紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き14日目の3(本山宿)

2度目の中山道14日目の3
12月28日(土)の 3


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【本山宿下町石造群】

12:02 秋葉神社 本山宿下町石造群
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案内板
「 本山宿下町石造群

庚申塔 一基
供養塔
二十三夜塔
南無阿弥陀仏 文化二年
地蔵尊 二体
南無阿弥陀仏 徳本上人 文政二年
馬頭観音 馬持中 二体
道祖神 寛政二年
常夜燈 秋葉神社

秋葉神社

これらは宿場北端の下木戸(池生神社入口付近)にあったもので、秋葉神社は火除けの神様として信仰され、今でも年一度の代参が行われている。 」


【そば切り発祥の地】

12:08 本山宿そば切り発祥の地
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案内板
「 本山宿 そば切り発祥の地

中山道本山宿のそば切りは古くから様々な文献に紹介された。
『そば切りといっぱ もと信濃ノ国本山宿より出て あまねく国々にもてはやされける』 風俗文選 森山許六 宝永三年(1706)
『本山のそば 名物と誰も知る 荷物をここに おろし大根』 任戌紀行 太田南畝
享和二年(1802)

本山宿本陣の大名宿泊帳には、寛文四年(1664)にそば粉が進物として用いられ、寛文六年(1670)に 丹羽式部少輔(美濃岩村藩主丹羽氏純)に『そば切り御上げ申し候』と記録されている。

これらの文献よりそば切り発祥の由縁となっている。 」

※寛文四年が1664で、寛文六年が1670では、計算が合わないが、案内板のまま。

12:08 下木戸跡(目標物なし)
本山宿そば切り発祥の地の看板の辺りです。


【本山そばの里 宿場御膳】

12:10 本山そばの里
年内の営業は今日まででした。

本山では、中山道を旅する人々にそば切りをふるまってきましたが、明治に入り鉄道が出来ると中山道を歩く人が減ってしまいました。

そば切りはハレの日に食べる祝いの食べ物として、各家々で受け継がれていましたが、そば切り発祥の地である本山宿には蕎麦屋が一軒もなかったそうです。

本山の蕎麦の伝統を守り地域活性化につなげるため、平成三年に地元有志で「本山手打ちそば振興会」を発足。そばの注文販売を始めました。平成5年に信州博覧会でそばを販売し好評を得、平成6年に振興会の会員で出資金を募り、「そば切り発祥の地本山そばの里企業組合」を作り、本山に蕎麦屋を開きました。
(参考:塩尻市ホームページ)

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暖簾に書いてあるのは、


『 本山のそば 名物と誰も知る 荷物をここに おろし大根』
狂歌師 太田蜀山人

『そば切といっぱ もと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける』 風俗文選 雲鈴 一書


太田蜀山人は太田南畝の別号で同一人物。

風俗文選(当初は『本朝文選』)は芭蕉の門人、森川許六が編纂しましたが、その中に書かれている、このそば切りの文章は、許六の弟子の雲鈴が書いた言葉だそうです。

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前菜
パセリのお浸し・
瓜のカレー味の漬物・
野沢菜漬け

パセリのお浸しはびっくりしました。ここの、名物料理らしいです。

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12:19 宿場御膳1,160円
おそば・そば団子の汁物・
そば餅・
そばの実となめ茸の和え物

&サービスのそば餅(甘味噌かけ)
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どの料理も素朴で、どちらかというと薄味ですが、蕎麦尽くしなのに厭きることなく美味しくいただきました。

外にあるトイレを借りました。


【国の登録有形文化財

12:42 下社参道跡
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案内板
「 下社参道跡

下社(諏訪社)は昭和二十六年に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となった。 」


12:47 旅籠川口屋
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池田屋
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松屋
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案内板
「 国の登録有形文化財
川口屋・池田屋・若松屋

川口屋 小林家住宅主屋 桁行12m、梁間9・9m
二階全面千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。
二重出梁は、贄川宿 の深澤家住宅(国重要文化財)以外では唯一のものである。
池田屋 田中家住宅主屋 桁行12m、梁間12m
出梁造とし、二階全面に千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。棟に越屋根をつけている。軸部は弁柄塗りを施している。
松屋 秋山家住宅主屋 桁行8・7m、梁間12m
二階前面を腕木で持ち出す出梁造とし、管柱を立てて格子を設けている。二階全面に千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。
三軒とも明治二年の大火直後の再建と伝えられている。
間口は五間から七間の上級旅籠で、道筋に沿って斜交に建てられている。
中山道の華やか往来がしのばれる貴重な文化財である。 」


