紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

「長峰の史跡」説明版

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案内板
「  『長峰の史跡』説明板上野原町大柄所在
        上野原町教育委員会設置

長峰』とは商ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき培をここに築いたことから、いつかこの付近だけを長峰と呼ぶようになりました。
 丹後守は武田信玄の家臣で、甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視しました。
 ここは、当時の交通の要所であり、要害な地であるばかりでなく、水にも恵まれていました。砦の北側は仲間川に面して崖となり、南
面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固め、常に番兵が見張りに当たっていました。
 冊の東側に『濁り池』、その西北部に『殿の井戸』と呼ぶ泉がありました。
 『濁り池』は、いつもどんより濁っていたので、こう呼ばれていましたが、一般には『長崎の池』で通っていました。約100平方メートルの小池で、どんな干ばつにも枯れたことはありませんでした。池の中にヒシという水草が群生していたことも有名でした。
 『殿の井戸』は、きれいな水がこんこんとわき、日照りのときでも絶えなかったといわれていました。おそらく、領主が出かけた折、好んでこの水を飲んだことから、こう呼ばれたのでしょう。
 側にある石碑は、この地域の獅子門俳諧の門下、日野の花岳寺田六世八峰が、芭蕉芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(連ニ房)の句をそれぞれ刻んで建立したものです。
 現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。

    上野原町教育委員会 

上野原町は平成十七年に上野原市となりました。」




            

上野原市指定文化財 大椚の一里塚跡

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案内板
「   大椚の一里塚跡

指 定 昭和47年3月22日
所在地 上野原市大椚字大浜167番地付近
説 明
 一里塚 は、江戸時代、江戸日本橋を基点にして五街道の一里ごとに目印のため作られた塚であり、塚の上にはエノキ・松・ケヤキなどが植えられました。当時は、街道を行き来する旅人が距離を知る目安にしましたが、長旅のひと休みや雨宿りの場としても使われ、旅人には欠かすことのできない大切な場所でした。
 上野原地域には甲州街道に沿って4ヶ所の一里塚が作られ、大椚の一里塚 は、江戸から19番19里にあたります。現在、その跡は残されていませんが、鶴川宿 から大椚集落 に入る手前の道の両側にあったことが江戸時代の絵図などからわかります。

     平成18年3月
         上野原市教育委員会 」

木食白道上人加持水井碑

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木食白道上人加持水井碑

上野原町史より

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白道上人加持の井戸上野原町上野原3804番地の1中村辰男方この井戸は、寛政9年(1797)に掘られたが、次の言い伝えがある。当時上野原地区原部落には8軒の家があったが、近くに水源がなく、水には極めて不自由していた。新田倉や本町まで行って水をもらってきたが、それらの部落でさえ不足がちであったから、心苦しく毎晩遅くに出かけてるのが常であった。部落の人たちは、たびたび井戸掘りを試みたが、なんとしても水がわいてこない。そこで、そのころ鳥沢に住み着いていた白道上人を呼んできて加持をしてもらった。上人は、地質・水脈などに明るかったとみえ、中村方の「あけど」(東側)のあたりを掘るように教示した。部落の人々は、その場所を一生懸命掘ったが、なかなか水がわいて出てこない。なんど中止を試みたかわからなくなったが、そのたびに上人のことばを信じて掘り進めた。そして、15~16メートルに達したとき、ついに水が出た。生活していく上になくてはならない水。それをよその部落までもらいに行っていた苦労は、想像を絶するものであったろう。それだけに、水の出たときの喜びも格別であった。人々は、上人の得をたたえて井戸のそばに小碑をたてた。碑には「木食白道上人加持水井寛政九年巳年」と刻まれ、井戸とともに今でも残っている。

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上野原市指定史跡 塚場一里塚跡

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案内板
「  上野原市指定史跡

       塚場一里塚

指定 昭和四十五年三月二十日 旧上野原町指定
所在地 上野原市上野原10一三番地

 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に一里(約四キロメートル)ごとに築かれた塚の一つです。江戸日本橋から十八番十八里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って最初の一里塚です。
 疱瘡神社の裏手にある小高い塚が一里塚と言われています。塚は直径約九メートル、高さ約二メートルの円丘です。古老の話によると、塚の上にカヤの木が植えられていました。
 一里塚は、旅人が、もう一里、もう一里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みをする場所でした。また、人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治三十四年
(一九〇一)、中央線が開通するまでおおいに利用されました。
 この一里塚は、古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部とも言われています。地域の歴史を知る貴重な文化財ですので大切に保護しましょう。

