紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次14日目の1(塩尻宿〜洗馬宿への道)

2度目の中山道14日目の1
12月28日(土) の1

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上諏訪の朝】


6:00 起床

夕べの上諏訪の宿で目覚めました。

荷物を宅配で出すためにフロントへ。

フロントカウンターの、小さな鏡餅と門松の飾りが可愛い。

6:45 バイキング朝食。

BSプレミアムで7:30に「スカーレット」を見て、7:50チェックアウト

駅までの道で、溝から湯気が吹き出していて、温泉街だなあ、としみじみ。
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上諏訪駅は構造が複雑で、改札前にたどり着くのに時間がかかりました。

そのせいで一本乗り遅れたのか、もともとちょうどいい時間がなかったのか、待合室で30分ほど待ちました。

8:27 上諏訪駅の足湯
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案内板
「 足湯

上諏訪駅ホームの露天風呂は足をお湯の中に入れることで上諏訪温泉の気分と効能を味わうことができる足湯です。
足湯には血行を良くし、疲れた神経や身体を癒すなど健康増進効果があり足の痛みはもとより、風邪気味で頭痛がするときやうっ血の治療にもよく効きます。
歩いて旅をした昔の旅人達は、足湯で手早く疲れをとり、また旅を続けたとも言われています。
足を十五分から二十分程お湯に浸けていますと、無理なく身体の芯から暖めることができます。
どうぞ列車を眺めながら、すあし(諏訪市)でのんびりゆったり足湯をお楽しみ下さい。 」


8:33発松本行きに乗りました。

8: 54 塩尻駅着 トイレに行きました。

8:59 塩尻駅から歩き始めました。
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【白い息と、平出遺跡交差点】

9:11 昨日見た、JR中央本線のガード下を潜る。
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ガード下に設置されている温度計では、現在の気温は2℃。
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まっすぐな道。日当たりがよく、暑くなってきたので、ワンピースを脱ぎました。

予報では氷点下5℃だったので、防寒対策してきたのですが、今日より気温は高いはずの昨日の方が風で寒く、今日は気温は低くても、日差しで暖かく感じました。

しかし、鼻息も吐く息も真っ白。

吐く息は14℃以下、鼻息は7℃以下で白くなります。(さっきのJR中央本線のガードでは、「只今の気温 2℃」)

9:29 平出遺跡交差点
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平出の一里塚の片方が見えています。


【平出の一里塚跡】

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9:29 平出の一里塚跡
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案内板
「 市史跡 平出一里塚

現在地 塩尻市大字宗賀(おおあざそうが)一二二-二
指 定 昭和四十六年三月五日(1971年)

一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により各街道に築かれはじめ、同12年にほぼ完成をみた。
三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上に松や榎などを植えて道程標とし、旅情を慰め通行の便宜をはかった。-・・・

江戸幕府(現東京)から伸びた道。36個の町を一里と計算し、その都度目印として松を植えていたらしい。
江戸時代なんて、炎天下の中東京から塩尻まで徒歩で移動しているとそれはそれは暑いことでしょうね。
この松は、目印としても、旅人の休憩場所としても重宝されたのです。

塚は五間四方。高さ一丈(2,3m)と定められた。
慶長19(1614年)に、中山道は牛道峠経由から塩尻峠経由に変更され、この平出一里塚もその頃につくられたものと推定される。
江戸時代、塩尻市内の中山道には、東山・柿沢・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・鳥居峠の九ヵ所に一里塚が築かれていたが、明治以降はその必要もなく次々に消滅し、現在はここ平出と東山・若神子が残り、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。
この一里塚は、日本橋の基点より59番目のもので、宝暦6年(1756年)頃には、この付近に茶屋2軒のあることがわかっている。

塩尻市教育委員 」

両塚揃っている一里塚跡はテンションが上がります。
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【初秋はトルファン、冬は霜の道】

10年前のブログより

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2009.9.7.

塩尻〜洗馬

4月に中山道を歩き始め、5月初めを最後に中断していた中山道歩きを再開しました。5月に中断した続きで、塩尻から歩き始めました。

暑い中、葡萄の香りがする遺跡へ。

トルファンとか、アトランティスとか、葡萄祭りのシーンを視覚でしか考えていなかったけれど、香りがあるはず!!
(写真 2009.9.7.撮影)
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焼けるような暑さの中、葡萄棚の下は涼しい。その緑のトンネルを歩けたらどんなにいいかと想像しつつ、焼けたアスファルトの道をゆく。

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10年前は暑くて、たわわに実り良い香りを放つ葡萄の実を横目に見て、あの葡萄棚の下を歩けたら涼しかろうなと憧れ、濃い葡萄の香りにくらくらしながら歩いたものですが、今日は霜が降りたブドウ畑。
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9:36 平出遺跡入口
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【平出遺跡】

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9:39 平出遺跡

10年前のブログより

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2009.9.7.