中山道 本山宿の大看板】

12:47 下問屋跡
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案内板
「 下問屋跡

明治六年、下問屋跡地に清行学校が創設された。廃寺になった長久寺の材木が使われ、
42坪の建坪であった。
明治八年には本山学校に改称され、57坪に増築された。
明治十三年の天皇行幸の際は、警護詰所に使われた。
本山学校は明治十九年、宗賀学校本山支校となって長久寺跡地へ新築移転された。 」


12:47 本陣跡
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12:48「中山道 本山宿」の案内板
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案内板
中山道 本山宿

 和銅五年(713)に開通した吉蘇路 において、本山は木曽谷から松本へ向かう重要な位置にあった。中世には東山頂に本山城が築かれ、ふもとに本山氏の館(本陣付近)や根小屋から宿場の原型となる集落が形成されていった。
 関ヶ原の戦では、徳川秀忠 軍が開戦当日の慶長五年九月十四日に本山に着陣していた。

 中山道 が制定された慶長七年(1602)、幕府代官頭大久保長安 は江戸の大普請の号令のもと、木曽の木材を搬出するため、江戸への近道として小野新道 をひらいた。これは桜沢から牛首峠をへて小野、岡谷・下諏訪へ至る道である。慶長十八年に長安の死後大久保事件の連座により、松本藩主石川康長が改易され、小笠原秀政 が入封した。秀政は慶長十九年(1614)、宿駅制度を整備し、本山宿に問屋職を定めた。また洗馬宿・塩尻宿 を新設して、もとの塩尻峠超えの道筋が中山道となった。
 本山宿 の問屋は、一ケ月の上十五日を小野七左衛門に、下十五日を小林八右衛門に命じ、半月交代とした。上問屋は小野氏(後に花村氏)が脇本陣と兼帯し、下問屋は小林氏が本陣と兼帯し、幕末まで続いた。

 本山宿は、南から上町・中町・下町で構成され、南北の長さ五町二十間(582m)、道幅は二間~三間、戸数百十七、本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠三十四軒であった。松本藩の南境として口留番所が設けられ、米穀・塩、女など通行改めが行われた。宿場用水は南の二つの沢から山斜面に堰や懸樋で引き込み、宿場の中央に用水を通し、五カ所に土橋が掛けられていた。
 本山の名物そば切りは、宝永三年の風俗文選に『そば切りといつばもと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける』と紹介された。また本陣では、そば粉やそば切りが諸大名に献上されている。
 文久元年(1861)十一月四日、本山宿は十四代将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮の宿泊地となった。京方一万人、江戸方一万五千人、松本藩などの警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日にわたり通行し、空前絶後大名行列となった。助郷二万人・馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったと伝えられている。
 慶応四年二月三十日、本山宿の長久寺において、松本藩主戸田光則東山道軍総督岩倉具定に勤皇の誓約をしたが、態度決定の遅れを理由に、三万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられた。松本藩の戊辰戦争の始まりとなった。 」


【本山口留番所跡 長久寺・常光寺跡】

12:50 上問屋跡・脇本陣
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12:52 本山口留番所
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案内板
「 本山口留番所

寛永十九年(1642)から幕末まで、松本藩によって口留番所 が置かれた。なお享和十一年(1726)から延享元年(1744)の十七年間は、塩尻組が幕府直轄領であったため、村井宿 に口留番所が置かれた。 」


口留番所 wikipediaより

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口留番所(くちどめばんしょ)とは、江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と称した。

戦国時代に戦国大名は領国内の要所に関所を設置し交通や物流の監視、関銭の徴収を行っていたが、江戸幕府寛永年間の武家諸法度の改正において諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていた。

だが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所であった。主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。前者には農民や欠落人(犯罪者)の逃亡防止・傷を負った者・女性、後者には専売品(各藩の特産品)の密輸防止や運上逃れの防止(品質や価格を維持するため)の目的とともに米などの穀物や金銀銅などを藩内に留めて必要な物資を確保しておく意図を有していた。弘前藩碇ヶ関などは特に有名であった。

また各藩において、通行する品物への税金、いわゆる「口役銀」(今でいう関税の様なもの)を徴収するのも口留番所の重要な役目でもあった。しかし、こうした税金を逃れるため不正を行う者が多くいたという。女性の通行に関しては特に厳しく、番所を通過するには、「関所女手形」が必要で、藩によっては通行を一切禁止する場所もあり、不正な通行には磔等の厳しい処罰が下される。また、鉄砲も女性同様に厳しく取り締まられ、「入鉄砲出女」という言葉が出たほどである。飛脚や位の高い武士は、そのまま通行することが可能だった。