  平成二十三年 九月
       上野原市教育委員会 」

諏訪番所跡

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案内板
「   諏訪番所

一、名称
諏訪番所(甲斐二四関の一)、境川番所境川口留番所とも呼ぶ
一、所在地 上野原市諏訪木のはけ二十番地
・宝永四年(一、七〇七)諏訪神社東より番組所坂上に移転
一、番所屋敷 一畝二十八歩 高二斗三升三合
   前采場 下々畑 二畝高一斗二弁一勺
一、建 物 木造平屋建(四〇・二五坪)草葺
一、仕事
・通行取り締りと物資出入り調べ
高瀬舟取り締りと徴税(二割二分)
・鶴川『渡し場』取り締り
・通行手形改め ・男は上り下り不用
        ・女は江戸へ入用、下り不用
 ※但し小仏関所(駒木野)・江戸へ男・女入用
            ・帰り不用
番所坂所在茶店よりの情報聴取
 ※番所役人 定番九人
       獄舎取締一人
一、閉止 
 明治二年 制度閉止となる
 明治三年 山内国太郎『捕亡方心得』となり、      時局不穏に村番所従前通りと通告
 明治四年  この年番所廃止となる
一、建物のその後
 明治四年 役宅は山内国太郎所有となる
 明治十三年 明治天皇巡幸の折り御小休、
       お召替え所となる
 明治十七年・明治十八年
     渋沢栄一氏の別荘となり飛鳥山へ、     その後小泉策太郎氏所有となり、
     以後不明
一、市内その他番所
・花井口留番所(上野原)
・棒口留番所(棡原)
・藤尾口留番所(西原)

一古沢口留番所(秋山)

     上野原市教育委員会  」

力士追手風喜太郎

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案内板
「  力士追手風喜太郎
 追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。
 その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
 松次郎が力士への道を歩むようになったのは、9歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政3年(1820年春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政12年には前頭筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保2年(1831年春場所からは「追手風」としました。その後、小結・関脇とすすみ天保7年には西大関と据り、同10年には土俵を退いたとのことです。
 土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しました。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡(写真)を献納しました。
 この「安昌久全信士」の碑は、文政12年11月25日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています。

          昭和61年2月          藤野町教育委員会    」

小猿橋

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案内板
「   小猿橋

 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ十四間(約二十五m)幅二間(約三・六m)高さ五丈八尺(約二十五 m) の綱千付きの板橋でした。この橋は、山梨県大月市猿橋と工法も
形も同じで、その規模が少し小さいことから『小猿橋』と呼んだと言われております。
元禄十一年(一六九八年)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く迂回路の場所がないため、掛替工事が非常に困難であった。その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は四百両であった。
 その後次第に工事費は減り、文久二年(一八六二年)には七拾両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。地元では、人馬通行橋銭の徴収、宿場の貸座敷や炊釜の飯売下女からの処銭等を財源として掛替工事を行っていた。その折、八王子千人隊、荻原頼母を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の指揮に当ったと言う。
 明治初年からは総て官賞で行われるようになり、明治中頃には上流約五〇〇mの地点に『新猿橋』という木橋ができた。。大正八年、道路法制定と共に甲州街道は国道八号線となり、昭和八年八月の吉野橋の完成に伴い小猿橋、新猿橋は消滅した。

    藤野町教育委員会
        昭和六十二年三月 」

吉野本陣

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案内板
「   吉野本陣
 此処、藤野町吉野238番地吉野家は、江戸時代甲州街道吉野宿本陣・名主であり、現在でも屋号を「本陣」と呼びます。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久の乱(1221年)の時、一族は天皇方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが闘いに敗れ、故郷を去りこの地に住み着きました。
 江戸時代に関東五街道制定と共に参勤交代の大名宿泊のため、街道宿駅名主の家を本陣に定め、道中奉行の統制のもと公用人馬の中継ぎを行わせていた。江戸時代末期の本陣は、木造5階建ての偉容を誇り、明治13年明治天皇行幸の際は行在所となり、陛下はこの2階で昼食をされたとの事であります。建物は明治29年暮れの大火で焼失したが、当時侍従であった神奈川県令の書と天皇御出立直後の写真が今も保存されています。   」

小原宿本陣

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案内板
「   ◼️小原宿本陣

徳川幕府により整備された五街道のひとつ甲州道中。 道中沿いに開けた宿場町のなかで 「小原宿」は往時 この様子を知ることのできる貴重な町並みを残してい ます。
かつて街道に人々が行き交った時代に思いをはせ、旅人たちの見た風景を感じ取ることができます。
神奈川県内にあった26軒の東海道甲州道中・宿場本陣のうち唯一現存するものです。
瓦屋根の豪壮な門構え、入母屋造りの建物、13室の部屋などが往時のまま残され、県の重要文化財に指定されています。   」

照手姫ものがたり(美女谷)

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案内板
「照手姫ものがたり 美女谷伝説(相模湖町底沢)

