紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き13日目の1(下諏訪から塩尻峠への道)

2度目の中山道13日目の1
12月27日(金)の1


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下諏訪駅からの出発】


今日から2日間、青春18きっぷの旅。夕べはダンスの後、前のりで立川まで来ていました。立川までは青春18きっぷは使わず、Suicaで来ました。

東横INN立川駅北口に泊まりました。ポイントが貯まっていて無料で泊まりました。

今朝は6:00にチェックアウトして、立川発6:20高尾行きに乗り、八王子で乗り換え。


八王子始発6:38 普通列車松本行きに乗りました。私を含め、ちらほら旅か帰省かの人もいましたが、(リュック、スキー、自転車も!)通勤列車ですね。
上野原辺りまでは満席でした。

すいてきたしお腹もすいてきたので、塩津辺りで持参のパンとノンシュガーカフェオレで朝食。

以前住んでいた梁川。懐かしい、というより、なんだろうなあ。

「梁川ー、やながわー」

という放送を聞くと、降りなきゃ、と思ってしまうし、目の前に見えている山のあの麓には昔の級友が住んでいる。私と同い年で、同じように齢を重ねているはずなのに、思い浮かぶのは小学生の時の顔。

この前の土日辺りにこの辺も雪だったらしく、溶け残った雪がちらほら。

中央本線は谷を縫うように走るので、山々の中腹がよく見え、山々の山懐に雲が生まれて、山に雲が抱かれているようでした。

私は思春期を、こんな風景を見ながら育ったんだなあ。

一旦減った乗客がまた増えて、やはり通勤電車だなあ、と思っていたら、甲府ですっかりすきました。

韮崎を過ぎてからは、車窓から甲斐駒ヶ岳が見えるのでは、と眺めていたところ、霧か雲かで甲斐駒は見えませんでしたが、きれいな虹が見えました。

長坂辺りから、反対の車窓に八ヶ岳が見えるかと振り返ったら、南アルプス側は全体が霧か雲ですが、八ヶ岳は梺がうっすら見えて、上の方はふわふわの白い雲で覆われ、空は青いので、もう暫くしたら八ヶ岳は見えそうです。富士山は全く見えませんでした。

9:45 下諏訪着。

荷物をコインロッカーに預けて、さあ、出発。

駅前に御柱(おんばしら)が立っていました。
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案内板
御柱(おんばしら)

諏訪大社で七年ごと寅、申年に行なう御柱祭は、神殿の御造営と共に霧ヶ峰高原に続く東俣国有林で抜粋の樅の巨木を数千人に及ぶ氏子が曳行、社殿の四隅に建立する、他に類を見ない豪快勇壮な祭である。御柱建立の意義は、四方鎮魂のしるしでまあることから、平成十年の長野冬季オリンピック開会式に『聖なる空間』の創造にと『建て御柱』が行なわれた。
ここに建つ御柱は、その冬季オリンピック会場に建てられた御柱である。

平成十年四月 」

下諏訪駅
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何かのモニュメント
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案内板
下諏訪町は江戸時代、中山道甲州街道が交わるところ、○○○○を誇る宿場町として栄え、○○○○馳せた歴史と文化の面影を今に残している。
諏訪本社の門前町としても賑わい、『おんばしら祭』が寅(とら )、申(さる)の年に行われ、その勇壮、豪快な祭りは天下の大祭として全国に知れ渡っている。また、毎年行われる『お舟祭り』も有名である。
このモニュメントの『綱』はおんばしら、お舟の曳き綱を表している。一本の縄に力が込められ、太く力強い『綱』ができ上がる。人々の、団結、協力、絆を意味する。
下諏訪町の未来は『燦(さん)』として輝く。 」

10:01 まずは中山道甲州街道の出会いの場所に向かって出発。

中山道日本橋から京都三条大橋までの全行程、10年前に歩いています。

今年は2度目の東海道五十三次を歩きましたが、中山道もぼちぼち歩こうかなと。今回は全行程ではなく、記憶が薄い場所や、もう一回行ってみたい場所など、スポットで歩こうかと思います。

