紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の4(大妻籠から馬籠宿への道)

二度目の中山道19日目の4
2020年1月7日(火)の4

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【どうがめ澤と牛頭観音】

10:47 どうがめ澤
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分岐にあるどうがめ澤道標には「下り谷を経て馬籠峠へ」と刻まれています。

石畳の上り
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10:50 牛頭観音
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斜面のかなり上にあり、案内板がなければ絶対に気づかずに通りすぎていたと思います。
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案内板
「 牛頭観音

石の多い急な坂道を想い荷物を運ぶため黒牛が使用された。その黒牛の供養塔である。この中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔である。) 」


【熊除けの鐘】

10:52 熊除けの鐘 No.1
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貼り紙
「鐘を鳴らしてください。
熊を追い払います。

Ring the bell hard
Against' Bears

緊急に連絡が必要になった場合は、
下記にご連絡下さい。

南木曽町役場 (電話番号)
(財)妻籠を愛する会 (電話番号)
妻籠観光協会 (電話番号) 」

冬なので、熊は冬眠しているだろうから、鳴らさなくてもいいかな?

でも、蛇や蛙の冬眠とは違い、熊の冬眠はお腹がすくと出てくるというから、やはり鳴らしました。

11:03 トイレがあったので入る。
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11:03 熊除けの鐘 No.2
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【倉科祖霊社】

11:04 倉科祖霊社
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案内板
「 倉科祖霊社 Kurashina Soreisya

ここには、松本城小笠原貞慶重臣倉科七郎左衛門朝軌 の霊が祭られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉 のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、そうした因縁からこの争いも起きたと思われる。  」

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案内板
「 倉科祖霊社縁起

倉科左衛門尉時元は、松本平の豪族で、はじめ武田信玄に仕え、川中島合戦のとき、武田の兵糧と財政を受け持ったほどの勇士であったが、信玄亡き後は松本城小笠原貞慶の愛顧を受け、重臣としての面目をほどこしました。
天正十四年四月、豊臣秀吉が太閤関白に任ぜられるや太閤秀吉の祝辞言上の正使となり、御祝いの品、金銀製の鶏、金銀製の蚕や繭や太刀等を厳重な荷作りをした上でこれを共侍二名にかつがせて上洛の途についた。 与川峠を越えて夕方早く三留野宿のとある旅籠に泊りその日、与川峠越えに雇った人夫や近在の郷士たちをねきらい、賑やかく雑談にふけっていた時、御祝いの品物が金銀製であることを知られてしまった。人夫達は宿の主人を味方に引き入れ、使者を殺害し、宝物を強奪する謀議をこらした。戦国時代のこと、平和な郷士が一夜にして山賊に化けること等は当たり前のことである当時は、時計というものがなく、すべて朝の告げ鴇は鶏鳴によっていた頃のこと、彼等は相喋りながら夜中、鶏の止まり木をはずして、竹の中節を抜いたものに変え、その竹に湯を流し、驚いた鶏の鳴き声を合図に宿をせきたてて出発させた。夜中に夜明けと思い出発したので、行けども行けども夜が明けない。その暗やみを利用して、女滝の北の細道で倉科時元と共侍を殺し、宝物を奪って引き上げた。その時、金の鶏は滝壺に舞いこんでしまったということである。夜が明けて、倉科様たちの死体を見つけた下り谷の農民は、遺骸をねんごろに葬り、このことを松本城まで知らせた。早速多勢の武士が倉科様の奥方と共に妻籠宿まで来て調べたが、戦国末期のこととて誰がやったか判らずに終ってしまった。三留野の宿に引き上げた奥方は、南の馬籠峠の方をきっと睨みつけ、『夫の仇、夫の恨み、粟の穂ほど祟れ』と叫んだ。その祟りであろうか、その後まもなく、下り谷の西山が割れ崩れ、下り谷部落を埋め滝壺まで埋めてしまった。このことは滝壺に舞い込んだ金の鶏が、再び悪人どもに姿を見られまいとして、滝壺を埋めてしまったのだと言われている。
下り谷部落は埋められ、辛うじて命が助かった人々は、これこそ倉品さまの霊の祟りだ、金の鶏の祟りだと、祖霊社に倉科様の霊を祀り、山賊共に盗まれた銀の蚕や繭の代わりに木でこしらえたものを御霊代とし祭祀とした。一度でも祭司をおこたると西山の大崖が蛇抜けを起こしたり、蚕が死んだりするので、今でも毎年四月三日には蚕の神様として近所、近在の人々が多数集り、霊をお祭りしている。 」