番所の開門時間は、明け6つ(日の出)から暮れ6つ(日の入り)まで。日暮れになると門は閉められ、番所の一日は終わる。

また、江戸幕府においても裏街道に口留番所を設置した例はある。ただし、五街道の関所と比較すると小規模なものも多く、番所を破っても関所破りよりは軽い刑であったという。

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12:53 長久寺跡・常光寺跡
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案内板
「 長久寺・定光寺

長久寺(金峰山長久寺 曹洞宗
 天正年間に奈良井義高 が開基し、開山は長興寺三代の康翁寿泰大和尚、二世は充澤普和尚で、勢州渡会郡小林氏と縁あって当所へ来たる、と記されている。正徳三年(1713)には、千九百坪の地内に、客殿・衆寮・庫裡・十王堂など百二十二坪が建立されていた。慶応四年二月松本藩は東山道軍に当寺で勤皇の誓約を行った。明治四年、松本藩の厳しい廃仏毀釈により、十五世関宗和尚で廃寺となった。木材の一部は清行学校(下問屋跡)の校舎として使われた。

常光寺(小沢山常光寺 真言宗
 信濃三十三番札所のうち第二十一番
御詠歌『本山や 常の光の御寺にぞ 有明月に朝日かがやく』
 中世からの古寺で釜の沢奥にあった。以下の伝承が残されている。
 『奈良王という者、牛に経巻をつけて伊那路を超え、釜の沢に出る途中、山中に観音様を見つけたので、堂を建て安置し、そこを堂平といった。その後、宿入口に寺を建て小沢山常光寺と称した。天正の頃、堂塔焼失したので僧なく無住となった。』
 天正十年(1582)七月小笠原貞慶木曽義昌 の戦いがあり、観音堂付近で小笠原家臣が戦死した。
 また天和年間(1680年頃)に耶蘇教であったため廃寺になったとも伝られている。以後幕末まで、長久寺領の常光寺観音堂として残った。
 木曽名所図会 に、『本山観音 信濃巡礼二十一番也』と記されている。
 明治四年の廃仏毀釈で、観音堂は宝輪寺(松本市今井)に買いとられ再建された。本尊の十一面観音は行方不明になっていたが、明治九年に篠ノ井の岡沢彦次郎氏が偶然知った古物商から買い取り、信濃二十一番岡田札所常光寺として、お堂を建立して安置し現在に至っている。」


【高札場跡 常光寺観音堂跡】

12:54 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

高さ二間、長さ二間、横七尺。
宿の入口より三十間南に、建てられていた。

秋葉大権現 文政十三年
常夜燈 秋葉大権現 元治六年 」


12:56 常光寺観音堂
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その観音堂はどうなったんだろうと探していたら、たまたま見つけました。

長野市市制100年記念事業郷土史より

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長野市共和村の常光寺岡田観音堂

観音堂は、本組の西、長塚山の東山麓、遠くむこうに菅平の山脈が望める高台にある。地元の人たちにお観音さんと呼ばれて親しまれ、昔は子供たちの遊び場所でもあった。昭和55年境内は整備され、玉垣に囲まれた、間口3間、奥行き4間の立派なお堂に建て替えられた。

堂前には、定額山善光寺貫主義薫書の「信濃二十一番岡田観音堂」と銘記された石碑が信濃霊場としての風格を表している。石段を上り堂内に入ると、三段台座に蓮華台を置き、舟形光背っを背にした美しい十一面観音を拝することができる。厨子の扇の内側には脇待の不動明王毘沙門天が金箔地に極彩色で描かれている。

この観音は、中山道木曽路の入口である、本山宿の小沢山常光寺にあったが、天和元年(1681)廃寺となり、観音堂は村人に守られ残った。明治元年に公布された、神仏分離令による廃仏毀釈によりより廃堂となり、お堂は松本今井の宝輪寺に移築されたが、本尊の行方は不明であった。明治9年、信仰心の厚い岡田の岡沢彦治郎が、西国巡礼の途中名古屋の宿で同宿した古物商から本山の観音の話を聞き、信濃から由緒ある観音が他国に流れるのを惜しみ、古物商から買求めて自宅に持ち帰り、その後岡沢氏所有の現在地に堂を建て、これを安置し守り続けて今日に至ったものである。

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12:57 本山宿看板
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上木戸跡が所在不明でしたが、この本山宿看板辺りでしょうか?


2度目の中山道14日目の4(是より南木曽路)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/180236


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003