本です。

10年前のブログより

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2009年3月26日(木)に東海道五十三次制覇、全行程495.5km歩き終えて、京都三条大橋にたどり着き、1週間目の4月2日(木)。

アル中(歩き中毒)にかかってしまった私は、新しい旅に飛び出しました。

数日前にアマゾンに注文しておいた中山道を歩くガイド本が届き、朝読み始めたら、矢も盾もたまらず、家を飛び出して電車に乗っていました。

旅立ちは、ちょっとの勇気と計画と、たくさんの思いきりと、あとはやっぱり浪漫かなあ。

文芸社「誰でも歩ける中山道六十九次 上巻」(日殿言成著)

上中下、三巻に分かれている上巻を持って出ましたが…バッグに入りきらないので、本用に小さな手提げを持っていきました。

この本、地図が詳細で説明も分かりやすく、この上中下の三巻があれば、誰でも京都まで(事情があって、草津宿の手前の守山宿までしか案内がありませんが)行けそうな、素晴らしいガイド本です。

表紙をめくると、「はじめに」の文は、著者の日殿言成さんではなく、彼のお姉さんが書いていました。

著者プロフィールを見たら…

日殿言成(ひとのいいなり)はペンネーム。昭和26年に東京麻布に生まれ、大学卒業後、某ファミリーレストランの店長などを務め、その後、腎臓病で入院。平成2年から人工透析を始め、15年間病気と闘いながら、一日一歩の思いで歩き続け、自分の足で調べながら、少しずつ記録したものの集大成が、このガイド本。

平成17年5月永眠。計算すると53歳で亡くなっているんですね。

「はじめに」の最後の方に、「ふと、『青空が見たい』『おいしい空気が吸いたい』と思った時に、この本を片手に歩いてみたら、著者『日殿言成』の思いと感性にふれ、彼が一緒に道案内してくれるのではないかと期待してしまうのです…」

泣けました。電車の中で、涙、出ちゃいました。

これを読んだから、今日、旅立ちたくなったのです。

著者によると、中山道東海道に比べて、すごく遠いイメージがあるけれど、実は東海道より39〜41kmしか長くなく、さらに、川止めされると何日かかるかわからない東海道に比べて安定していたため、女性の旅人が意外に多かったのだそうです。

また、著者によるおもしろい話の中から…某放送局の女性アナウンサーが、横書きの「旧中山道」を「一日じゅうやまみち」と読んで抗議が殺到したというエピソードがあるけれど、中山道を全部歩いてみると、特に木曽から先では、「一日中、山道」で合っている、と思えるのだそうです。

そんな豆知識を胸に、とりあえず、元気に飛び出した私。

もう気持ちは「歩きびと」

さてさて、どんな珍道中に出くわすことやら。

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【牧野一里塚跡】

11:34 牧野一里塚跡
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案内板
「 牧野一里塚跡

慶長十九年(1614)洗馬宿 の開宿に併せ築かれたこの塚は、江戸より六十里の一里塚である。明治以降の開発により当寺の面影は留めていないが、中山道名称統一三百年の年に碑を建て、ほぼこの辺りとして、後世に引き継ぐものである。

平成二十八年十一月吉日

牧野区 」

11:47 旧道は真っ直ぐ
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11:58 溜池への分岐
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さあ、もうすぐ本山宿です。


2度目の中山道14日目の3(本山宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/143502



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次14日目の1(塩尻宿〜洗馬宿への道)

2度目の中山道14日目の1
12月28日(土) の1

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上諏訪の朝】


6:00 起床

夕べの上諏訪の宿で目覚めました。

荷物を宅配で出すためにフロントへ。

フロントカウンターの、小さな鏡餅と門松の飾りが可愛い。

6:45 バイキング朝食。

BSプレミアムで7:30に「スカーレット」を見て、7:50チェックアウト

駅までの道で、溝から湯気が吹き出していて、温泉街だなあ、としみじみ。
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上諏訪駅は構造が複雑で、改札前にたどり着くのに時間がかかりました。

そのせいで一本乗り遅れたのか、もともとちょうどいい時間がなかったのか、待合室で30分ほど待ちました。

8:27 上諏訪駅の足湯
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案内板
「 足湯

上諏訪駅ホームの露天風呂は足をお湯の中に入れることで上諏訪温泉の気分と効能を味わうことができる足湯です。
足湯には血行を良くし、疲れた神経や身体を癒すなど健康増進効果があり足の痛みはもとより、風邪気味で頭痛がするときやうっ血の治療にもよく効きます。
歩いて旅をした昔の旅人達は、足湯で手早く疲れをとり、また旅を続けたとも言われています。
足を十五分から二十分程お湯に浸けていますと、無理なく身体の芯から暖めることができます。
どうぞ列車を眺めながら、すあし(諏訪市)でのんびりゆったり足湯をお楽しみ下さい。 」


8:33発松本行きに乗りました。

8: 54 塩尻駅着 トイレに行きました。

8:59 塩尻駅から歩き始めました。
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【白い息と、平出遺跡交差点】

9:11 昨日見た、JR中央本線のガード下を潜る。
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ガード下に設置されている温度計では、現在の気温は2℃。
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まっすぐな道。日当たりがよく、暑くなってきたので、ワンピースを脱ぎました。

予報では氷点下5℃だったので、防寒対策してきたのですが、今日より気温は高いはずの昨日の方が風で寒く、今日は気温は低くても、日差しで暖かく感じました。

しかし、鼻息も吐く息も真っ白。

吐く息は14℃以下、鼻息は7℃以下で白くなります。(さっきのJR中央本線のガードでは、「只今の気温 2℃」)

9:29 平出遺跡交差点
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平出の一里塚の片方が見えています。


【平出の一里塚跡】

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9:29 平出の一里塚跡
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案内板
「 市史跡 平出一里塚

現在地 塩尻市大字宗賀(おおあざそうが)一二二-二
指 定 昭和四十六年三月五日(1971年)

一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により各街道に築かれはじめ、同12年にほぼ完成をみた。
三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上に松や榎などを植えて道程標とし、旅情を慰め通行の便宜をはかった。-・・・

江戸幕府(現東京)から伸びた道。36個の町を一里と計算し、その都度目印として松を植えていたらしい。
江戸時代なんて、炎天下の中東京から塩尻まで徒歩で移動しているとそれはそれは暑いことでしょうね。
この松は、目印としても、旅人の休憩場所としても重宝されたのです。

塚は五間四方。高さ一丈(2,3m)と定められた。
慶長19(1614年)に、中山道は牛道峠経由から塩尻峠経由に変更され、この平出一里塚もその頃につくられたものと推定される。
江戸時代、塩尻市内の中山道には、東山・柿沢・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・鳥居峠の九ヵ所に一里塚が築かれていたが、明治以降はその必要もなく次々に消滅し、現在はここ平出と東山・若神子が残り、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。
この一里塚は、日本橋の基点より59番目のもので、宝暦6年(1756年)頃には、この付近に茶屋2軒のあることがわかっている。

塩尻市教育委員 」

両塚揃っている一里塚跡はテンションが上がります。
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【初秋はトルファン、冬は霜の道】

10年前のブログより

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2009.9.7.

塩尻〜洗馬

4月に中山道を歩き始め、5月初めを最後に中断していた中山道歩きを再開しました。5月に中断した続きで、塩尻から歩き始めました。

暑い中、葡萄の香りがする遺跡へ。

トルファンとか、アトランティスとか、葡萄祭りのシーンを視覚でしか考えていなかったけれど、香りがあるはず!!
(写真 2009.9.7.撮影)
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焼けるような暑さの中、葡萄棚の下は涼しい。その緑のトンネルを歩けたらどんなにいいかと想像しつつ、焼けたアスファルトの道をゆく。

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10年前は暑くて、たわわに実り良い香りを放つ葡萄の実を横目に見て、あの葡萄棚の下を歩けたら涼しかろうなと憧れ、濃い葡萄の香りにくらくらしながら歩いたものですが、今日は霜が降りたブドウ畑。
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9:36 平出遺跡入口
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【平出遺跡】

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9:39 平出遺跡

10年前のブログより

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2009.9.7.


