紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き13日目の2(塩尻峠)

2度目の中山道13日目の2
12月27日(金)の2


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【岩船観音】

12:32 岩船観音
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案内板
「 石船観音   岡谷市教育委員会
 本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。境内を鳴沢清水といって豊富な清らかな水が流れていて、参拝者の喉をうるおしている。例祭は五月の八十八夜ごろである。」

山門の屋根の下でレインズボンを履きました。トイレも借りました。
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10年前のブログより

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中山道13日目

2009.5.2.

岩船観世音に立ち寄り、何段もの石段を登りきると、本尊の馬頭観音。旅の安全祈願と、旅人の足を強くしてくれるご利益があるとのことで、お参りしました。

巨大な草鞋が飾られていました。

岩船馬頭観音の階段をまた下りてまた坂を上るのが億劫で、社の裏の森林から中山道へ平行移動してワープを試みた時に、森林の中をガサガサ歩きました。

この森林のワープは、一旦下がってまた下りることからは免れましたが、歩きにくい森林の中を進むのは時間がかかり、素直 に階段をたくさん下りて、舗装道路を歩いてきた方が、ずっと早かった、と反省しきりです。

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旅をしていて思う名言

「山道の近道は藪こぎ」

これは人生にも言えること。人生、遠回りでも確実な道が一番。近道には落とし穴がある。


【大石と峠への上り道】

12:50 中山道の大石
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この先12月27日から冬期の期間通行禁止の札が出ていました。これ、車だけだよね?でも、この先の積雪や路面凍結などの状況が不安。
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急な上り坂が続き、暑くなってきました。
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塩尻峠】

急に冷たい風が吹き付けてきたと思ったら、塩尻峠着。13:07
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雪だか霜だかで白い道を上り、
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13:08 富士浅間神社
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案内板
「 富士浅間神社
江戸時代

松本領・諏訪領と
の郡境の宮として
石祠を俸祀した。 」

13:08 明治天皇御野立所
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展望台
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今回は視界も霧に包まれているので上りませんでしたが、10年前に来たときは展望台に上って、塩尻の町を見下ろしました。


塩尻峠からの下り】

13:13 中山道下り坂へ
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諏訪側よりも塩尻側の方が寒い。道の雪も少し多いみたいで不安でしたが、滑ったりはしませんでした。
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【東山一里塚跡】

13:28 東山一里塚跡
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案内板
「 市史跡 東山一里塚

所在地 塩尻市大字旧塩尻七〇一番地四
平成元年三月三十一日 塩尻市史跡指定

 東山一里塚は、東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図には道を挟んで二基描かれているが、南側のみが現存している。
 この塚の大きさは、幅十二m、奥行十三m、高さ三mの塚である。
 慶長十九年(1614)に、中山道は牛首峠経由(桜沢口ー牛首峠ー小野ー三沢峠ー諏訪)から塩尻峠経由(本山ー洗馬ー塩尻ー下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃につくられたものと推定される。
 市内には、東山・柿沢・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・鳥居峠の九か所に築かれたが、現在は、ここ東山と平出・若神子の一里塚 が形を残しているだけである。

塩尻市教育委員会

塩尻東小学校の児童が描いたかるたも一里塚跡と一緒に建てられていました。
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13:33 高ボッチ高原の案内板
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【お化けカボチャ】

13:37 馬頭観音・半僧坊大権現・道祖神
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13/44 野菜直売所のオバケ南瓜
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13:47 右への分岐
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ガイド本には目印として「神渡」(日本酒)の看板、とあり、10年前は「神渡」を目印に分岐に入った記憶がありますが、今回来てみたら、「神渡」の看板はありませんでした。

13:51 牛馬守護神
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13:57 地下道で道を渡る
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首塚・胴塚】

首塚・胴塚の案内標識があったので、旧中山道から少し外れて、畑の中の道を行ってみました。そこまで遠くはないけれど、いったいどこにあるんだろうと、ちょっと心配になるぐらいの距離はありました。

14:14 首塚 胴塚
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案内板
首塚・胴塚
戦国時代

塩尻峠の合戦で
討ち死にした兵の
亡骸を地元民が
葬ったといわれる 」

案内板の横に、塩尻東小学校の児童が描いたかるたもありました。
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石碑文
首塚・胴塚の由来
今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実験を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
その後、戦国時代も終り、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の所在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
昭和10年に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄付金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
昭和五十七年六月
中村一一記
ふるさとづくり推進委員会 」


【柿沢の男女双体道祖神

首塚・胴塚から旧中山道に戻ってくると、反対側の角に道祖神や、塩尻東小学校の児童が描いたかるたや、絵地図などがありました。

14:18 男女双体道祖神
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案内板
「 柿沢の双体道祖神
年代不明

おぼろな造形は、
かなり古い型一度
他地区よりご縁想
されたが、とりか
えしたと伝えられ
る。 」


ご縁想とは?