(この「倉科祖霊社縁起」は、解読がとっても大変でした。)

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西山の蛇抜け、という言葉が出てきますが、「蛇抜け」とは、土石流災害のことだそうです。



【分岐と庚申塔

11:06 熊除けの鐘 No.3
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11:06 中山道と、男滝、女滝経由馬籠への道との分岐。
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10年前に来たとき、男滝、女滝に立ち寄ったのを覚えています。宮本武蔵も見た滝、と感激しました。

10年前、東海道を歩いたときは、なるべく昔の道を辿りたいと思って歩きました。

しかし実際に歩いてみると、地殻変動や水害、また、道路や住宅地の開発、工事で道が失われていたり、どこが昔の道か分からなくなっていたり。

また、中山道では、木曽に入ってから、中山道は歩道のない、ダンプカーが沢山通る道で危ないからと、地元の方に川のはんたいがわのみちを歩くように薦められたり、また、軽井沢の手前の碓氷峠への道は、熊が出て危険だから、皇女和宮が通った林道を歩くように言われたり。

そんなこんなで、中山道は昔の道に必ずしもこだわらず、「楽しく歩こうアバウト中山道」をスローガンに歩きました。

今回も中山道にこだわらず、滝を見るコースを選びました。

ただ、男滝、女滝コースだと庚申塔が見られないなあ、と、ひょいと中山道の坂の上り口を見たら、なんだ、目と鼻の先に庚申塔が見えているではありませんか。

まずは庚申塔を見て、それから数メートル戻って男滝、女滝コースを歩きましょう。

11:08 庚申塔
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真ん中が庚申塔、左は三面六臂馬頭観音、右は黒くてわかりません。


宮本武蔵も見た男滝、女滝】

11:11 男滝
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11:12 案内板
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案内板
「 男滝女滝(町名勝)
Odakimedaki Waterfalls (Male Waterfall and Female Waterfall)

この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所としてしたしまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。
この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治 著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。
滝に向かって左が男滝、右が女滝である。滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道 は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」

11:13 女滝
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【 男埵の国有林

11:20 男埵の国有林案内板
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案内板
「 男埵(おたる)の国有林 State Forest in Otaru

中山道 の東側一帯は、木曽森林管理署南木曽支署管内の南蘭国有林である。国有林には大木が多いが、この中山道沿いの男埵山一帯は風致保護林 に指定され、檜をはじめ、椹・明檜・高野槇・鼠子のいわゆる木曽の五木が、鬱蒼と生い茂っている。これらの大木は、江戸時代は停止木として、明治になってからは官林さらに明治二十二年以降は御料林 として保護されてきた。
またこの一帯は、現在国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定されている。 」


「男埵(おたる)の国有林」の 男埵の「埵」という字は、東海道を歩いているときに思わぬ難所だった 薩埵(さった)峠でも使われた、なかなか変換しない漢字です。「つつまれる」という意味だそうです。

この案内板のところで、先ほど分かれた中山道と再び合流します。

11:22 馬籠宿は右へ橋を渡る
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11:23 上り坂は氷っている所がありました。
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11:26 熊除けの鐘 No.7
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11:28 中山道石碑
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【かもいぎ(神居木)】