平出遺跡(長野県塩尻市)は、大規模な集落跡の公園。土器や石器が豊富に出土しています。昭和27年に国史跡に指定されました。

公園には、竪穴式住居が復元されています。

古墳時代の住居の復元もありますが、絵に描いたのは、縄文時代の住居復元です。

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案内板
「 平出遺跡公園

平出遺跡は、縄文時代から古墳・平安時代にかけての大集落遺跡です。遺跡の南西に横たわる比叡ノ山のふもとには平出の泉があり、遺跡は泉から流れ出る渋川に沿って東西1km、南北300mの範囲にわたって広く分布しています。

遺跡からは現在までに290を超える竪穴式住居や掘立柱建物跡、それに伴う多くの土器、石器、鉄器類が見つかっています。

平出遺跡公園は、遺跡の保護・活用のために遺跡の中心にあたる56,450㎡を公有化し整備したもので、縄文、古墳、平安の各時代にわたる複合遺跡の特徴を活かし、それぞれの時代の集落景観をエリアごとに復元しています。 」

ここで気になったのが、復元と復原の違い。wikipediaによると

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文化財(建造物)の分野で、失われた建物を当時のように再現すること、あるいは推測に基づく場合を「復元」、一方、改修等で形が変わっていたものを当初の姿に戻すこと、あるいは旧部材(部分品や材料)や文献等が残っており、根拠が確かな場合を「復原」と使いわけることがある(吉野ヶ里遺跡の住居は復元、東京駅は復原)。

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だそうです。
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古墳時代の村〉

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案内板
「昭和57年の発掘調査によって発見された古墳時代(約1300年前)の竪穴式住居を復原したものである。4本柱で、屋根が直接地面に接し出入口は南側に造られ、室内左手にカマドが設置されている。こうしま伏屋(屋根だけの家)は当時の一般的住居形態であり、縄文時代の家と基本的には変化がない古い様相を示している。

塩尻市教育委員会

写真の高床式倉庫は、ちょうど管理の方が掃除をされていたので、中には入りませんでした。
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竪穴式住居で、中に入れるものには入りました。
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最初は、古墳時代の村だけ見学して、後はパスして先を急ごうかと思っていたのですか、結局全部見ました。

管理棟でトイレを借りました。


縄文時代の村〉

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案内板
「 土器・土偶の出土

遺構(J-26号・縄文中期)からはたくさんの土器や河童型土偶などが出土しました。 」

案内板
「 復元土器と埋甕炉(マイヨウロ)

縄文中期の復元住居(J-25)です。遺構のほぼ中央に埋甕炉があり、床面に焼土が見られました。 」
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案内板
「 立石(リッセキ)

縄文のムラの広場中
央付近から見つかっ
川原石です。 」
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〈廃村〉

竪穴式住居跡の穴が空いています。
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こちらは、手前が廃村。向こうに見えているのは縄文の村。
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平安時代の村〉
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案内板
平安時代の村

平安時代に入ると住居は遺跡全体に広がり、50軒以上の住居跡が見つかっています。

ここでは平安時代の1戸と呼ばれる複数家族の家並みを復元しており、ニワを中心に4棟の住居と1棟の納屋からなる住居群を中心に、周囲には畠や林が取り囲み、11世紀前半の農村風景を
再現しています。 」

大分今の住宅に似てきた気がします。
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逆光で見ると、霜が溶けて湯気が上がっています。
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日本昔話の村の家みたい。
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【やっぱり長野県は農業大国】

平出遺跡を満喫して、旧中山道に戻りました。

10:18 JR中央本線第一中仙道踏切
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10:20 農業試験場開場碑
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10:23 長野県野菜花き試験場
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相変わらず鼻息も息も白く、地面に霜も白く残っています。


【旧道痕跡や、分岐】

10:28 中山道一里塚交差点
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10:28 旧道痕跡
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国道から右に外れると、大きな石がごろごろ展示された(?)静かな道。

10:39 左への分岐
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ガソリンスタンドの左の道へ入ると、砂利道の窪みに氷が張っていました。
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2度目の中山道14日目の2(洗馬宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/05/161358


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き13日目の3(塩尻宿)

2度目の中山道13日目の3
12月27日(金)の3

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【お女郎道祖神と小野家(旅籠いちょうや)】


中山道から外れていたので、正規のルートに戻るべく、民家の間の細い露地に入り、出たところに

14:43 男女双体道祖神
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案内板
「 双体道祖神
時期不明

板碑(ばんひ)に彫られた
珍しい抱擁像
お女郎道祖神
も呼ばれている 」

これで旧中山道に戻りました。

14:53 小野家住宅
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標注
「国重要文化財 小野家住宅

指定日 昭和四十八年 六月二日
追加指定日 平成二十一年 六月三十日」



文化遺産オンラインより

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長野県
江戸末期/1850
桁行15.6m、梁間9.1m、二階建、切妻造段違、南面庇付、桟瓦葺、
北面突出部 桁行7.3m、梁間8.2m、切妻造、北面庇付、鉄板葺
1棟
長野県塩尻市塩尻町39番地
重文指定年月日:19730602
国宝指定年月日:
重要文化財
 小野家は江戸時代「いてうや(銀杏屋)」の屋号で旅籠屋を営んでいた。
 建物は塩尻宿を通る中山道塩尻峠に向かって上りかかる所に建つ。間口は八間、切妻造、平入、二階建の背面に棟を直角に平屋がつづく。内部は、二階の客室に、鶴、松などを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付ける。なかでも「桜の間」は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に示していて面白い。
 幕末における宿場の雰囲気を示す好例である。

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ここにも塩尻東小学校の児童が描いたかるたがありました。
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小野家は「いちょうや(いてうや)」と言うんですね。


【高札場跡・本陣跡など】

14:55 上問屋場
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14:55 高札場跡・下問屋場
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14:56 本陣跡
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14:56 脇本陣
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塩尻陣屋跡】

14:57 塩尻陣屋跡
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asahi-net.or.jpより

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塩尻陣屋は、中山道に面して塩尻宿の本陣・脇本陣と並んで築かれていた。  本陣跡には立派な案内板と石碑があるのでこれが目印だ。

 現在は脇本陣跡西隣にある笑亀酒造の敷地となっていて、酒蔵の前に小さな石碑が立てられているだけで、陣屋の遺構は何も残っていない。

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15:01 鉤の手跡
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その先の道
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立派な門の家
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【阿禮神社】

15:07 阿禮神社
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阿禮神社

塩尻市観光協会HPより

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延喜式神名帳」にも記された古社で、もともと「阿礼ノ神」は、塩尻峠(塩尻市岡谷市の境)西麓を流れる四沢川流域で集団生活を送っていた諏訪族神氏を祖とする氏族が、上流にある五百砥山そのものを御神体に祀ったものといわれています。現在の社殿は、寛保三年(1743)に再建したものです。

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ここにも、塩尻東小学校の児童が描いたかるたがありました。
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ちなみに、阿禮神社の隣に塩尻東小学校がありました。


【堀ノ内の道祖神と堀内家住宅】

15:13 堀ノ内大壷の道祖神
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案内板
「 堀ノ内大壷の道祖神
元治元年

頭部の後に御幣が
刻まれている。 」

15:13 堀内家住宅
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文化遺産オンラインより

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長野県
江戸後期/1701-1800
桁行18.4m、梁間18.2m、一部二階、切妻造、妻入、南面庇付、板葺、
東北面二室及び便所三所附属
1棟
長野県塩尻市堀ノ内117番地
重文指定年月日:19730602
国宝指定年月日:
重要文化財
堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農。 長野県の大型板葺民家である。本棟造の中では大型で貭が良い。正面の外観は明治期の改造ではあるが、意匠は力強く優れている。

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【石仏石塔群】

15:17 石仏石塔群
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15:21 左への分岐
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【大門神社】

15:31 大門神社
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shiomihyo.exblog.jpより

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祭神 誉田別命応神天皇)、大鷦鷯命(仁徳天皇)。
若宮八幡社(祭神 誉田別命)、柴宮八幡社(祭神 大鷦鷯命)は
もとは別々の神社であり 其々指定村社であった。
昭和27年二社に於いて合併の議論が起こり、
昭和50年大門神社として拝殿、社務所などが新設された。
境内社に水天宮、大峯神社、胸肩神社、蛭子神社、蚕玉神社がある。
大門神社のケヤキは樹齢約300年と推定される。
当社付近にある柴宮遺跡からは銅鐸が出土している

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境内の大欅
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案内板
「 御神徳を具現化された
大欅

