岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き14日目の2(洗馬宿)

2度目の中山道14日目の2
12月28日(土)の 2


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【肘懸松】

10:44 平出歴史公園交差点
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10:49 肘懸松(何代目かの松です)
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案内板
「 肱懸松(ひじかけまつ・肱松)

『洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる』と歌われた赤松の名木。細川幽斎が『肘懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風』と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肱をかけて休んだとの説もある。左方標柱辺りにあった。

洗馬区 」

案内板にあった、この古い写真が細川幽斎が詠んだ松と思われます。
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細川幽斎肘懸松碑
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10:50 洗馬宿への分岐
右下への細い下り道
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そこを下っていくと、右に「肘懸松跡」の標柱がありました。
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先程の案内板にも「左方標柱辺りにあった」とあるので、細川幽斎が 『肘懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風』と詠んだ松は、ここにあったのでしょう。


【分去れ】

10:51 分去れと常夜燈
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案内板
中山道善光寺街道の分去れ

中山道は右に折れて肱松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿 へと向かう。江戸へ30宿59里余。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯 は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った。

洗馬区 」


10:54 分去れ道標
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案内板
中山道善光寺道のわかされ

左側の道をおよそ50メートル行くと石造の「常夜灯」のある桝形にいたる。ここが中山道善光寺道のわかされであった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以後右側の新道が開通したおりに桝形からここへ移されたものである。

洗馬区 」


10:55 あふたの清水(邂逅の清水) 入口
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【あふた(邂逅)の清水】

10年前のブログより

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2009.9.7.

今日は、朝、神奈川県の家を出て来て、歩き始めたの時間が遅かったので、塩尻の次の宿場、洗馬(せば)宿に着いた頃は、もう日が傾き始めました。

洗馬宿は、昭和7年(1932年)の大火で20軒に及ぶ家が焼失し、当時の面影はほとんど失われてしまったそうです。

洗馬宿の太田(邂逅=あふた)の清水は、立て札が示す方向に従って坂を降っていくと、今もきれいな水がこんこんと湧いています。

木曽義仲が、後に歌神となる今井兼平と出逢い(邂逅し)、兼平が、この清水で義仲の馬を洗ったところ、馬が癒されて喜んだそうで、洗馬宿の名前の由来になっているそうです。

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10:58 あふたの清水(邂逅の清水)
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石碑
「 あふたの清水

木曽義仲弘仁三令與兵木曾谷討平氏相傳今井兼平自其郷來會邂逅于此時義仲馬額疼兼平牽至此泉洗足以醫其勞是地名洗馬之所以超也而里俗至今呼此泉為邂后清水恐舊蹟之久而煙没建石以表焉 」

このように読めますが、変換出来ない文字が二文字、仮の字で書いてあります。

「義仲馬額疼」と書きましたが、額ではなく友へんに頁、疼ではなくやまいだれに者です。

「信州の水50選」より

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木曽義仲が小県の依田城へ遠征した際、義仲の馬が強行軍のため疲れ果て、一歩も進むことができなくなってしまいました。そこで、義仲の忠臣今井四郎兼平は、この馬を村はずれに鬱蒼と茂る欅の根元からこんこんと湧く清水に引いてゆき、脚を洗ってやりました。すると馬はたちまち元気を取り戻したといいます。それ以来、この清水を「あふた(邂逅)の清水」と呼び、馬を洗ったことからこの地を「洗馬」と呼ぶようになりました。
 洗馬太田にも同じ由来の「太田の清水」があります。

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洗馬駅と洗馬宿について】

11:14 洗馬駅
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ここでトイレを借りました。

トイレを出たら、ちょうど貨物列車が通りました。
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駅から町に戻る道端には、樹齢がかなり嵩んでいると思われるどっしりとした桜の古木が数本並び、春の美しさが偲ばれます。

曲がり角の古い家(もう空き家なのか、どなたか住まわれているのかよく分かりませんでしたが)、古い、水原弘のホーロー看板が印象的でした。
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ここで、洗馬宿について。