平出遺跡(長野県塩尻市)は、大規模な集落跡の公園。土器や石器が豊富に出土しています。昭和27年に国史跡に指定されました。

公園には、竪穴式住居が復元されています。

古墳時代の住居の復元もありますが、絵に描いたのは、縄文時代の住居復元です。

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案内板
「 平出遺跡公園

平出遺跡は、縄文時代から古墳・平安時代にかけての大集落遺跡です。遺跡の南西に横たわる比叡ノ山のふもとには平出の泉があり、遺跡は泉から流れ出る渋川に沿って東西1km、南北300mの範囲にわたって広く分布しています。

遺跡からは現在までに290を超える竪穴式住居や掘立柱建物跡、それに伴う多くの土器、石器、鉄器類が見つかっています。

平出遺跡公園は、遺跡の保護・活用のために遺跡の中心にあたる56,450㎡を公有化し整備したもので、縄文、古墳、平安の各時代にわたる複合遺跡の特徴を活かし、それぞれの時代の集落景観をエリアごとに復元しています。 」

ここで気になったのが、復元と復原の違い。wikipediaによると

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文化財(建造物)の分野で、失われた建物を当時のように再現すること、あるいは推測に基づく場合を「復元」、一方、改修等で形が変わっていたものを当初の姿に戻すこと、あるいは旧部材(部分品や材料)や文献等が残っており、根拠が確かな場合を「復原」と使いわけることがある(吉野ヶ里遺跡の住居は復元、東京駅は復原)。

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だそうです。
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古墳時代の村〉

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案内板
「昭和57年の発掘調査によって発見された古墳時代(約1300年前)の竪穴式住居を復原したものである。4本柱で、屋根が直接地面に接し出入口は南側に造られ、室内左手にカマドが設置されている。こうしま伏屋(屋根だけの家)は当時の一般的住居形態であり、縄文時代の家と基本的には変化がない古い様相を示している。

塩尻市教育委員会

写真の高床式倉庫は、ちょうど管理の方が掃除をされていたので、中には入りませんでした。
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竪穴式住居で、中に入れるものには入りました。
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最初は、古墳時代の村だけ見学して、後はパスして先を急ごうかと思っていたのですか、結局全部見ました。

管理棟でトイレを借りました。


縄文時代の村〉

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案内板
「 土器・土偶の出土

遺構(J-26号・縄文中期)からはたくさんの土器や河童型土偶などが出土しました。 」

案内板
「 復元土器と埋甕炉(マイヨウロ)

縄文中期の復元住居(J-25)です。遺構のほぼ中央に埋甕炉があり、床面に焼土が見られました。 」
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案内板
「 立石(リッセキ)

縄文のムラの広場中
央付近から見つかっ
川原石です。 」
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〈廃村〉

竪穴式住居跡の穴が空いています。
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こちらは、手前が廃村。向こうに見えているのは縄文の村。
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平安時代の村〉
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案内板
平安時代の村

平安時代に入ると住居は遺跡全体に広がり、50軒以上の住居跡が見つかっています。

ここでは平安時代の1戸と呼ばれる複数家族の家並みを復元しており、ニワを中心に4棟の住居と1棟の納屋からなる住居群を中心に、周囲には畠や林が取り囲み、11世紀前半の農村風景を
再現しています。 」

大分今の住宅に似てきた気がします。
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逆光で見ると、霜が溶けて湯気が上がっています。
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日本昔話の村の家みたい。
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【やっぱり長野県は農業大国】

平出遺跡を満喫して、旧中山道に戻りました。

10:18 JR中央本線第一中仙道踏切
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10:20 農業試験場開場碑
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10:23 長野県野菜花き試験場
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相変わらず鼻息も息も白く、地面に霜も白く残っています。


【旧道痕跡や、分岐】

10:28 中山道一里塚交差点
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10:28 旧道痕跡
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国道から右に外れると、大きな石がごろごろ展示された(?)静かな道。

10:39 左への分岐
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ガソリンスタンドの左の道へ入ると、砂利道の窪みに氷が張っていました。
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2度目の中山道14日目の2(洗馬宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/05/161358


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003