11:28 国史中山道案内板
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案内板
国史跡『中山道

南木曽町を南北に貫く中山道 は、その大部分が昭和六十二年十月三日に『国史跡』に指定されました。中でもこの付近は中山道の形状がよく残っている所ですが、主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、一部を施工範囲に含めざるを得なくなりました。
 関係機関(文化庁・長野県木曽建設事務所・南木曽町教育委員会)での協議の結果、車道敷になる中山道については破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。 」

11:28 石畳
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11:32 かもいぎ説明板
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案内板
「 かもいぎ(神居木)

この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますが、このような形に似ていることから枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と行きます。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。
傷つけたり、切ったりすると、たちまち祟(たた)ると言い伝えられ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ることも嫌がりました。
この木のように両側に枝の出た木を両神居(りょうかもい)と言います。

木曽森林管理署
南木曽支署 」

11:32 さわら・かもいぎ説明板
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案内板
「 さわら(椹)大樹
樹齢 約三〇〇年
胴廻り 五・五米
樹高 四一米
材積 三四立方米

椹材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われますこの木一本で約三〇〇個の風呂桶を作ることができます。

かもいぎ(神居木)
この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますがこのような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)といいます。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。
傷つけたり、切ったりするとたちまち、祟(たた)るといい伝えられ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ることもいやがりました。
この木のように両方に枝の出た木を両神居といいます。

木曽森林管理署
南木曽支署 」

説明板のすぐ横の、この木がかもいぎ(神居木)かなあ?
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【一石栃白木番所跡と立場茶屋跡】


11:33 熊除け鐘 No. 8
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11:36 葉っぱのお面
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多分、朴の木の葉だと思います。朴葉味噌が有名なので、ついつい朴葉の木、と言いたくなりますが、朴の木の葉です。

最初、かわいい、面白い、きっと子ども達が遊んだんだろうな、と思って写真を撮ったのですが、ふと、何か宗教的な意味や、呪術に使ったのでは?と思うと怖くなってきました。深追いはやめましょう。

11:40 一石栃白木改番所
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一石栃(いちこくとち)白木改番所

「ぶらり南木曽」より

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最初下り谷に設置された妻籠宿の白木改しらきあらため(木材・木工品などの出荷取締り)番所は、後に馬籠峠に近いここ一石栃いちこくとちに移され、明治2年まで、木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)をはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行ってきました。
 また、ここには立場たてば茶屋(宿と宿の中間にある休息所)の遺構が現存しています。

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11:40 立場茶屋案内板
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案内板
「 立場茶屋

立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃(いっこくとち)は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて、八間に縮小されている。 」

ここに出てくる牧野家住宅は、現在「いちこくお休み処」となっています。


【いちこくお休み処】

11:41 いちこくお休み処
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「立場茶屋跡」の案内板にあった、牧野家住宅を地元の方達で手入れして、お休み処を無料休憩所として運営してくれています。

立場茶屋跡案内板の一部より
「 牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて、八間に縮小されている。 」

お休み処の真ん前には、水舟の水場があります。
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10年前にここを訪れた時は、この水場を見て「山小屋みたいだなあ」と思いました。

お休み処入り口に掛けられた看板にはこのように書いてあります。
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立て看板
木曽一石栃
いちこく御休み処」

上の横看板
「 Free Tea rooms
無料休憩所 (韓国語で同意義語) 」

下の横看板
「 木曽街道づえ
焼印所 」

中に入ると囲炉裏が一際目を惹きました。
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木のテーブルの前の椅子に座ると、おじさんがお茶を入れてくれました。

さらに、赤かぶの漬け物を勧めてくださり、これが歯応えといい、味といい、美味しい!