 浄瑠璃や歌舞伎で知られている、『小栗判官と照手姫』の物語。
 照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったとも言われています。
 北面の武士だったという父と、やさしい母から生まれた照手姫は、美しい娘に成長し、美女谷川上流の七ツ淵で豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したと伝えられます。
 しかし、不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷から消えてしまいました。
 その後、数奇な運命をたどった照手姫は、早州藤沢宿小栗判官道重と運命的な出会いをしますが、道重は毒殺されてしまいます。姫の必死な思いが通じたのか、道重は遊行上人という名僧のお陰で蘇生し、常陸の国の小栗城に帰り、照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたと言います。
         まちづくりボランデイア
            夢工房     」
        

国指定史跡 小仏関跡

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案内板
「  国指定史跡 小仏関跡

 所在地 八王子市裏高尾町四二〇番地の一外
 指定年月日  昭和三年一月十八日

 小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅びると麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府甲州道中の重要な関所として現在地に移されるたともに整備された。
 この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和九年(一六二三)以降四人の関所番が配備された。
 関所の通過は、明け六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番書の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
 特に『入鉄砲に出女』は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視しきびしくとりしまった。抜け道を通ることは『関所やぶり』として『はりつけ』の罪が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治二年(一八六九)一月の太政官布告で廃止され、建物もとりこわされた。

   平成十年七月一日
         八王子市教育委員会 」

国史跡 小仏関跡

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案内板
「   国史跡 小仏関跡
        指定年月日:昭和3年1月18日
        指定面積:1,531.00㎡

小仏関所絵図

 この絵図は、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら、戦災により焼失し、現存していません。
 小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。

駒關要樞(「桑都日記」極楽寺蔵)
 こちらの絵図は、千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
 もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏宿 と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。

     八王子市教育委員会
          平成21年3月1日 」

歩道橋愛称「追分いちょう橋」の由来

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案内板
「   歩道橋愛称『追分いちょう橋』 の由来

この歩道橋は、 元々二つの歩道橋に分かれていたものを、歩行者や 自転車がより安全に通れるようにするため、地元の皆様の要望を受け、 平成23年10月に工事を始め、 平成29年3月に完成しました。 愛着を持って歩道橋を利用して頂くため、通学路として利用している 市立第二小学校の児童から愛称を募集し、 国道20号追分歩道橋愛称 選定委員会にて審議の結果、『追分いちょう橋』に決まりました。

    平成29年3月
      国土交通省相武国道事務所 」

市守大鳥神社 由緒

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神社紹介サイト「神社と御朱印」より

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御由緒:1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原討伐において八王子城は落城し、当地を所領としていた後北条氏が滅亡する。
その後江戸に移封となった徳川家康は、八王子を甲州方面に対する軍事拠点と位置づけ直轄地とした。
武田家旧臣の大久保長安が代官頭となって再整備の任にあたり、旧八王子城下の住民を移住させて甲州街道沿いを開発した。
結果、横山之庄(現在の横山町・八日町・八幡町一帯を指す地名)には、四代将軍徳川家綱の頃(1650年代)までに、甲州街道に沿って連なる街道中最大の宿場町「八王子十五宿」(八王子横山十五宿)が完成している。
そして横山宿では毎月四の付く日に、八日市宿では八の付く日に「六斎市」という市が開かれるようになる。
この市を守護する市神として倉稲魂命が奉斎されたのが、市守神社の創祀である。
市守神社の縁起には「当社神実の覆筥裏面に人皇五代孝照天皇勅願と記載これあり並びに長田作左衛門とあり、これ北条氏照の家臣長田氏の守護神にして京都伏見稲荷の分霊ならん」とあり、市神社、市守稲荷、出世稲荷などと称された。
さらに江戸時代中期には、授福開運の神として天日鷲命が配祀される。
なお、市守神社に八王子宿開宿の功労者・長田作左衛門を併祀したとする説や、大鳥神社の祭神を日本武尊とする説もある。
1945(昭和20)年の空襲で焼失したのち、再建されている。
1956(昭和31)年7月28日に八王子市の指定史跡・旧跡となった。
現在は八幡八雲神社兼務社であり、2月の初午には市守神社例大祭が執行される。
また、11月酉の日は大鳥神社例大祭日とされ、境内では酉の市が開かれる。

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日野宿脇本陣跡

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案内板
「   東京都指定史跡

     日野宿脇本陣

 日野宿は甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯して世襲する2軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)は本陣を、西側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤」)は脇本陣を務めました。本陣は公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初頭以降本陣と同様の機能を担っています。
 本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣とも100坪を超える例は犬目宿(山梨県 本陣2軒です)と日野宿だけであったとされます。
 嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は元治元年(1846)に完成しました。北面中央に式台玄関を備え屋根は瓦葺であり、一般的な名主屋敷と異なり脇本陣としての格式を備えた建物です。
 また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。東京都内には江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が現存していましたが、敷地と屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。

        (東京都教育委員会)   」