此の欅は樹齢三百年と推定されます。
大門神社の御祭神、御神徳は
家庭圓満子孫の繁栄子女の素
直な成長
三本の御神木は父母子親子
三代を表し又此の直木は
子供の健やかなる成長を表
わしています

大門神社 」

境内には土俵もありました。
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【耳塚神社】

15:33 耳塚神社
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耳塚神社

伝説
耳塚様と呼ばれ昔は耳の病気の直ることを祈った。桔梗ヶ原の戦いとか安曇族王に関係ありとも言われる。
明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の剣を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から話を聞きつけて参拝した。
祠は2度立て替えられ現存する祠は昭和53年建立。
(看板資料より)

この耳塚は天文17(1548)年5月、武田信玄小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている。
塩尻の伝説と民話・信州の伝説・長野県の武田信玄伝説より)

立派な門の家
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15:37 昔の商店
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有明山神燈】

15:39 JR中央本線のガード
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15:41 有明山神燈
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16:00頃 塩尻駅
キオスクで「蘭が作ったレモンパイ」
を買って食べる。

16:16発 小淵沢行きに乗る
(16:11が5分遅れ)

16:30頃下諏訪着
コインロッカーに荷物を取りに行く。

特急の待ち合わせで下諏訪で停まっていたので同じ電車に乗ることが出来ました。


【片倉館と天みそ丼】

16:39に上諏訪着の予定が、やはり5分ぐらい遅れていたようです。

夕闇に、なんだか素敵な洋館があると思ったら、片倉館という温泉施設。子ども達が小学生の頃に来たことことがあります。

16:56 片倉館
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片倉館 wikipediaより

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片倉館(かたくらかん)は、長野県諏訪市上諏訪温泉の温泉施設である。一般財団法人片倉館が管理している。会館、浴場、渡廊下の3棟が国の重要文化財に指定されている。 深さ1.1メートルの千人風呂で有名。同敷地内に諏訪市美術館がある。

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すぐ斜向かいのルートイン上諏訪に宿泊

温泉に入り、絵手紙を描き、19:00頃部屋に夕食が運ばれてくるのを待っていたら、18:52に届きました。

18:52 天みそ丼
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信州諏訪味噌天丼

諏訪味噌がベースの天丼のタレに、諏訪産の山菜・ワカサギ・手長エビなどの具が天ぷらの諏訪市のご当地丼【信州みそ天丼】。必須条件は「地元産の旬の材料を1つ以上使用する」とされています。わかさぎ釣りの名所である諏訪湖で採れる新鮮なワカサギや手長エビは、やはり気になる所です 。


2度目の中山道14日目の1(塩尻から洗馬宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/03/094353


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003



2度目の中山道六十九次歩き13日目の2(塩尻峠)

2度目の中山道13日目の2
12月27日(金)の2


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【岩船観音】

12:32 岩船観音
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案内板
「 石船観音   岡谷市教育委員会
 本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。境内を鳴沢清水といって豊富な清らかな水が流れていて、参拝者の喉をうるおしている。例祭は五月の八十八夜ごろである。」

山門の屋根の下でレインズボンを履きました。トイレも借りました。
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10年前のブログより

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中山道13日目

2009.5.2.

岩船観世音に立ち寄り、何段もの石段を登りきると、本尊の馬頭観音。旅の安全祈願と、旅人の足を強くしてくれるご利益があるとのことで、お参りしました。

巨大な草鞋が飾られていました。

岩船馬頭観音の階段をまた下りてまた坂を上るのが億劫で、社の裏の森林から中山道へ平行移動してワープを試みた時に、森林の中をガサガサ歩きました。

この森林のワープは、一旦下がってまた下りることからは免れましたが、歩きにくい森林の中を進むのは時間がかかり、素直 に階段をたくさん下りて、舗装道路を歩いてきた方が、ずっと早かった、と反省しきりです。

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旅をしていて思う名言

「山道の近道は藪こぎ」

これは人生にも言えること。人生、遠回りでも確実な道が一番。近道には落とし穴がある。


【大石と峠への上り道】

12:50 中山道の大石
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この先12月27日から冬期の期間通行禁止の札が出ていました。これ、車だけだよね?でも、この先の積雪や路面凍結などの状況が不安。
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急な上り坂が続き、暑くなってきました。
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塩尻峠】

急に冷たい風が吹き付けてきたと思ったら、塩尻峠着。13:07
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雪だか霜だかで白い道を上り、
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13:08 富士浅間神社
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案内板
「 富士浅間神社
江戸時代

松本領・諏訪領と
の郡境の宮として
石祠を俸祀した。 」

13:08 明治天皇御野立所
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展望台
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今回は視界も霧に包まれているので上りませんでしたが、10年前に来たときは展望台に上って、塩尻の町を見下ろしました。


塩尻峠からの下り】

13:13 中山道下り坂へ
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諏訪側よりも塩尻側の方が寒い。道の雪も少し多いみたいで不安でしたが、滑ったりはしませんでした。
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【東山一里塚跡】

13:28 東山一里塚跡
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案内板
「 市史跡 東山一里塚

所在地 塩尻市大字旧塩尻七〇一番地四
平成元年三月三十一日 塩尻市史跡指定

 東山一里塚は、東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図には道を挟んで二基描かれているが、南側のみが現存している。
 この塚の大きさは、幅十二m、奥行十三m、高さ三mの塚である。
 慶長十九年(1614)に、中山道は牛首峠経由(桜沢口ー牛首峠ー小野ー三沢峠ー諏訪)から塩尻峠経由(本山ー洗馬ー塩尻ー下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃につくられたものと推定される。
 市内には、東山・柿沢・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・鳥居峠の九か所に築かれたが、現在は、ここ東山と平出・若神子の一里塚 が形を残しているだけである。

塩尻市教育委員会

塩尻東小学校の児童が描いたかるたも一里塚跡と一緒に建てられていました。
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13:33 高ボッチ高原の案内板
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【お化けカボチャ】

13:37 馬頭観音・半僧坊大権現・道祖神
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13/44 野菜直売所のオバケ南瓜
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13:47 右への分岐
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ガイド本には目印として「神渡」(日本酒)の看板、とあり、10年前は「神渡」を目印に分岐に入った記憶がありますが、今回来てみたら、「神渡」の看板はありませんでした。

13:51 牛馬守護神
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13:57 地下道で道を渡る
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首塚・胴塚】

首塚・胴塚の案内標識があったので、旧中山道から少し外れて、畑の中の道を行ってみました。そこまで遠くはないけれど、いったいどこにあるんだろうと、ちょっと心配になるぐらいの距離はありました。

14:14 首塚 胴塚
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案内板
首塚・胴塚
戦国時代

塩尻峠の合戦で
討ち死にした兵の
亡骸を地元民が
葬ったといわれる 」

案内板の横に、塩尻東小学校の児童が描いたかるたもありました。
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石碑文
首塚・胴塚の由来
今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実験を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
その後、戦国時代も終り、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の所在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
昭和10年に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄付金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
昭和五十七年六月
中村一一記
ふるさとづくり推進委員会 」


【柿沢の男女双体道祖神

首塚・胴塚から旧中山道に戻ってくると、反対側の角に道祖神や、塩尻東小学校の児童が描いたかるたや、絵地図などがありました。

14:18 男女双体道祖神
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案内板
「 柿沢の双体道祖神
年代不明

おぼろな造形は、
かなり古い型一度
他地区よりご縁想
されたが、とりか
えしたと伝えられ
る。 」


ご縁想とは?