「楽しく歩こう中山道」を目標に。

耳が冷たいので、帽子をかぶりました。


【立町通のご神湯】

10:13 下諏訪宿立町入口
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案内板
「 立町通り
源泉掛け流し
諏訪明神御神湯

立町まち作り協議会 」

10:16 綿の湯
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案内板
「 綿の湯由来

中山道下諏訪宿 立町
ここ八ヶ所の源泉掛け流し温泉は諏訪明神の御神湯と言われています。
女神様のお化粧水が温泉になったと言い伝えられ、
綿の湯(わたのゆ)と呼ばれて千年も脈々と流れ続けているのです。

立町まちづくり協議会

このご神湯を手水としてご利用下さい。」


【出合いの地】

10:16 御柱神湯
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10:19 甲州道中・中山道合流の地
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10:20 問屋場跡・綿の湯碑
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【本陣〜本家と分家】

10:21 岩波家本陣
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案内板
「 本陣岩波家(本家)

明治天皇行在所

『上々段の間』

和の宮御休息

本陣古美術館

中山道随一名庭園
この奥に江戸時代の
本陣が広がっています

入館料 大人 五〇〇円
小中学生 三〇〇円
二〇名様より二割引 」

今回は閉門していて、「本日は都合により休館とさせていただきます」の貼り紙が出ていました。

10年前に来たときは、開館時間内であればいつでも見学できましたが、今は要予約のようです。


10年前のブログ

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中山道12日目(和田宿〜和田峠下諏訪宿)

2009.5.1.

下諏訪温泉には、中山道甲州街道の合流点があり、感動してしまいました。

本陣岩波家も有料で公開されていて、隣の聴泉閣かめやも、皇女和宮が宿泊された上段の間を有料で公開しています。

私はたまたま聴泉閣かめやに入ったのですが、どうやら昔は隣もこちらもひとつの旅館だったのが、分家争いで別れてしまったらしいです。

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聴泉閣かめやHPより

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下諏訪宿は300年余りの歴史を持ち、本陣の一部であった当宿の『上段の間』には、皇女和宮さま、参勤交代の諸大名や、第5代将軍~第14代将軍の歴代御台所の花嫁行列の寝所でありました。

また、隣接の本陣岩波家へは幕末に赤報隊の相楽總三、近藤勇新撰組、水戸浪士軍が宿泊され、激動の幕末の舞台となりました。
かめやとして営業を開始した明治以降、島崎藤村芥川龍之介与謝野鉄幹・晶子、宇野浩二西條八十など諸文豪を迎えた歴史ある宿でございます。

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以前は庭園も広大だったようですが、分かれてしまったため、今はこじんまりしているようです。

聴泉閣かめやと岩波家と、どちらが本家でどちらが分家か、お互い一歩も譲りません。

岩波家には明治天皇が泊まられた上段の間があり、聴泉閣かめやには和宮が泊まった上段の間があります。

【薬医門と魁塚碑】

本陣跡からは来た道を戻り、下諏訪宿立町通りの門を潜って車通りの多い道を右折。

来たときに見かけたセブンイレブンでトイレをお借りして、お腹がすいたので塩豆大福を買って食べました。

10:39 薬医門
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案内板
「 薬医門

弘化四年(一八四七年)
六代武井武昭建立。医師にのみ
許可されたと言われる。 」

10:44 分岐(左へ)
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目印の蛇の目寿司は、閉店してしまったのか、たまたま休みだったのか。

10:45 魁塚碑
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下諏訪町HPより

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魁塚(相楽塚)

・所在地 魁町
・所有者 下諏訪町
・指定 昭和49年6月24日 町・史跡


 この魁塚は(さきがけづか)、相楽総三(さがらそうぞう)(本名 小島将(まさ)満(みち)1839~1868)始め8人の赤報隊(相楽率いる一番隊の呼称)幹部が冤罪(えんざい)により、慶応4年(1868)3月3日斬首(ざんしゅ)の刑に処せられた地に、かつての同志であった人達や有志により明治3年 (1870)建立された塚である。