塩尻市観光協会HP「時めぐり」より

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洗馬宿

中山道、左北国脇往還善光寺道」と記された道標が立ち、二つの街道の分岐点として栄えた洗馬宿は、起点の板橋宿から31番目の宿場です。

浮世絵師・安藤広重の木曽街道「中山道六十九次」の中で、唯一無二の佳作といわれる「洗馬」を描いた絵図は、洗馬宿にある「邂逅の清水」(あふたのしみず)から奈良井川を見た景色を元に描かれたといわれます。
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慶長18(1613)年に、下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る旧中山道が廃止された翌年、塩尻峠経由の路線が新たに中山道として設定された際、塩尻宿や本山宿と同じ頃新設された宿で、当時の洗馬は上の段を大怒田、下の段を新町と呼び、これらの村や近郷から人々を集めて宿場造りがされました。
その際、宿の南には新福寺(明治4年廃寺)と上神明宮、宿北に下神明宮が置かれました。
宿の北方は中山道と北国脇往還善光寺街道)の「別去れ」で道が左右に分かれ、「右中山道 左北国脇往還 善光寺街道」の道標が建っています。中山道を進むと桔梗ケ原を経由し塩尻宿へ1里30町、本山宿へ30町、善光寺街道を進むと郷原宿へ1里半の道のりで、江戸板橋宿から31番目の宿です。
上町・中町・下町(伊勢町)に分かれ、平均3間間口を1軒役として屋敷割されました。
天保14(1843)年には家数163軒、本陣、脇本陣問屋場があり、旅籠家は29軒でした。新福寺の入口には高札場があり、本陣の南側には幕府の貫目改所が置かれていました。中山道では板橋宿、追分宿と洗馬宿の3箇所に貫目改所が置かれ、継ぎ立て荷物の目方を検査し、規定の重量を越えた荷物に割増賃金を徴収しました。
しかし、昭和7(1932)年の大火で宿の大部分が焼失してしまいました。
史跡としては、細川幽斎にまつわる伝説の肱懸松(ひじかけまつ)、中山道善光寺街道の分岐点の分去れ道標、木曽義仲伝説の邂逅の清水(あふたのしみず)願い事をかなえてくれるという言成地蔵尊などの史跡があります。

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【本陣跡、荷物貫目改所跡】

11:18 洗馬宿本陣跡
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11:19 荷物貫目改所跡
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案内板
「 荷物貫目改所跡

荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されていた。中山道では、洗馬・板橋・追分の3宿に置かれた。規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役に過重な負担がかからないようにした。この建物は、明治の一時期、洗馬学校に利用された。
洗馬区 」

荷物貫目改所ってあまり聞かないな、と思ったら、どの宿場にもあるものではなく、中山道では、洗馬・板橋・追分の三ヶ所だけだったんですね。


11:20 脇本陣
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芭蕉句碑と高札場跡】

11:24 芭蕉句碑
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案内板
信濃の洗馬

ここは洗馬宿の高札場があったところで

入梅はれの
わたくし雨や
雲ちきれ

芭蕉俳句 一葉集より

本句碑建立発起人、武居才吉先生によると『入梅はれ』は『つゆばれ』と読む。また『わたくし雨』は地域の部分的に一時的に降る雨のこと。

洗馬区 」


11:24 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

ここは洗馬宿の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)とよばれた。伝馬駄賃御定や幕府のお触れなどが掲げられていた。明治以降裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は『どんぐりハウス』として、移築利用されている。

洗馬区 」


【言成神社と日殿言成さんについて】

11:27 言成神社への踏切
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11:27 言成神社
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案内板
「 言成地蔵尊と下馬落としの伝説

この言成地蔵尊は、『願い事をすれば必ず叶えてもらえる』地蔵様として洗馬宿時代から周辺の信仰を集めている。初め洗馬宿の出入り口の急坂にあって人々の安全を願っていたが、余りにも落馬する人が多く、ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬ってしまい、これでは縁起が悪いと新福寺に移して安置されたと伝えられている。新福寺は廃仏毀釈によって廃寺になったので、その後地元住民によって今の位置に移され昭和3年御堂を新築して現在に至っている。