信州安曇野道祖神ナビより

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江戸時代において、道祖神の御縁想や嫁入りとも言われ、
道祖神盗み」が、村の若者によって行われたそうである。
繁栄している村の道祖神を盗むことによって、その繁栄にあやかるために
行われた。

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この辺りの坂を永井坂というのですが、かるたによると、この坂に、戦国時代の爪痕が残されているようですね。
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その一番手が先ほど見てきた首塚・胴塚でしょう。

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【高札場跡】

14:21 雀おどり棟飾りの家
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14:22 高札場跡
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案内板
「 高札場
江戸時代

禁制・禁止の触れ
書きや、防火の
制礼が掲げられた。 」


【本棟民家】

14:23 本棟民家
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案内板
「 本棟(ほんむね)民家
江戸時代

松本平に数多く見ら
れる切妻造りの民家。
雀踊りと呼ばれる
棟飾り意匠は 風格
と威厳がある 」


本棟造り wikipediaより

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本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式である。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴。重要文化財にも指定されている堀内家住宅や馬場家住宅などが有名。

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永福寺観音堂

火の見櫓の左へ入るべきところを右に入ってしまう。

14:28 茅葺きの建物
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こんな素敵な建物、なんだろうと思ったら、馬頭観音堂の裏側でした。

永福寺観音堂
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案内板
「 市有形文化財
慈眼山永福寺観音堂
所在地 塩尻市大字塩尻町一二二三番地

永福寺木曽義仲ゆかりの地で元禄十五年(一七〇二年)現在地に伽藍と木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音を建立したがその後焼失した。安政二年二月(一八五五年)当時の社寺建築士界の第一人者である二代立川和四郎内匠富昌が請負い工事中翌三年十一月四日彫刻用材の大けやきの枝おろしの際七十四才で死去した。初代立川和四郎富棟は諏訪の大工棟梁で全国に名作が多く、幕府から内匠の称号を受け『立川流和四郎』の名で、建築にすぐれた。二代富昌は彫刻に名作を残した。観音堂は正面三間、奥行四間、入母屋造り妻入り向拝付で屋根は茅葺き箱棟である。母屋の柱間の中備は十二支の彫刻を計画したが正面に一つあるのみ しかし向拝殿の中備の竜は迫力ある彫刻であり全体としては未完成だが立川流の手法が見られ二代富昌の最後の作で不慮の事故によっての終えんの地である。

塩尻市教育委員 」


永福寺仁王門】

14:37 永福寺
木曽義仲ゆかりの寺
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仁王門
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案内板
「 市指定有形文化財(建造物) 永福寺仁王門 一棟
指定 平成二十年一月十八日
(所在地 所有者 割愛)
仁王門 三間一戸楼門、
桁行七・四メートル、
梁間四・四メートル
入母屋造、平入、桟瓦葺
附 棟札 二枚

永福寺仁王門は、明治二十六年(一八九三)より着工、同二十七年に上棟された。棟梁は立川(立木)音四郎種清である。立川音四郎種清は下諏訪町天保十三年(一八四二)に生まれ、その後、立川流二代目立川和四郎富昌の弟子となり、県内各地をはじめとして明治二十一年の皇居造営にも携わる。
仁王門は、入母屋造り、平入、桟瓦葺、三間一戸の楼門である。一階組物は出組、二階は三手先とし、軒は扇垂水とする。また、二階四周に擬宝珠高欄付きの切目縁を廻す。柱間は一階前面を吹き放ちとし、正面両脇は仁王様を収めるために前面を開放し格子をはめ、その他は板壁とする。二階では正背面中央を引き違いの格子戸とする他は板壁とする。妻飾りは狐格子に猪の目懸魚を備え、小屋組は和小屋で束や登梁により棟木を支持する。一階柱上の木鼻は正面内側二つが麒麟、両外側が貘、背面両側二つが獅子、両外側が像となる。背面東側の像の牙の一部に彫り残された箇所があり、興味深い。
仁王門では、伝統的寺院建築の構成を基調とし、木鼻をはじめ建物彫刻に立川音四郎種清の高い力量がよく示されている。なお境内には、別に市指定有形文化財(建造物)である観音堂があり、立川富昌、富重、種清と立川流工匠の手になる建造物をあわせて見ることができる。
塩尻市教育委員 」

本堂
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2度目の中山道13日目の3(塩尻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/29/085822


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

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2度目の中山道六十九次歩き13日目の1(下諏訪から塩尻峠への道)

2度目の中山道13日目の1
12月27日(金)の1


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下諏訪駅からの出発】


今日から2日間、青春18きっぷの旅。夕べはダンスの後、前のりで立川まで来ていました。立川までは青春18きっぷは使わず、Suicaで来ました。

東横INN立川駅北口に泊まりました。ポイントが貯まっていて無料で泊まりました。

今朝は6:00にチェックアウトして、立川発6:20高尾行きに乗り、八王子で乗り換え。


八王子始発6:38 普通列車松本行きに乗りました。私を含め、ちらほら旅か帰省かの人もいましたが、(リュック、スキー、自転車も!)通勤列車ですね。
上野原辺りまでは満席でした。

すいてきたしお腹もすいてきたので、塩津辺りで持参のパンとノンシュガーカフェオレで朝食。

以前住んでいた梁川。懐かしい、というより、なんだろうなあ。

「梁川ー、やながわー」

という放送を聞くと、降りなきゃ、と思ってしまうし、目の前に見えている山のあの麓には昔の級友が住んでいる。私と同い年で、同じように齢を重ねているはずなのに、思い浮かぶのは小学生の時の顔。

この前の土日辺りにこの辺も雪だったらしく、溶け残った雪がちらほら。

中央本線は谷を縫うように走るので、山々の中腹がよく見え、山々の山懐に雲が生まれて、山に雲が抱かれているようでした。

私は思春期を、こんな風景を見ながら育ったんだなあ。

一旦減った乗客がまた増えて、やはり通勤電車だなあ、と思っていたら、甲府ですっかりすきました。

韮崎を過ぎてからは、車窓から甲斐駒ヶ岳が見えるのでは、と眺めていたところ、霧か雲かで甲斐駒は見えませんでしたが、きれいな虹が見えました。

長坂辺りから、反対の車窓に八ヶ岳が見えるかと振り返ったら、南アルプス側は全体が霧か雲ですが、八ヶ岳は梺がうっすら見えて、上の方はふわふわの白い雲で覆われ、空は青いので、もう暫くしたら八ヶ岳は見えそうです。富士山は全く見えませんでした。

9:45 下諏訪着。

荷物をコインロッカーに預けて、さあ、出発。

駅前に御柱(おんばしら)が立っていました。
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案内板
御柱(おんばしら)

諏訪大社で七年ごと寅、申年に行なう御柱祭は、神殿の御造営と共に霧ヶ峰高原に続く東俣国有林で抜粋の樅の巨木を数千人に及ぶ氏子が曳行、社殿の四隅に建立する、他に類を見ない豪快勇壮な祭である。御柱建立の意義は、四方鎮魂のしるしでまあることから、平成十年の長野冬季オリンピック開会式に『聖なる空間』の創造にと『建て御柱』が行なわれた。
ここに建つ御柱は、その冬季オリンピック会場に建てられた御柱である。

平成十年四月 」

下諏訪駅
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何かのモニュメント
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案内板
下諏訪町は江戸時代、中山道甲州街道が交わるところ、○○○○を誇る宿場町として栄え、○○○○馳せた歴史と文化の面影を今に残している。
諏訪本社の門前町としても賑わい、『おんばしら祭』が寅(とら )、申(さる)の年に行われ、その勇壮、豪快な祭りは天下の大祭として全国に知れ渡っている。また、毎年行われる『お舟祭り』も有名である。
このモニュメントの『綱』はおんばしら、お舟の曳き綱を表している。一本の縄に力が込められ、太く力強い『綱』ができ上がる。人々の、団結、協力、絆を意味する。
下諏訪町の未来は『燦(さん)』として輝く。 」

10:01 まずは中山道甲州街道の出会いの場所に向かって出発。

中山道日本橋から京都三条大橋までの全行程、10年前に歩いています。

今年は2度目の東海道五十三次を歩きましたが、中山道もぼちぼち歩こうかなと。今回は全行程ではなく、記憶が薄い場所や、もう一回行ってみたい場所など、スポットで歩こうかと思います。

「楽しく歩こう中山道」を目標に。

耳が冷たいので、帽子をかぶりました。


【立町通のご神湯】

10:13 下諏訪宿立町入口
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案内板
「 立町通り
源泉掛け流し
諏訪明神御神湯

立町まち作り協議会 」

10:16 綿の湯
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案内板
「 綿の湯由来

中山道下諏訪宿 立町
ここ八ヶ所の源泉掛け流し温泉は諏訪明神の御神湯と言われています。
女神様のお化粧水が温泉になったと言い伝えられ、
綿の湯(わたのゆ)と呼ばれて千年も脈々と流れ続けているのです。

立町まちづくり協議会

このご神湯を手水としてご利用下さい。」


【出合いの地】

10:16 御柱神湯
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10:19 甲州道中・中山道合流の地
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10:20 問屋場跡・綿の湯碑
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【本陣〜本家と分家】

10:21 岩波家本陣
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案内板
「 本陣岩波家(本家)

明治天皇行在所

『上々段の間』

和の宮御休息

本陣古美術館

中山道随一名庭園
この奥に江戸時代の
本陣が広がっています

入館料 大人 五〇〇円
小中学生 三〇〇円
二〇名様より二割引 」

今回は閉門していて、「本日は都合により休館とさせていただきます」の貼り紙が出ていました。

10年前に来たときは、開館時間内であればいつでも見学できましたが、今は要予約のようです。


10年前のブログ

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中山道12日目(和田宿〜和田峠下諏訪宿)

2009.5.1.