 官軍先鋒(せんぽう)維新の魁としてのり込んできた人達が、一転してにせ官軍とされて刑に処せられたことは、地元の人々の大変な驚きであった。しかし、隊長の相楽は、高島藩士で勤王の先駆として活躍していた石城東山(いしがきとうざん)と同志であり、相楽が再三諏訪を訪れ、同志を糾合していた。そのため、相楽の名は早くから諏訪人に知られていて、惜しまれていたこともあって、そのときの刑場を魁塚として慰霊を行い続けている。維新の魁をした人達の塚というのである。

 相楽の孫木村亀太郎は祖父相楽の冤罪を晴らすことに生涯をかけ運動し、ついに昭和3年(1928)に正五位相楽総三従五位渋谷総司の贈位があって、晴れて志士として認められた。

 この塚には刑死した相楽総三・渋谷総司・竹貫三郎・小松三郎・西村謹吾・大木四郎・高山健彦・金田源一郎のほかに同志として所を異にして命を落とした金原忠蔵・熊谷和吉・丸尾清・北村与六郎と石城東山も併せてまつってあり、年々4月3日に遺族と地元の相楽会が祭事を続けている。塚はかっての中山道の道沿いにあって、106平方メートルの敷地である。

 なお宮内大臣(くないだいじん)一木喜徳郎題額による魁塚碑昭和5年(1930)4月に建設されていた。この碑文には「昭和3年の秋の大礼に相楽総三・渋谷総司の贈位を褒賞し、討幕の魁であった数々の事跡を細記し、信州下諏訪(しものすわ)において、相楽30歳、渋谷22歳にて同志8 人と共に、斬に処せられたこと。かっての同志落合直亮(なおたか)たちの運動により、明治3年(1870)3月に官の許しを得て刑死した8人、その他5人の名を刻み碑を建てたことなど、贈位により冤罪が晴れたこと」を言祝(ことほ)いでいる。

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もう8年ぐらい前かな?スージーの職場の方がお芝居をやっていて、スージーと一緒に観に行った芝居が相楽総三赤報隊の話でした。

幕末から明治維新の話は苦手なのですが、あの芝居は胸にグッと来ました。

今日、魁塚を見て、胸が締め付けられる思いでした。

魁塚
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この頃までは晴れていました。


【露地の中山道

10:48 一之宮常夜燈
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今日の天気予報は、朝のうち雨で、その後は晴れか曇りだったのに、霙が降り出しました。

10:51 道祖神
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屋根付きの駐車場の軒先をお借りして、レインコートを着ました。

10:53 露地の中山道
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そうそう、そうだった。中山道は露地が結構あるんです。

露地から堤防に出て、今来た道を振り返りました。
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【昔どおりには進めない】

10:54 富士見橋
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富士見川工事中

橋には両側に歩道がありました。

また露地の中山道
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写真は、現在の中山道は昔通りには歩けず、このように進んでください、という地図。
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暫く進むと、旧中山道は車道を横ぎらねばなりません。

横断歩道のない道を急いで渡りました。

10:59 下諏訪町第七分団火の見櫓
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11:06 十四瀬川の小さな木製の橋
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風が強くて写真撮るのが大変でした。

結構雪が降ってきました。


【県宝 旧渡辺家住宅】


11:19 旧渡辺家住宅
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「旅たび 岡谷」より

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渡辺家は長地東堀にあり、高島藩の散居武士の家です。

安政年中(1854年以降)の「家中分限帳」(武士の身分、禄高を記した帳面)によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持渡辺斧蔵」とあって、下級藩士であったことがわかっています。この一家から、渡辺国武、渡辺千秋、渡辺千冬の3人の大臣が出ています。