洗馬区 」

私は今回、「ちやんと歩ける中山道六十九次」というガイド本を持って歩いています。

2019年3月から7月まで、東海道五十三次日本橋から京都三条大橋まで、計21日間で歩きましたが、その時持って歩いたのは、「ちゃんと歩ける東海道五十三次」でした。

10年前は違う本を持って歩きました。

日殿言成 著「誰でも歩ける中山道六十九次」です。

とても良い本でしたが、上・中・下、三巻、大きくて重くて、必要な頁だけコピーして持っていったりしました。

日殿言成さんは全盲で、お姉さんが付き添って旅をしたそうです。

日殿言成というペンネームは、「人の言い成」の意味らしいです。そして、今日やって来た言成神社からいただいた名前と思われます。

確かに病気もあり、目も不自由な著者は、お姉さんなくしては旅は続けられなかったでしょう。

でも、彼の執念とも言える集大成のこの本は、地図が分かりやすく、分厚くて重いという短所を除けば、素晴らしいガイド本です。

10年前のブログより

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2009年3月26日(木)に東海道五十三次制覇、全行程495.5km歩き終えて、京都三条大橋にたどり着き、1週間目の4月2日(木)。

アル中(歩き中毒)にかかってしまった私は、新しい旅に飛び出しました。

数日前にアマゾンに注文しておいた中山道を歩くガイド本が届き、朝読み始めたら、矢も盾もたまらず、家を飛び出して電車に乗っていました。

旅立ちは、ちょっとの勇気と計画と、たくさんの思いきりと、あとはやっぱり浪漫かなあ。

文芸社「誰でも歩ける中山道六十九次 上巻」(日殿言成著)

上中下、三巻に分かれている上巻を持って出ましたが…バッグに入りきらないので、本用に小さな手提げを持っていきました。

この本、地図が詳細で説明も分かりやすく、この上中下の三巻があれば、誰でも京都まで(事情があって、草津宿の手前の守山宿までしか案内がありませんが)行けそうな、素晴らしいガイド本です。

表紙をめくると、「はじめに」の文は、著者の日殿言成さんではなく、彼のお姉さんが書いていました。

著者プロフィールを見たら…

日殿言成(ひとのいいなり)はペンネーム。昭和26年に東京麻布に生まれ、大学卒業後、某ファミリーレストランの店長などを務め、その後、腎臓病で入院。平成2年から人工透析を始め、15年間病気と闘いながら、一日一歩の思いで歩き続け、自分の足で調べながら、少しずつ記録したものの集大成が、このガイド本。

平成17年5月永眠。計算すると53歳で亡くなっているんですね。

「はじめに」の最後の方に、「ふと、『青空が見たい』『おいしい空気が吸いたい』と思った時に、この本を片手に歩いてみたら、著者『日殿言成』の思いと感性にふれ、彼が一緒に道案内してくれるのではないかと期待してしまうのです…」

泣けました。電車の中で、涙、出ちゃいました。

これを読んだから、今日、旅立ちたくなったのです。

著者によると、中山道東海道に比べて、すごく遠いイメージがあるけれど、実は東海道より39〜41kmしか長くなく、さらに、川止めされると何日かかるかわからない東海道に比べて安定していたため、女性の旅人が意外に多かったのだそうです。

また、著者によるおもしろい話の中から…某放送局の女性アナウンサーが、横書きの「旧中山道」を「一日じゅうやまみち」と読んで抗議が殺到したというエピソードがあるけれど、中山道を全部歩いてみると、特に木曽から先では、「一日中、山道」で合っている、と思えるのだそうです。

そんな豆知識を胸に、とりあえず、元気に飛び出した私。

もう気持ちは「歩きびと」

さてさて、どんな珍道中に出くわすことやら。

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【牧野一里塚跡】

11:34 牧野一里塚跡
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案内板
「 牧野一里塚跡

慶長十九年(1614)洗馬宿 の開宿に併せ築かれたこの塚は、江戸より六十里の一里塚である。明治以降の開発により当寺の面影は留めていないが、中山道名称統一三百年の年に碑を建て、ほぼこの辺りとして、後世に引き継ぐものである。

平成二十八年十一月吉日

牧野区 」

11:47 旧道は真っ直ぐ
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11:58 溜池への分岐
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さあ、もうすぐ本山宿です。


2度目の中山道14日目の3(本山宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/143502