下諏訪温泉には、中山道甲州街道の合流点があり、感動してしまいました。

本陣岩波家も有料で公開されていて、隣の聴泉閣かめやも、皇女和宮が宿泊された上段の間を有料で公開しています。

私はたまたま聴泉閣かめやに入ったのですが、どうやら昔は隣もこちらもひとつの旅館だったのが、分家争いで別れてしまったらしいです。

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聴泉閣かめやHPより

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下諏訪宿は300年余りの歴史を持ち、本陣の一部であった当宿の『上段の間』には、皇女和宮さま、参勤交代の諸大名や、第5代将軍~第14代将軍の歴代御台所の花嫁行列の寝所でありました。

また、隣接の本陣岩波家へは幕末に赤報隊の相楽總三、近藤勇新撰組、水戸浪士軍が宿泊され、激動の幕末の舞台となりました。
かめやとして営業を開始した明治以降、島崎藤村芥川龍之介与謝野鉄幹・晶子、宇野浩二西條八十など諸文豪を迎えた歴史ある宿でございます。

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以前は庭園も広大だったようですが、分かれてしまったため、今はこじんまりしているようです。

聴泉閣かめやと岩波家と、どちらが本家でどちらが分家か、お互い一歩も譲りません。

岩波家には明治天皇が泊まられた上段の間があり、聴泉閣かめやには和宮が泊まった上段の間があります。

【薬医門と魁塚碑】

本陣跡からは来た道を戻り、下諏訪宿立町通りの門を潜って車通りの多い道を右折。

来たときに見かけたセブンイレブンでトイレをお借りして、お腹がすいたので塩豆大福を買って食べました。

10:39 薬医門
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案内板
「 薬医門

弘化四年(一八四七年)
六代武井武昭建立。医師にのみ
許可されたと言われる。 」

10:44 分岐(左へ)
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目印の蛇の目寿司は、閉店してしまったのか、たまたま休みだったのか。

10:45 魁塚碑
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下諏訪町HPより

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魁塚(相楽塚)

・所在地 魁町
・所有者 下諏訪町
・指定 昭和49年6月24日 町・史跡


 この魁塚は(さきがけづか)、相楽総三(さがらそうぞう)(本名 小島将(まさ)満(みち)1839~1868)始め8人の赤報隊(相楽率いる一番隊の呼称)幹部が冤罪(えんざい)により、慶応4年(1868)3月3日斬首(ざんしゅ)の刑に処せられた地に、かつての同志であった人達や有志により明治3年 (1870)建立された塚である。

 官軍先鋒(せんぽう)維新の魁としてのり込んできた人達が、一転してにせ官軍とされて刑に処せられたことは、地元の人々の大変な驚きであった。しかし、隊長の相楽は、高島藩士で勤王の先駆として活躍していた石城東山(いしがきとうざん)と同志であり、相楽が再三諏訪を訪れ、同志を糾合していた。そのため、相楽の名は早くから諏訪人に知られていて、惜しまれていたこともあって、そのときの刑場を魁塚として慰霊を行い続けている。維新の魁をした人達の塚というのである。

 相楽の孫木村亀太郎は祖父相楽の冤罪を晴らすことに生涯をかけ運動し、ついに昭和3年(1928)に正五位相楽総三従五位渋谷総司の贈位があって、晴れて志士として認められた。

 この塚には刑死した相楽総三・渋谷総司・竹貫三郎・小松三郎・西村謹吾・大木四郎・高山健彦・金田源一郎のほかに同志として所を異にして命を落とした金原忠蔵・熊谷和吉・丸尾清・北村与六郎と石城東山も併せてまつってあり、年々4月3日に遺族と地元の相楽会が祭事を続けている。塚はかっての中山道の道沿いにあって、106平方メートルの敷地である。

 なお宮内大臣(くないだいじん)一木喜徳郎題額による魁塚碑昭和5年(1930)4月に建設されていた。この碑文には「昭和3年の秋の大礼に相楽総三・渋谷総司の贈位を褒賞し、討幕の魁であった数々の事跡を細記し、信州下諏訪(しものすわ)において、相楽30歳、渋谷22歳にて同志8 人と共に、斬に処せられたこと。かっての同志落合直亮(なおたか)たちの運動により、明治3年(1870)3月に官の許しを得て刑死した8人、その他5人の名を刻み碑を建てたことなど、贈位により冤罪が晴れたこと」を言祝(ことほ)いでいる。

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もう8年ぐらい前かな?スージーの職場の方がお芝居をやっていて、スージーと一緒に観に行った芝居が相楽総三赤報隊の話でした。

幕末から明治維新の話は苦手なのですが、あの芝居は胸にグッと来ました。

今日、魁塚を見て、胸が締め付けられる思いでした。

魁塚
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この頃までは晴れていました。


【露地の中山道

10:48 一之宮常夜燈
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今日の天気予報は、朝のうち雨で、その後は晴れか曇りだったのに、霙が降り出しました。

10:51 道祖神
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屋根付きの駐車場の軒先をお借りして、レインコートを着ました。

10:53 露地の中山道
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そうそう、そうだった。中山道は露地が結構あるんです。

露地から堤防に出て、今来た道を振り返りました。
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【昔どおりには進めない】

10:54 富士見橋
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富士見川工事中

橋には両側に歩道がありました。

また露地の中山道
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写真は、現在の中山道は昔通りには歩けず、このように進んでください、という地図。
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暫く進むと、旧中山道は車道を横ぎらねばなりません。

横断歩道のない道を急いで渡りました。

10:59 下諏訪町第七分団火の見櫓
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11:06 十四瀬川の小さな木製の橋
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風が強くて写真撮るのが大変でした。

結構雪が降ってきました。


【県宝 旧渡辺家住宅】


11:19 旧渡辺家住宅
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「旅たび 岡谷」より

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渡辺家は長地東堀にあり、高島藩の散居武士の家です。

安政年中(1854年以降)の「家中分限帳」(武士の身分、禄高を記した帳面)によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持渡辺斧蔵」とあって、下級藩士であったことがわかっています。この一家から、渡辺国武、渡辺千秋、渡辺千冬の3人の大臣が出ています。

渡辺国武は大久保利通に重用され、伊那県に勤め、兄千秋とともに大蔵省に入りました。その後、高知県令・福岡県令・大蔵省調査局長・主計局長・大蔵次官を経て明治25年(1892)第2次伊藤内閣の大蔵大臣となりました。これは、信州出身としてははじめてのことでした。

渡辺千秋は国武の兄で、同じく大久保利通に重用され、鹿児島県令・滋賀県知事・北海道長官・京都知事をつとめ、こちらは明治43年(1910)には宮内大臣となりました。

渡辺千冬は、千秋の3男で、東京帝国大学法科を出て政界に入り、衆議院議員貴族院議員・司法大臣を務めています。

創築は、18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されました。土間が広く、農家とよく似た間取りですが、中床をそなえた座敷などに武家住宅としての特徴が見られます。全国的にも数少ない下級武士の家として貴重なものといわれています。

3大臣に関する貴重な関係資料もすぐ近くにある郷土学習館で併せて見学することができます。

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11月4日から3月19日、冬季休業で見学できませんでした。

また、その他の期間は、郷土学習館で受付をすませないと見学できません。


【日限地蔵】


11:23 平福寺公園
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11:27 日限地蔵(平福寺境内)
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平福寺ホームページより

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日限地蔵尊(通称・ おひぎりさま)は願い事を託す「願かけのお地蔵さま」です。「日を決めて参拝すると、不思議にもご利益がある」と伝えられ、日々多くの方が参拝にみえます。

毎月23日のご縁日、特に4月の例大祭には、大般般若法要が行われ、桜の咲きほころぶなか、露店や青空市も立ちならびます。

江戸時代の末、下諏訪の商人と二人の女性の篤い信心により、伊豆三島の蓮馨寺から分身が勧請され、嘉永三年(1850)に諏訪下社秋宮三精寺に安置されました。明治の廃仏毀釈により当山へ遷され、大正十四年(1925)には、現在の日限堂が建立されています。

