紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

駒橋 厄王大権現 平和祈願の石と説明碑

説明碑
「昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである」

千鳥姫の稚児落とし伝承

senjp.comより

千鳥姫は小山田信茂の側室であったとされ、織田勢の大軍に岩殿山城を包囲されると、千鳥姫の子でまだ赤子の万生丸と、小山田信茂の2男・小山田賢一郎を連れて脱出を計画。

護衛として小幡太郎と城兵が共に岩殿山城の西尾根を辿り城外に脱出したと言います。

一行は声が反響する谷としその名が付いた「よばわり谷」まで逃れて、皆、無事に落ち延びた事を喜び合いましたが、その喜びの声が谷に反響し、予想外の方向から声が拡大されて聞こえました。

その声に、追っ手が来たのかと、慌ててしまった事もあり、千鳥姫の暖かい懐に眠っていた万生丸が目を覚まして、声高々に泣き出してしまったそうです。
小幡太郎はこのままでは小山田賢一郎の命が危ないと感じ、千鳥姫から赤子を奪うと、情け容赦なく岩殿山の断崖に万生丸を投げ落としました。

現在、その場所は「稚児落し」と呼ばれているそうです。

三猿塔の由来

案内板
「   三猿塔の由来

奈良朝の昔、此の辺の交通は至極難渋であって、警告を渡る事などは思いもよらなかった。
茲に桂川渓谷は、奥は小金沢から大菩薩峠に続く大幽谷で、当時此の辺は老樹うっそう昼なほ暗き原始林に覆われていた。猪や鹿、ことに山猿は群れをなしていた。或る日白毛の老猿が、欅の枝に吊下ると小猿共は互いに手足をつないで向岸の藤蔓にとびつきながら懸橋の形となり、それをたよりに両岸を往来した。之にヒントを得た、百済の造園の博士、芝蓍麻呂(しきまろ)が構築したのが、日本三奇橋の一ツと呼ばれるこの猿橋であるとの伝誦(でんしょう)から現在白猿の霊像が祀られている。茲に三猿の塔を造成しその霊徳を萬世に伝へる事にした。
かって詩人野口雨情は此の地に遊び
 甲州猿橋 お山の猿が
    お手々つないで かけた橋
             と唄われた。

  昭和三十五年四月
     大月市観光協会猿橋支部建之 」

名勝 猿橋

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案内板
「   名勝 猿橋
     昭和七年三月二十五日指定

 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば『昔、推古帝の頃(六〇〇年頃)百斉の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓を よじ、断崖を渡るを見て橋を造る』とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志喜麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
 史実の中では、文明十九年(一四八六)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
 応永三十三年(一四二六)武田信長と足利持氏、大永四年(一五二四)武田信虎上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の替えと、十数回に及ぶ修理が行なわれてきました。
 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
 昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。
 今回の架け替えは、嘉永四年(一八五一)の出来形帳により架け替えられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
 昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千三百万円であります。
橋の長さ、三〇.九メートル、橋の幅、三.三メートル、橋より水際まで三〇メートルです。

    大月市 教 育 委 員 会 」

注:志羅呼(しらこ)の別名、志喜麻呂(しきまろ)の喜は、喜ではなく、老の下に日という漢字です。たしなむ、と読むそうで、たしなむ、を変換すると嗜むが出てきますが、嗜の口偏がない字です。

「猿橋の旅宿にて」

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案内板

猿橋の旅宿にて」(明治三十九年) 
      (日立製作所史より)

七月十五日であった。余は(渋沢元治氏当時逓信技師)山梨県甲府付近にある水力発電所を検査することを命ぜられ、飯田橋から甲府行きの汽車に乗った。ところが車中偶然に同窓の小平浪平君に会った。同君は「君に折り入って話したいことがあるから今日猿橋で一緒に泊まってはどうか。」この勧めで同地の大黒屋に一泊することにした。この日は朝来豪雨であったが、夜に入って小止みになり、庭の木の葉から落ちる雨滴の音と桂川の俄が増水のための水音を除いては、山間の小さな宿屋の小さな宿屋の一室のことであるから極めて静かで親友同士の久しぶりの会談には絶好の機会であった。

この会談で小平浪平氏は本邦に電気製作事業を起こそうという抱負を語り、後年日立製作所の創業社長としてこれを実現した。


甲陽猿橋之図(天保十二年)