10年前は雨でした。

南木曽駅のSL公園では降っていなかったけれど、妻籠ではしっとりとした雨が降っていて、その時は、「木曽路は雨が似合う」と思っていましたが、この一石栃に着たときには本格的に降っていて、本当はお休み処でゆっくりしたかったのですが、雨に急かされて、確か座りもしなかった気がします。

今日はおじさんに、熊は出るのかを聞いてみました。

今はやはり冬眠中で出てこないし、昨年は春から夏、秋も熊は出なかったそうです。

今はまだ降っていませんが、昼から雨予報なので、降らないうちに少しでも稼ぎたいので、

「 雨が降らない内に馬籠に行きたいので」

と、早々に席を立ちました。

後日、2020年8月に娘と木曽路を歩いていちこくお休み処を訪れた時のエピソードを補足として書きます。

2020年8月20日(木)のブログより

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小屋(いちこくお休み処)のおじさんに、熊が出るか聞いたら、毎日のようにすぐ近くに来ているけれど、街道に出てくることはないそうです。
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また、春に小池百合子氏がお買い物は三日に一回にしてください、と言った意味がこの辺りの人には分からなかったら(この辺りはたまに買い出しに行ってまとめ買いが当たり前で、むしろ3日に1回は多い)、横浜に住んでいた友人が戻ってきたとき、その意味を教えてくれて驚いたそうです。

それから、猿の話も聞きました。猿はたくさん出て来て農作物に悪さをするので、鉄砲好きがバンバンぶっぱなしたお陰で全く出てこなくなったそうです。

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【ラッキーポイント・777m】

11:48 道に雪が残っています。
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今日は外国人(欧米の方)とたくさんすれ違いました。今、中山道を歩いているのはほとんど外国人?

11:50 石仏石塔群
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11:58 熊除けの鐘 No.9
ラッキーポイント 777m
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なんだか幸せな気持ちになります。


【馬籠峠と越県合併

12:02 馬籠峠
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馬籠峠 wikipediaより

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馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠。標高801m。

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にあり、中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い両宿を含めて観光地として訪れる人も多い。峠には「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている。

かつては長野県内の峠だったが、山口村が中津川市越県合併したことで県境の峠となった。峠道は中山道の旧道と岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、分岐と交差を繰り返している。

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12:02 峠の茶屋
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学生時代、歩く旅のサークルに入っていました。

木曽路を歩いた時、楽しそうな観光客を横目に、大きなリュックを背負って、妻籠や馬籠を走り抜けました。

いつか、観光客としてゆっくり妻籠や馬籠を見に来たいと思いました。

峠の茶屋で、五平餅も食べてみたかった。

また妻籠馬籠を訪れる夢は叶いましたが、10年前に来たときも今日も、峠の茶屋は閉まっていました。

正岡子規句碑
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「 馬籠峠
『白雲や青葉若葉の三十里』 」

峠の茶屋に来ると、昔、NHKみんなのうた」で流れていた「木曽路はきょうも」が頭の中に流れます。

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木曽路はきょうも

伊藤 海彦 作詞
川口 真  作曲
森山 良子 唄

(1)
遠い昔をそのままに
木曽路はきょうも山の中
煙る御岳宿場は雨よ
過ぎて泊まって またひとり
旅の心も ぬれてくる

(2)
梢はるかに緑をかさね
木曽路はきょうも木の香り
陽ざしこぼれて 峠は午(ひる)よ
送り送られ またひとり
旅のうれいも はれてくる

(3)
白く泡だつ流れに沿って
木曽路はきょうも山の中
あれは幻(まぼろし)筏(いかだ)の唄よ
吹かれ吹かれて またひとり
旅の想いも 暮れてくる

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私は、今回改めて「木曽路はきょうも」の歌詞を調べてみるまで、ずっと間違って覚えている箇所がありました。

1番の、「宿場は雨よ」と2番の「峠は午よ」を混同していて、「峠は雨よ」と思っていて、10年前も今日も、峠にやって来て、「峠は雨よ」と歌っていました。

12:04 岐阜県中津川市(県境)
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峠のすぐ先で県境を越えるのはよくあることなのですが、実は、以前は県境はここではありませんでした。

wikipediaより

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山口村(やまぐちむら)は、長野県南西部にあった木曽郡の村である。 島崎藤村の出生地である馬籠宿で有名である。 2005年(平成17年)2月13日、岐阜県中津川市と県を超えた合併をした。