明治から昭和初期、「シルク岡谷」と云われた製糸業を支えた方々をはじめ、多くの参詣者による賑わいは、今も古老に語り継がれています。本来、地蔵菩薩は、24日が縁日ですが、宵祭りに出かける人が多かったため、いつしか23日が縁日となったとされます。戦後になって例大祭が復興され、会館・御水舎・点香所等も整備されました。

地蔵菩薩は、修行者の姿をしています。これは何処へでも出向き、錫杖にて諸魔を払い、宝珠にて諸願を満たすという誓願の現れです。特に子供やお年寄り、そして弱い立場の者を護り、導いて下さる仏さまです。

どなた様も、境内ご自由に参拝できます。地蔵菩薩のご真言「オンカカカビサンマエイソワカ」をお唱えし、心をこめてお参りください。

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【雀踊り?】


11:32 寛政三年の道標
(右 中仙道 左 いなみち)
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11:36 中山道標石
(雀踊りの棟飾りを上げた、本棟造りの
旧家の前にあります。)
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その本棟造りの民家の門です。
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ローソンでトイレを借りて、ツインシューを買って食べました。


【東堀の一里塚跡、馬頭観音など】

11:51 東堀の一里塚跡
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12:00 常夜燈・道祖神
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12:00 馬頭観音
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12:09 双体道祖神
御柱で囲まれている
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【旧御小休本陣跡(今井家)】

12:13 旧御小休本陣(今井家)
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案内板
「 旧御小休本陣 今井家

 旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古来交通上の要衝で、江戸時代には、こゝに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残して居る。
 中山道 は江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交替 の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
 文久元年十一月五日、皇女和宮徳川将軍家に御降嫁の時、明治十三年六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時御小休になられた。
 平成十一年七月十六日、『江戸時代の姿をほゞ継承して居る点が貴重である』として、主屋等十一件が国の登録有形文化財に指定された。 」


12:16 中山道
雪がかなり降っています。
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2度目の中山道13日目の2(塩尻峠への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/27/145001


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き12日目の3(湯の町下諏訪宿)

二度目の中山道12日目の3
8月1日(土)の3


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【伏見屋邸、今井邦子文学館】

10:11 分岐 中山道に戻りました。
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石仏石塔群
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石造の龍と階段
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龍口から出ている水を汲もうとしたら、温泉でした。


中山道五十五里塚跡(江戸から五十五里目の一里塚跡)
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峠より10.9km地点
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伏見屋邸 お休み処
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下諏訪観光協会ホームページより

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伏見屋邸は一八六四年(元治元年)の建築と推定される木造二階建ての旧商家。復元修理し、まち歩きを楽しむ観光客の休憩や住民の交流の場として開設しました。手作りのお漬物もおススメ!

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尾作田社
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下諏訪観光協会ホームページより

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「この神田に植えられた稲は1ヶ月で穂が出る」といわれ「諏訪大社下社七不思議」のひとつに数えられています。

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フィンランドミッション宣教発祥の地
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石碑文
「 1905 フィンランド・ミッション 宣教発祥の地

明治38年7月 フィンランドの女性宣教師エステリ・クルヴィネン(Esteri Kurvinen)シィーリ・ウーシィタロ(Siiri Uusitalo)の二人による日本伝道がこの地より始められた 」

モンパリ(床屋)前の自動販売機で水を買おうとしたら、水は売り切れだったので、お茶を買いました。160円


10:26 番屋跡
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10:28 今井邦子文学館(旧松屋)
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下諏訪町ホームページより

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かつて宿場の茶屋であった「松屋」を復元した建物。アララギ派の女性短歌結社「明日香」の編集所としても使われた当時の面影を偲ばせています。

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【旦過の湯と湯の町】

10:28 旦過の湯と湯の町
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案内板
「 旦過(たんが)の湯と湯の町

中世より、この地は湯の町として知られ、街道の道端で高温の温泉が自噴しているのが珍しく、多くの旅人が疲れをいました温泉場で、名湯として広く知られてきた。
ここ旦過の湯は、鎌倉時代に慈雲寺に来た修行僧のために建てた旦過寮(旦に過ぎ夕に宿す)からでた名前で、そこに付属させた浴場が旦過の湯であった。
温泉の効能は傷や吹き出物にもよく効くと言われ、元治元年(一八六四)和田嶺合戦の時、負傷武士の内で、この温泉に入った者は傷の治りが極めて早かったという。
現在も湯量が豊富で、かけ流しの公衆浴場として親しまれている。

平成二十四年十二月吉日
下諏訪財産区

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案内板
和泉式部の守り本尊

銕焼地蔵尊と ”かね” 

今から千年あまり語りつがれて来た伝説です。下諏訪の湯屋別当方に”かね”という幼い娘が奉公していました。
 畑に行く時はいつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
 ある時”かね”をそねんでいた仲間がつげ口をしたことから別当の妻はおこり、焼け火箸でかねの額をうちすえました。いたさにたえかねた”かね”は日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまずいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れでており、自分の痛みは消え、傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
 お地蔵様が”かね”の身代わりになってくださったのです。この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく『かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様』と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わうのでした。たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き”かね”をぜひにと、都に伴い養女としました。雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ”かね”は宮中に仕えるようになりましたが歌人として群をぬき、やがて和泉守 和泉守橘道貞と結婚、和泉式部となりました。
百人一首のなか

あらざらむ この世のほかの 
おもひでに 
いまひとたびの あふこともかな

善光寺大本願寺百二十世一条智光尼公上人ご染筆のこの歌碑が銕焼地蔵堂前に建てられています

銕焼地蔵尊奉賛会 」

小松定衛先生謝恩之碑
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明治13年下諏訪町横町に生まれ、16歳で豊平小学校教師として赴任し、20年以上に渡り教鞭をとり、昭和46年に教え子が顕彰碑を建てたそうです。

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案内板
「 縄文先進文化を生んだ
和田峠黒曜石

下諏訪町と長和町の境をなす和田峠周辺(標高約1500m)には黒曜石が産出します。黒曜石は、たたき割ることによって簡単に鋭利な刃物になり、石器時代から縄文時代後期の間、金属の刃物が使われるようになるまで、最も優れた石器の原石であり、価値ある交易品として東北地方から近畿地方まで広く伝聞されて使われました。このため、諏訪地方の縄文人は時代の最先端を行く文化のもと、豊かな生活が保障され、大いに栄えました。この時代の集落の柱建て祀りが現在の諏訪大社御柱祭の原型だとも言われています。
黒曜石は、火山活動によりマグマが地表近くまで上昇したとき、急激に冷やされ成分が分化して結晶化する前に固まった天然のガラスです。日本では数ヵ所で産出しますが、和田峠周辺の黒曜石は、世界的にもまれな良質です。 」


10:33 にぎわった旅館 つる屋跡
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【本陣跡】

10:34 本陣跡
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本陣跡については、二度目の中山道歩き13日目に詳しく書いています。


綿の湯・宿場問屋場
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下諏訪商工会議所ホームページより

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「 綿の湯」神の湯として親しまれてきた下諏訪温泉には、 神話に彩られ
た由来があります。はるか昔、諏訪明神の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」のお妃「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」が、上社の地から下社の地にお移りの時、日頃ご愛用の 温泉を綿に湿し、「湯玉」にしてお持ちになった。無事、下社にお着きに なったとき、手にしていた「湯玉」を置いた所から、温泉が湧き出した。 湧き出した場所が下諏訪温泉で、その神話に基づいて「綿の湯」と名付けられた。

「神様の湯」だから神聖で、汚れたものが入ると、湯口が濁ったといわれて
いる。この「湯口の清濁」は、下社七不思議の一つに数えられている。神様
の怒りに触れて湯が濁っても、たちまち汚れをすすいでくださると、云われ
ているのが有難い。現在の「綿の湯」は、老朽化のため取り壊され、「遊泉
ハウス・児湯」と合併したが、源泉はそのまま、モニュメント設置されて、
残されている。

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中山道甲州街道の合流地点】

甲州道中終点 中山道甲州街道の合流地点
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かめや(和宮の部屋があります)
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諏訪大社下社秋宮】

10:40 下社秋宮
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根入りの杉
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案内板
「 根入りの杉

