案内板
「 力士追手風喜太郎
追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。
その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
松次郎が力士への道を歩むようになったのは、9歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政3年(1820年)春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政12年には前頭筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保2年(1831年)春場所からは「追手風」としました。その後、小結・関脇とすすみ天保7年には西大関と据り、同10年には土俵を退いたとのことです。
土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しました。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡(写真)を献納しました。
この「安昌久全信士」の碑は、文政12年11月25日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています。