紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き12日目の3(湯の町下諏訪宿)

二度目の中山道12日目の3
8月1日(土)の3


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【伏見屋邸、今井邦子文学館】

10:11 分岐 中山道に戻りました。
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石仏石塔群
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石造の龍と階段
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龍口から出ている水を汲もうとしたら、温泉でした。


中山道五十五里塚跡(江戸から五十五里目の一里塚跡)
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峠より10.9km地点
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伏見屋邸 お休み処
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下諏訪観光協会ホームページより

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伏見屋邸は一八六四年(元治元年)の建築と推定される木造二階建ての旧商家。復元修理し、まち歩きを楽しむ観光客の休憩や住民の交流の場として開設しました。手作りのお漬物もおススメ!

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尾作田社
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下諏訪観光協会ホームページより

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「この神田に植えられた稲は1ヶ月で穂が出る」といわれ「諏訪大社下社七不思議」のひとつに数えられています。

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フィンランドミッション宣教発祥の地
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石碑文
「 1905 フィンランド・ミッション 宣教発祥の地

明治38年7月 フィンランドの女性宣教師エステリ・クルヴィネン(Esteri Kurvinen)シィーリ・ウーシィタロ(Siiri Uusitalo)の二人による日本伝道がこの地より始められた 」

モンパリ(床屋)前の自動販売機で水を買おうとしたら、水は売り切れだったので、お茶を買いました。160円


10:26 番屋跡
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10:28 今井邦子文学館(旧松屋)
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下諏訪町ホームページより

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かつて宿場の茶屋であった「松屋」を復元した建物。アララギ派の女性短歌結社「明日香」の編集所としても使われた当時の面影を偲ばせています。

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【旦過の湯と湯の町】

10:28 旦過の湯と湯の町
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案内板
「 旦過(たんが)の湯と湯の町

中世より、この地は湯の町として知られ、街道の道端で高温の温泉が自噴しているのが珍しく、多くの旅人が疲れをいました温泉場で、名湯として広く知られてきた。
ここ旦過の湯は、鎌倉時代に慈雲寺に来た修行僧のために建てた旦過寮(旦に過ぎ夕に宿す)からでた名前で、そこに付属させた浴場が旦過の湯であった。
温泉の効能は傷や吹き出物にもよく効くと言われ、元治元年(一八六四)和田嶺合戦の時、負傷武士の内で、この温泉に入った者は傷の治りが極めて早かったという。
現在も湯量が豊富で、かけ流しの公衆浴場として親しまれている。

平成二十四年十二月吉日
下諏訪財産区

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案内板
和泉式部の守り本尊

銕焼地蔵尊と ”かね” 

今から千年あまり語りつがれて来た伝説です。下諏訪の湯屋別当方に”かね”という幼い娘が奉公していました。
 畑に行く時はいつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
 ある時”かね”をそねんでいた仲間がつげ口をしたことから別当の妻はおこり、焼け火箸でかねの額をうちすえました。いたさにたえかねた”かね”は日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまずいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れでており、自分の痛みは消え、傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
 お地蔵様が”かね”の身代わりになってくださったのです。この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく『かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様』と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わうのでした。たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き”かね”をぜひにと、都に伴い養女としました。雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ”かね”は宮中に仕えるようになりましたが歌人として群をぬき、やがて和泉守 和泉守橘道貞と結婚、和泉式部となりました。
百人一首のなか

あらざらむ この世のほかの 
おもひでに 
いまひとたびの あふこともかな

善光寺大本願寺百二十世一条智光尼公上人ご染筆のこの歌碑が銕焼地蔵堂前に建てられています

銕焼地蔵尊奉賛会 」

小松定衛先生謝恩之碑
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明治13年下諏訪町横町に生まれ、16歳で豊平小学校教師として赴任し、20年以上に渡り教鞭をとり、昭和46年に教え子が顕彰碑を建てたそうです。

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案内板
「 縄文先進文化を生んだ
和田峠黒曜石

下諏訪町と長和町の境をなす和田峠周辺(標高約1500m)には黒曜石が産出します。黒曜石は、たたき割ることによって簡単に鋭利な刃物になり、石器時代から縄文時代後期の間、金属の刃物が使われるようになるまで、最も優れた石器の原石であり、価値ある交易品として東北地方から近畿地方まで広く伝聞されて使われました。このため、諏訪地方の縄文人は時代の最先端を行く文化のもと、豊かな生活が保障され、大いに栄えました。この時代の集落の柱建て祀りが現在の諏訪大社御柱祭の原型だとも言われています。
黒曜石は、火山活動によりマグマが地表近くまで上昇したとき、急激に冷やされ成分が分化して結晶化する前に固まった天然のガラスです。日本では数ヵ所で産出しますが、和田峠周辺の黒曜石は、世界的にもまれな良質です。 」


10:33 にぎわった旅館 つる屋跡
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【本陣跡】

10:34 本陣跡
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本陣跡については、二度目の中山道歩き13日目に詳しく書いています。


綿の湯・宿場問屋場
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下諏訪商工会議所ホームページより

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「 綿の湯」神の湯として親しまれてきた下諏訪温泉には、 神話に彩られ
た由来があります。はるか昔、諏訪明神の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」のお妃「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」が、上社の地から下社の地にお移りの時、日頃ご愛用の 温泉を綿に湿し、「湯玉」にしてお持ちになった。無事、下社にお着きに なったとき、手にしていた「湯玉」を置いた所から、温泉が湧き出した。 湧き出した場所が下諏訪温泉で、その神話に基づいて「綿の湯」と名付けられた。

「神様の湯」だから神聖で、汚れたものが入ると、湯口が濁ったといわれて
いる。この「湯口の清濁」は、下社七不思議の一つに数えられている。神様
の怒りに触れて湯が濁っても、たちまち汚れをすすいでくださると、云われ
ているのが有難い。現在の「綿の湯」は、老朽化のため取り壊され、「遊泉
ハウス・児湯」と合併したが、源泉はそのまま、モニュメント設置されて、
残されている。

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中山道甲州街道の合流地点】

甲州道中終点 中山道甲州街道の合流地点
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かめや(和宮の部屋があります)
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諏訪大社下社秋宮】

10:40 下社秋宮
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根入りの杉
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案内板
「 根入りの杉

この杉の木は凡そ樹齢六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれている。 」

楽殿
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秋宮二之御柱
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天覧の白松(三葉の松)
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歴史の露地
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「夕顔やろじそれぞれの物語
小沢昭一

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立町の門
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10:58 蕎麦やでランチ(山猫亭)
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11:26 下諏訪駅
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12:23発の電車で帰りました。


本日の歩数 8,587歩 5.238km

二度目の中山道13日(下諏訪宿から塩尻)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/214610


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003