この杉の木は凡そ樹齢六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれている。 」

楽殿
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秋宮二之御柱
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天覧の白松(三葉の松)
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歴史の露地
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「夕顔やろじそれぞれの物語
小沢昭一

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立町の門
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10:58 蕎麦やでランチ(山猫亭)
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11:26 下諏訪駅
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12:23発の電車で帰りました。


本日の歩数 8,587歩 5.238km

二度目の中山道13日(下諏訪宿から塩尻)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/214610


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き12日目の2(万治の石仏と御柱館)

二度目の中山道12日目の2

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8月1日(土)の2

万治の石仏

11年前に来たとき、とてもよかった万治の石仏を今回も見に行きました。

9:29 万治の石仏入り口
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案内板
「 峡の田に座して
石佛のどかなり 正人

万治三年(一六六〇年)敬虔な心の石工たちに刻まれてから村人たちに阿弥陀様と親しみ崇められて来たが、近年岡本太郎先生にその特異な石佛としての存在が評価され世の注目を浴びている。

万治の石仏
揮毫 岡本太郎画伯

昭和五十三年四月
下諏訪町観光協会 建立 」


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案内板
万治の石仏

明歴三年 諏訪高島藩主諏訪忠晴が諏訪大社下社春宮に石の鳥居を寄進しようとしました。この仕事を請け負った石工がこの地にあった大きな石を加工しようとノミを入れたところ、石から血が流れだしました。驚いた石工は鳥居を造ることをやめ、この不思議な石に阿弥陀如来仏を刻み、建立したと伝えられています。
万治の石仏は、その名のとおり『万(よろず)のことが治(なおる)』万治を『ばんじ』と読み、物事をばんじまるく治めて願いを聞いてくれるありがたい石仏として広く人々の信仰を集めています。
大きな自然石にちんまりと首が乗っているアンバランスな佇まいとユーモラスな表情が特徴的 日本が誇る芸術家岡本太郎万治の石仏を愛して止まず、この石仏を拝むために下諏訪を何度も訪れました。 」


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案内板
万治の石仏と伝説

南無阿弥陀仏万治三年(一六六〇年)
十一月一日
願主明誉浄光心誉廣春

伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ミミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。

下諏訪町

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案内板
「下諏訪観光協会と下諏訪商工会議所が提唱する
万治の石仏』お参りの仕方

一、正面で一礼し、手を合わせて
『よろずおさまりますように』
と心で念じる。

二、石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。

三、正面に戻り
『よろずおさめました』
と唱えてから一礼する。

(春宮ともゆかりのある石仏です。春宮にもお参り下さい。)

下諏訪観光協会
下諏訪商工会議所 」

9:27 万治の石仏
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提唱通りお参りしました。周りの土がぬかるんでいて、気を付けながら回りました。旅の安全と、新型コロナウィルス感染が早く治まりますように、と願いました。

9:32 浮き島橋
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観光客のために設けられたと思われるトイレに行きました。


御柱体験】

9:38 御柱館 おんばしら館よいさ
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見学しました。入館料300円と記念に、200円で御柱体験もやりました。

丸太に掴むところと、足を乗せるところがあり、丸太にまたがると、丸太の後ろ側が競り上がり、御柱が坂を滑り降りる映像と組み合わさって、まるで自分が御柱に乗って坂を滑り降りているような体験が出来て楽しかった。
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二度目の中山道12日目の3(湯の町下諏訪宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/203000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き12日目の1(毒沢ミネラル療養泉から諏訪大社下社春宮まで)

二度目の中山道12日目の1
2020年8月1日(土)の1


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【注連掛】

6:00 起床

8:00 朝食

8:50 出発

8:53 注連掛(しめかけ)橋
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あの辺りが注連掛かなあ。注連掛バス停もあるし。
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注連掛は、山から切り出した御柱をここで一旦注連縄を掛けて休ませる場所です。

この辺り、日陰は涼しく、かげがないととても暑い。

「山と自然の美しさを守りましょう」
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山の神
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山の神上バス停と中山道の道標
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まっすぐ行って右に折れたらすぐまた左折で、かくっとなるけれど、ほぼ直進。

中山道は右斜め下へ。
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道祖神 回りに四本の御柱
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中山道は右へ
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諏訪大社下社春宮】

諏訪大社下社春宮の端の歩道 涼しかった
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この先の階段を下りると、春宮に入ることが出来ます。

9:17 諏訪大社下社春宮境内に到着

春宮境内では、何かを燃やしていました。
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結びの杉
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案内板
「この杉の木は先で二又に分かれているが、根元で一つになっていることから『縁結びの杉』と呼ばれている。」

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案内板
「 神楽殿

御神前に御神楽を奉納するための建物で落成は江戸時代前期天和年間(一、六八一~一、六八四)ころのものである 」

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案内板
上諏訪神社(末社)

御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
上の諏訪つまり上社の神をお祀りしている
例祭日 七月十五日 」

若宮社 案内板、写真が不鮮明で読めません。


春宮一之御柱
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案内板
御柱(おんばしら)

御柱は寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられるご神木で社殿の四隅に建立されています。この春宮一之御柱は長さ十七米 直径一米の樅の樹で霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され数十人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回は平成三十四寅年に行われます。

諏訪大社

平成三十四年は令和四年です。


諏訪大社下社春宮 幣拝殿・左右片拝殿
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案内板
「 下社重要文化財建造物

春宮
幣拝殿・左右片拝殿
(昭和五十八年十二月二十六日指定)

秋宮
幣拝殿・左右片拝殿
楽殿
(昭和五十八年十二月二十六日指定) 」

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案内板
諏訪大社下社春宮
幣拝殿・左右片拝殿
重要文化財
昭和五十八年十二月二十六日指定

諏訪大社建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祀り、上社は建御名方神(彦神)を、下社は八坂刀売神(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造、平入の簡素で古風な形式をもち、寅申の七年ごとの御柱大祭で新築する式年造替制度がとられている。右のような社殿形式は諏訪大社に特有なものであり、またその幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は、安永八年(一七七九)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(延享四年・一七四七~寛政十二年・一八〇〇)であった。
幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける。二階は四方が吹放ちで、屋根は切妻造、平入の檜皮葺で、正面は軒唐破風をつける。
左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は、片流れの檜皮葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は、各所につけられた建築彫刻の数の多さと躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。

信濃國一之宮 諏訪大社
下諏訪町教育委員会


二度目の中山道12日目の2(万治の石仏御柱館)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/202000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き11日目の3(古往還~木落し坂~毒沢ミネラル療養泉)

二度目の中山道11日目の3
2020年7月31日(金)の3


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12:03 旧道入り口
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こんな石段を下ります。
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この辺りは、11年前に来たときは、通れないと思っていたら通れた場所です。

11年前のブログより

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2009.5.1.

西餅屋跡を出て国道に出た後、私の持っているガイド本では、旧道は荒れていて5センチぐらいしか足場のないところもあるから国道を歩くことを推奨していましたが、その後整備されたらしく、案内板に、西餅屋跡から先、直進せよ、との指示があり、旧道を行くと、一里塚の先、道が補修されていて、普通に歩けました。

ただし、皆さんのブログによると、雨の日はやはり危険だそうで、国道歩きを推奨していました。

往時も足場が悪く、馬が落ちて死ぬ事故が多かったそうで、馬頭観音や石仏がたくさんありました。

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道路下の防崩壁が苔むしてきれい。
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人の声が沢山聞こえると思ったら、工事の人達がランチしていました。

工事の人達が、

「この先、工事中なので、気をつけて通ってください」

と声を掛けてくれたので、

「ありがとうございます」

とお礼を言って通りました。


12:07 古往還の説明
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案内板
「 → 古往還と云われ江戸時代初期の道です。
道巾が取れず、危険で江戸時代後期には、左に迂回しましたが、川の蛇行で道が消えています。
これより先、崖道で崩落が見られます、足もと、落石にご注意下さい、安全確認を願いします。 」


峠より2.0km地点
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工事中の場所は、直してきれいな場所と、まだ直していなくて危ない箇所もありました。
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工事中の写真は歩きやすいところてます。危ないところは写真を撮る余裕はありませんでした。

後期の中山道は通れないと説明。
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苔がきれい。
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峠より2.2km地点
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小さな橋を渡りました。(写真には撮りませんでしたが、この先もう一本木の橋がありました)
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馬頭観音
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12:23 国道に出ました。