渡辺国武は大久保利通に重用され、伊那県に勤め、兄千秋とともに大蔵省に入りました。その後、高知県令・福岡県令・大蔵省調査局長・主計局長・大蔵次官を経て明治25年(1892)第2次伊藤内閣の大蔵大臣となりました。これは、信州出身としてははじめてのことでした。

渡辺千秋は国武の兄で、同じく大久保利通に重用され、鹿児島県令・滋賀県知事・北海道長官・京都知事をつとめ、こちらは明治43年(1910)には宮内大臣となりました。

渡辺千冬は、千秋の3男で、東京帝国大学法科を出て政界に入り、衆議院議員貴族院議員・司法大臣を務めています。

創築は、18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されました。土間が広く、農家とよく似た間取りですが、中床をそなえた座敷などに武家住宅としての特徴が見られます。全国的にも数少ない下級武士の家として貴重なものといわれています。

3大臣に関する貴重な関係資料もすぐ近くにある郷土学習館で併せて見学することができます。

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11月4日から3月19日、冬季休業で見学できませんでした。

また、その他の期間は、郷土学習館で受付をすませないと見学できません。


【日限地蔵】


11:23 平福寺公園
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11:27 日限地蔵(平福寺境内)
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平福寺ホームページより

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日限地蔵尊(通称・ おひぎりさま)は願い事を託す「願かけのお地蔵さま」です。「日を決めて参拝すると、不思議にもご利益がある」と伝えられ、日々多くの方が参拝にみえます。

毎月23日のご縁日、特に4月の例大祭には、大般般若法要が行われ、桜の咲きほころぶなか、露店や青空市も立ちならびます。

江戸時代の末、下諏訪の商人と二人の女性の篤い信心により、伊豆三島の蓮馨寺から分身が勧請され、嘉永三年(1850)に諏訪下社秋宮三精寺に安置されました。明治の廃仏毀釈により当山へ遷され、大正十四年(1925)には、現在の日限堂が建立されています。

明治から昭和初期、「シルク岡谷」と云われた製糸業を支えた方々をはじめ、多くの参詣者による賑わいは、今も古老に語り継がれています。本来、地蔵菩薩は、24日が縁日ですが、宵祭りに出かける人が多かったため、いつしか23日が縁日となったとされます。戦後になって例大祭が復興され、会館・御水舎・点香所等も整備されました。

地蔵菩薩は、修行者の姿をしています。これは何処へでも出向き、錫杖にて諸魔を払い、宝珠にて諸願を満たすという誓願の現れです。特に子供やお年寄り、そして弱い立場の者を護り、導いて下さる仏さまです。

どなた様も、境内ご自由に参拝できます。地蔵菩薩のご真言「オンカカカビサンマエイソワカ」をお唱えし、心をこめてお参りください。

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【雀踊り?】


11:32 寛政三年の道標
(右 中仙道 左 いなみち)
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11:36 中山道標石
(雀踊りの棟飾りを上げた、本棟造りの
旧家の前にあります。)
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その本棟造りの民家の門です。
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ローソンでトイレを借りて、ツインシューを買って食べました。


【東堀の一里塚跡、馬頭観音など】

11:51 東堀の一里塚跡
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12:00 常夜燈・道祖神
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12:00 馬頭観音
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12:09 双体道祖神
御柱で囲まれている
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【旧御小休本陣跡(今井家)】

12:13 旧御小休本陣(今井家)
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案内板
「 旧御小休本陣 今井家

 旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古来交通上の要衝で、江戸時代には、こゝに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残して居る。
 中山道 は江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交替 の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
 文久元年十一月五日、皇女和宮徳川将軍家に御降嫁の時、明治十三年六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時御小休になられた。
 平成十一年七月十六日、『江戸時代の姿をほゞ継承して居る点が貴重である』として、主屋等十一件が国の登録有形文化財に指定された。 」


12:16 中山道
雪がかなり降っています。
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2度目の中山道13日目の2(塩尻峠への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/27/145001


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003