信州安曇野道祖神ナビより

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江戸時代において、道祖神の御縁想や嫁入りとも言われ、
道祖神盗み」が、村の若者によって行われたそうである。
繁栄している村の道祖神を盗むことによって、その繁栄にあやかるために
行われた。

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この辺りの坂を永井坂というのですが、かるたによると、この坂に、戦国時代の爪痕が残されているようですね。
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その一番手が先ほど見てきた首塚・胴塚でしょう。

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【高札場跡】

14:21 雀おどり棟飾りの家
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14:22 高札場跡
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案内板
「 高札場
江戸時代

禁制・禁止の触れ
書きや、防火の
制礼が掲げられた。 」


【本棟民家】

14:23 本棟民家
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案内板
「 本棟(ほんむね)民家
江戸時代

松本平に数多く見ら
れる切妻造りの民家。
雀踊りと呼ばれる
棟飾り意匠は 風格
と威厳がある 」


本棟造り wikipediaより

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本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式である。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴。重要文化財にも指定されている堀内家住宅や馬場家住宅などが有名。

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永福寺観音堂

火の見櫓の左へ入るべきところを右に入ってしまう。

14:28 茅葺きの建物
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こんな素敵な建物、なんだろうと思ったら、馬頭観音堂の裏側でした。

永福寺観音堂
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案内板
「 市有形文化財
慈眼山永福寺観音堂
所在地 塩尻市大字塩尻町一二二三番地

永福寺木曽義仲ゆかりの地で元禄十五年(一七〇二年)現在地に伽藍と木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音を建立したがその後焼失した。安政二年二月(一八五五年)当時の社寺建築士界の第一人者である二代立川和四郎内匠富昌が請負い工事中翌三年十一月四日彫刻用材の大けやきの枝おろしの際七十四才で死去した。初代立川和四郎富棟は諏訪の大工棟梁で全国に名作が多く、幕府から内匠の称号を受け『立川流和四郎』の名で、建築にすぐれた。二代富昌は彫刻に名作を残した。観音堂は正面三間、奥行四間、入母屋造り妻入り向拝付で屋根は茅葺き箱棟である。母屋の柱間の中備は十二支の彫刻を計画したが正面に一つあるのみ しかし向拝殿の中備の竜は迫力ある彫刻であり全体としては未完成だが立川流の手法が見られ二代富昌の最後の作で不慮の事故によっての終えんの地である。

塩尻市教育委員 」


永福寺仁王門】

14:37 永福寺
木曽義仲ゆかりの寺
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仁王門
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案内板
「 市指定有形文化財(建造物) 永福寺仁王門 一棟
指定 平成二十年一月十八日
(所在地 所有者 割愛)
仁王門 三間一戸楼門、
桁行七・四メートル、
梁間四・四メートル
入母屋造、平入、桟瓦葺
附 棟札 二枚

永福寺仁王門は、明治二十六年(一八九三)より着工、同二十七年に上棟された。棟梁は立川(立木)音四郎種清である。立川音四郎種清は下諏訪町天保十三年(一八四二)に生まれ、その後、立川流二代目立川和四郎富昌の弟子となり、県内各地をはじめとして明治二十一年の皇居造営にも携わる。
仁王門は、入母屋造り、平入、桟瓦葺、三間一戸の楼門である。一階組物は出組、二階は三手先とし、軒は扇垂水とする。また、二階四周に擬宝珠高欄付きの切目縁を廻す。柱間は一階前面を吹き放ちとし、正面両脇は仁王様を収めるために前面を開放し格子をはめ、その他は板壁とする。二階では正背面中央を引き違いの格子戸とする他は板壁とする。妻飾りは狐格子に猪の目懸魚を備え、小屋組は和小屋で束や登梁により棟木を支持する。一階柱上の木鼻は正面内側二つが麒麟、両外側が貘、背面両側二つが獅子、両外側が像となる。背面東側の像の牙の一部に彫り残された箇所があり、興味深い。
仁王門では、伝統的寺院建築の構成を基調とし、木鼻をはじめ建物彫刻に立川音四郎種清の高い力量がよく示されている。なお境内には、別に市指定有形文化財(建造物)である観音堂があり、立川富昌、富重、種清と立川流工匠の手になる建造物をあわせて見ることができる。
塩尻市教育委員 」

本堂
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2度目の中山道13日目の3(塩尻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/29/085822


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

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