「甲斐の山々遠近に連り山高くして谷深し、桂川の流れ清麗なり、十歩二十歩行く間に変わる絶景、拙筆に写しがたし、猿橋の向茶屋』(大黒屋)にてヤマメの煮びたし等菜ならびたり。」
 (安藤広重旅日記「甲州道中」より抜粋)

浮世絵師、安藤広重の第一の傑作と言われる「甲陽猿橋之図」は、この旅で生まれたと言われている。

     日立製作所八十周年記念

韮崎宿 一橋家陣屋跡

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案内板
「  一橋家陣屋跡

 一橋家は八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)がおこしており、延亨三年(一七四六)九月に本県の治領地 三万四四石余が与えられた。
 陣屋は頭初双葉町宇津谷(村)に構えていたが、宝暦三年(一七五三)にこの地に陣屋を移した。その後寛政六年(一七九四)に静岡県榛原郡相良町にところがえになったので陣屋は廃され、再び幕府領となった。この時河原部村では陣屋の存続を願い出たとのことである。
 陣屋では租税・訴訟・断獄などの民政を行っており、その屋敷は東西が約三十三m・南北が約五十ニmの広さで、この中に本屋・土蔵・長屋・同心役宅の建物があった。

   平成九年十二月二十二日

       韮崎市     」

船形神社の石鳥居

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案内板
「   山梨県指定有形文化財(建造物)

     船形神社の石鳥居一基

所 在 地 甲斐市 志田 三番地
指定年月日 昭和三十四年二月九日

この鳥居は『明神鳥居』と言われる形式で、高さ一・五三メートル、昼間は二・三五メートル(真々)、柱の最大径はO・四五メートルの規模です。材質は石英角閃石安山岩、笠木・島木は中央部で接続する二つの石材から造り出され、ほぼ直線的で、両端がわずかに反っています。柱は中央部が若干太く、丈が短いため安定感のある造りとなっており、正面向かって左側には「応永四 丑四月日立」の銘が残されています。
応永四年は西暦三九七年に当たり、室町時代前期に建立された貴重な建造物です。

※江戸時代後期に書かれた地誌『甲斐国志』によると、諏訪神社はもともと釜無川沿いの
「お舟石古墳」の場所にあり、その古墳の石室が崩れて船のように見えたことから、「船
形神社」と呼ばれるようになったと書かれています。

平成二十七年(ニ〇一五)三月一日

       山梨県教育委員会
       甲斐市教育委員会 」

甲斐市 泣石

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案内板
「   泣石

 下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。
 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。

         甲斐市教育委員会 」

上石田のサイカチ

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案内板
「  甲府市指定有形文化財・天然記念物
     上石田のサイカ

所在地 甲府市石田一丁目
管理者 甲府市石田一丁目北部自治
指定昭和四十三年六月十二日

過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが河川は整備され今のような市街地となった。サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは昔の自然の一部を残したものである。また、大小二本そろって生えているところから、地元の人々は夫婦サイカチと呼んで親しんでいるが両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約三百年と推定される。
北樹 根本の周囲 三メートル二十センチ
   根元より一、二米幹囲 
         二メートル六十七センチ
   樹高 五メートル
南樹 根元の周囲 二メートル二十九センチ
   目通り幹囲二メートル六センチ
   樹高 六メートル

   平成十一年九月
       甲府市教育委員会 」

恋塚一里塚

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案内板
「  山梨県指定史跡
    恋塚一里塚

     指定 平成十四年七月四日
     所在地 上野原市犬目一三五三番地

 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つで、江戸日本橋から二十一番二十一里にあたります。
 塚は原形をよく残しており、直径約十二メートル、高さ約五メートルの円丘です。昔は街道を挟んで北側にも塚がありました。
 もともと付近は峰続きでしたが、旧街道を作る時に堀割りにしたため、道の両側に小高い場所ができました。この地形を利用して一里塚が築かれたものと考えられています。
 一里塚は、旅人が
もう一里、もう一里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みをする場所でした。また、人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治三十四年(一九〇一)、中央線か開通するまでおおいに利用されました。
 平成十八年、大雨によって塚の西側斜面が崩れたため復旧工事を行いました。
地域の歴史を知る貴重な文化財ですので大切に保護しましょう。

  平成二十三年九月 山梨県教育委員会 
           上野原市教育委員会



                