この先、中山道が確定していないので、国道を1.7km下って、浪人塚を目指してください、とのこと。
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扉峠トンネルからの距離が書いてあり、それを目安に歩きました。

標高1100m
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分岐を左へ
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中部北陸自然歩道
諏訪大社下社(秋宮) 7.1km
和田峠 4.9km
(車に注意して国道を)


国道に142号線のガード下を潜りました。
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12:49 史蹟 浪人塚(この裏五〇米先)
和田嶺砥澤合戦跡
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ここで少し休憩。11年前もここで休憩しました。そろそろ持参の飲み水が足りない。
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案内板
下諏訪町文化財 史跡 浪人塚

ここは浪人塚といい、今から一二〇年前元治元年(1864 年)十一月二〇日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎 たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
主要武器はきわめて初歩の大砲十門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍に一〇余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。

昭和四十六年三月五日 指定
下諏訪町教育委員会

峠より5.0km地点
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13:09 樋橋茶屋本陣跡
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案内板
「 樋橋村の今昔
 
樋橋村は江戸時代(寛永十一年)に誕生しました。中山道 和田峠の登り口に立場茶屋として栄え、茶屋本陣があり大名、公家、幕府役人や一般の旅人が休んでいきっました。文久元年(1861)十一月六日皇女和宮 様が御降嫁の時茶屋本陣でおやすみになられました。茶屋本陣の(御殿)を修築しお休みいただきましたが、その折ご心境を詠まれた和歌を本陣に残されたと伝えられています。この時のお通りは四万人ともいわれます。茶屋本陣跡は昭和四十五年に下諏訪町文化財に指定されました。
元治元年(1864)十一月二十日、水戸藩尊攘派天狗党と呼ばれた千余人の一行が上京の途次通行し、幕命でこれを阻止するために高島藩・松本藩連合軍とが戦った(和田山領合戦)、樋橋戦争 とも呼ばれた戦いがありました。
明治十五年(1882)から組長記録が残っていて、明治十五年の樋橋は下諏訪村二十一番組と称し戸数十四戸でした。明治二十二年までは組長は伍長総代と呼ばれていました明治十八年、待ちに待った下諏訪学校樋橋派出所新築されました。建築費は当時のお金で二十三円五十五銭、
生徒は十四人でした。
明治三十七年樋橋から立った小松源太郎氏が初めて町議会議員に当選
大正二年九月二十四日、大火が発生し九戸が全焼してしまいました。このとき当時十三才だった小松良人氏は萩倉に知らせに走り、萩倉消防組が消火に駆けつけてくれました。大正十二年には電灯線が配線されようやく電灯が灯りました。
昭和十四年に萩倉、樋橋、東俣が第六区となり、昭和十六年の人口は八十九人でした。昭和二十六年に小松茂平氏空き家を買収して樋橋公会所とし、二十九年には公衆電話が開通しました。三十二年に上水道が完成。
昭和三十年代半ばから児童数が減少し、昭和三十七年三月樋橋分教場は七十七年の歴史に幕を下ろしました。
その昔、樋橋村の人々は養蚕・炭焼き・稲作で生計を立てていましたが、時代も変わり現在では農業人口も減り、国道や周辺も大きく変わっています。
歴史ある公会所も老朽化が進みましましたので、地元企業の皆さんの協力をいただき下諏訪町からの建設事業補助金を受ける中で、村の皆さんの協力のもと昔の姿を残しつつ、憩いの場として立派に改修ができました。
樋橋は現在九戸二十五人が暮らしています。長い歴史が残るこの村をこれからも皆で力を合わせて守っていきたいと思います。
平成二十四年十一月吉日 」


延命地蔵尊堂跡
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「 村のはずれの
お地蔵さんは
いつも
にこにこ
見てごさる

平成十八年八月八日
主 小松良人
子供一同建之 」


標高1000m
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13:15 中山道は右の草の道へ
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草ぼうぼうで不安になります。
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13:19 木の橋があったので、この道でいいらしい、と少し安心しました。
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この辺りに樋橋の一里塚跡があるはずですが、見つけられませんでした。

中山道の標識があったので、ほっとしました。
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13:39 やっと自動販売機があり、120円で水を買いました。
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峠より7.0km地点
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13:48 地下道で国道を渡りました。
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道祖神 四本の御柱で囲まれています。
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多分、個人のお宅の苔庭
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14:02 峠より8.0km地点
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14:02 疑似御柱(木落し坂)
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案内板
「 疑似御柱

この御柱は疑似御柱です
諏方大社・下諏訪観光協会のご協力を戴きまして御柱祭りにご神木として使用されます同じ樅の木を設置致しました
樹齢約百年の樅の大木です
地元有志で構成しております模擬御柱会は七年毎に御柱祭りが終了した後に模擬御柱を設置させて戴く奉仕と毎年模擬御柱の化粧直しの奉仕を行っております
諏訪大社
下諏訪観光協会
疑似御柱会 」


中部北陸自然歩道
諏訪大社下社(秋宮) 3.5km
和田峠 8.5km
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下り道
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句碑
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石仏石塔群
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芭蕉句碑
「ゆき散や穂屋のすすきの
刈残し 」
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14:14 中部北陸自然歩道
諏訪大社下社(秋宮)3.1km→
←8.9km 和田峠
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峠より9.0km地点
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14:23 石仏 新しいものかな?
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14:31 宮の湯入り口
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毒沢ミネラル療養泉宮の湯着
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今夜はここに泊まります。

ここが実家だという画家、武田健吉のミニ作品展を見ました。
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18:00 夕食
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本日の歩数 33,635歩 20.517km

明日、二度目の中山道12日目は、下諏訪宿まで山を下ります。
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/201400


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き11日目の2(和田峠から西餅屋跡)

二度目の中山道11日目の2
2020年7月31日(金)の2

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10:18 分岐を左へ
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旧道入り口
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和田嶺神社碑
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標識(パイプトンネル入り口)
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10:27 パイプトンネル(ビーナスライン下)
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ビーナスラインを渡った所 木の階段
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ビーナスラインの、道を渡った所向こうのこれから行く道
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10:41 草の上り道
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11年前は、ここをぐんぐん上って人を何人か追い越しましたが、今日はきつい。

10:50 峠が見えました。
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10:51 和田峠 標高1531m
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案内板
「 歴史の道 中山道 古峠

 中山道 建設以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
 明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり古峠の名を残すのみである。

文化庁 長野県 和田村 」


賽の河原地蔵
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本尊大日大聖不動明王
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御嶽山坐王大権現
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10:55 「歴史の道中山道 古峠」の案内板の作る日陰でランチ
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「民宿みや」のおかみさんが作って下さったお弁当。魚肉ソーセージと大きなおにぎり2個。おにぎりの中身は、梅と昆布でした。美味しかった。

今年は梅雨が長く、今朝まで雨が降っていましたが、峠では晴天。梅雨は明けたのかな?
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後で調べたら、今日、梅雨が明けました。

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11:10 出発 下り道です。

賽の河原七曲り(ザレ場下り)

草むした石仏(水呑場地蔵菩薩)
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中山道石小屋跡
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案内板
中山道 石小屋跡

中山道の古峠は、標高一、六〇〇メートルの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割り人足も出動した。下原村の名主勝五郎は、安政二年(一八五五)に避難場所と荷置き場を造ろうと郡御奉行所に口上書きを差し出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。
石小屋は山腹を欠いて高さ約二メートルの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで二・三メートル長さ五十二メートルという大きいものであった。人馬の避難所や荷置き場には絶好の施設であった。
その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の一部を残すのみである。

平成九年五月
下諏訪町教育委員会

11:36 川を渡る
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11:38 峠より1.0km地点
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11:43 下りてきたところ
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中部北陸自然歩道
諏訪大社下社(秋宮)11.1km
和田峠 0.9km

こんなところを下りました。
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11:49 界甲三三五
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道の向こうに下りる
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道標 中部北陸自然歩道
和田峠 1.2km
諏訪大社下社(秋宮)10.8km
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11:56 峠より 1.6km
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12:01 下諏訪町文化財 西餅屋茶屋跡
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案内板
下諏訪町文化財 西餅屋茶屋跡

西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿 と和田宿 の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手」(直角な曲り)と茶屋跡がのこっている。

昭和四十五年九月十六日 指定
下諏訪町教育委員会


本日の3(古往還~木落坂~毒沢ミネラル鉱泉)に続く
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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
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