紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

小猿橋

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案内板
「   小猿橋

 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ十四間(約二十五m)幅二間(約三・六m)高さ五丈八尺(約二十五 m) の綱千付きの板橋でした。この橋は、山梨県大月市猿橋と工法も
形も同じで、その規模が少し小さいことから『小猿橋』と呼んだと言われております。
元禄十一年(一六九八年)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く迂回路の場所がないため、掛替工事が非常に困難であった。その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は四百両であった。
 その後次第に工事費は減り、文久二年(一八六二年)には七拾両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。地元では、人馬通行橋銭の徴収、宿場の貸座敷や炊釜の飯売下女からの処銭等を財源として掛替工事を行っていた。その折、八王子千人隊、荻原頼母を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の指揮に当ったと言う。
 明治初年からは総て官賞で行われるようになり、明治中頃には上流約五〇〇mの地点に『新猿橋』という木橋ができた。。大正八年、道路法制定と共に甲州街道は国道八号線となり、昭和八年八月の吉野橋の完成に伴い小猿橋、新猿橋は消滅した。

    藤野町教育委員会
        昭和六十二年三月 」