犬目宿のいわれ

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案内図の左下の「犬目宿のいわれ」

「犬目宿は、一つの村が『宿』そのものになった形と考えられます。 言い伝えによれば、正徳2年(1712)、現在の集落より600mばかり下方の斜面(元土橋 もとどばし)にあった部落が、急遽そのまま現在の所に移住し、その翌年、宿駅(しゅくえき)起立の際に、 統一的意思により『一村一宿』の宿場として創設されたということです。 天保14年(1842)いては、戸数 56戸、人口255名、本陣2、脇本陣0、旅籠 15 (大3、 中3、小7) を数えた山峡の小さな宿場です。

    平成7年3月 上野原町教育委員会

上野原市は平成17年に上野原市になりました」

上野原市指定史跡 矢坪坂の古戦場跡

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案内板 
「  上野原市指定史跡
      矢坪坂の古戦場跡

指 定 昭和52年12月22日
所在地 上野原市大野矢坪一帯

 大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂 と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。
 享禄3年(1530)4月23日、甲斐国の郡内領主であった小山田信有 の軍勢が、相模国北条氏綱 を矢坪坂で迎え撃ち、激戦を展開しました。戦いの末、小山田勢は敗れ、多数の死者が出たと伝えられています。
 現在、戦いをしのぶ跡はありませんが、付近では時々、矢じりが掘り出されることがあったといいます。
 一説によると、矢坪の武甕槌神社(軍勢神社)や神殿の丹勢神社 は、この戦いの際に祀られたといわれています。

   平成29年3月 上野原市教育委員会  」

野田尻宿案内板

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案内板
「    野田尻宿

 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の形態で宿を構成した。天保14年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の小さな宿であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。
 お玉ヶ井にまつわる伝説は、その昔、旅篭 『恵比寿屋』で働く美しい女中『お玉』にまつわ る恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足 に悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと 湧き出させたと言う。 何とお玉の正体は『竜』 長峰の池の主『竜神』と結ばれたと言われている。 熊埜山西光寺は、天長元年(824) 真言宗とし て創立した歴史ある寺院である。鎌倉時代に建 長寺第9世管長智覚禅師を勧請開山として、臨 済宗に転宗した由緒ある寺院である。」

野田尻週 お玉井戸

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お玉井戸

山梨県上野原市

野田尻が宿場として栄えていた昔、大椚から入る所に長峰の池という池があり、風趣に満ちていた。その頃、野田尻宿のえびす屋という宿屋にお玉という美しい女中がおり、近在の若者たちのあこがれの的だった。おかげでえびす屋は大賑わいだったが、ひときわ目立つ美しい若者が夜ごと通うようになった。
お玉と若者は恋に落ち、夜な夜な逢瀬を重ねたが、帰ってくるお玉がいつも全身びっしょりなのをいぶかしく思い、主人が訳を訊いた。すると、お玉は恋人は長峰の池の主であるのだという。そして、もう屋敷に仕えるわけにはいかなくなった、お暇をいただきたい、という。
わが娘のように可愛がっていたお玉であったので主人も悩んだが、ついには折れて、涙ながらに暇を出した。お玉は深く感謝して、野田尻は水が足りなくて困る土地なので、望む場所にきれいな水を出しましょう、といって去った。こうしてできた井戸がお玉井戸と呼ばれた。お玉自身が池の主の竜神だった、という話もある。

上野原町誌 下』より要約

発掘調査された長峰砦跡

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案内板
「  発掘調査された長峰砦跡
     所在地 山梨県上野原市大椚

 長峰砦跡は、やや小規模な中世の山城跡です。一説によると、武田信玄の時代に上野原を治めた加藤丹後守景忠が築いたといわれ仲間川対岸の大倉砦と連携し、東から侵攻する外敵に備えたと考えられています。しかし、砦については不明な点が多く、中央自動車道建設工事などよる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。その後、遺跡が再び中央自動車道拡幅工事区域に取り込まれたちめ、平成七年から十年に山梨県埋蔵文化財センターが工事着手前に発掘調査を実施しました。
 調査の結果、郭(くるわ 見張りなどを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀の跡などが見つかり、堀から青銅製の鉄砲玉が出土するなど、戦国時代末の長峰砦に結びつく成果がありました。また、江戸時代の甲州道中と見られる道路の跡が、尾根筋を縫うように断続的に発見されました。道は幅一メートルと狭いうえ、地形に沿って蛇行や起伏が激しく、険しい道であったことがうかがえます。

    平成31年3月
       上野原市教育委員会 」