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越県合併は前例はありますが、珍しいことです。

私が学生時代に馬籠峠で、「いつか峠の茶屋で五平餅を食べたい」と思ったとき、まだ馬籠は長野県でした。

10年前、中山道を歩いてやって来た時は、もう、妻籠は長野県、馬籠は岐阜県でした。

島崎藤村は長野県出身の文豪と思われていましたが、2005(平成17)年の越県合併により、岐阜県出身文豪に 変わってしまったことになります。

不思議な越県合併に思えますが、実は地元住民にとっては、悲願だったそうです。

馬籠の人たちは、買い物に行くなら中津川へ行っていたし、テレビの民放も岐阜県のものしか映らなかったのだそうです。


【ラッキーポイントふたたび】

右へのフェイク分岐あり(ここは中山道ではない、と注意書がありました。)

さっきの、中津川市の県境の看板の奥の方に見えていたので、写真に○をつけておきました。
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12:02 分岐を右に入ります。
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12:07 熊除けの鐘
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岐阜県に入ったので、熊除けの鐘 にNo.はふってありませんでした。連絡先も変わっていました。

中津川市役所と、馬籠観光協会の電話番号が書いてありました。

熊除けの鐘のすぐ先に、またラッキーポイント777m地点がありました。
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さっきの777m地点から坂を上って峠へ行って、峠からまた下ってきたので、当然再び777m地点は訪れる訳です。
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明治天皇峠御膳水】

12:09 明治天皇峠御膳水
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峠集落の熊野神社入口横に建てられています。石碑表面には「明治天皇峠御膳水」と刻まれています。明治13年明治天皇御巡幸の際の記念碑だということです。

12:09 熊野神社
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12:09 明治天皇御小憩紀念碑
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12:10 馬籠宿案内図
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少し前から雨が降り始めて傘をさしていましたが、少し行くと廃屋があったので軒下をお借りして雨具を着ました。

リュックを一旦置くとき、リュックを濡らしたくないし、差している傘も一度閉じなければならないので、軒先をお借りできるのは助かります。

十返舎一九狂歌碑と梨子ノ木坂】

12:21 十返舎一九狂歌
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十返舎一九狂歌

「日本歴史街道中山道ガイド』」より

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「渋皮の剥(む)けし女は見えねども栗のこはめしここの名物」峠の集落を抜けたあたりの路傍に、十返舎一九狂歌碑が目に入る。 文化8年(1811年)に十返舎一九中山道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。

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碑の奥に立派な建物があり、トイレをお借りしようとしたら鍵がかかっていて、冬季は閉鎖しているとのこと。

12:28 石畳風下り道
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12:30 梨子ノ木坂
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梨子ノ木坂

「『梨子ノ木坂』の地名由来
2018-12-16 08:40

baba72885
『目からウロコの地名由来』」より

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ナシはナラ(均)すの転で、比較的緩やかな場所を示すことが多く、この坂道がはじまる写真の地点は比較的緩い平地になっており、格好の休憩地となっている。木(キ)はもちろん場所を示す接尾語だ。

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12:31 熊除けの鐘
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12:36 熊除けの鐘
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12:36 中北道標
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この写真は、中北道標を写したというより、その向こうの木の形が好きだったので撮った写真です。

12:39 またも上り
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この後、だんだん昔ながらの道というよりは人工的な階段になってきて、右へ上っていくのが中山道、左の砂利の広場からは展望がよい、という分岐に来た時、10年前もここに来たなあ、と思い出しました。

10年前は、展望台にある東屋で持参のパンか何かで昼食にしたような記憶があります。

今日はどうせ展望は期待できないので、中山道の階段を上りました。


二度目の中山道19日目の5(馬籠宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/10/180111



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き19日目の3(妻籠宿から大妻籠)

二度目の中山道19日目の3
1月7日(火)の3


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【お地蔵さまや石の道標を見ながら】


10:19 お地蔵様
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名もなく、ガイド本にも何の記述もありませんが、赤いよだれ掛けは新しそうだし、花も手向けられ、大事にされているお地蔵様のようです。

赤いよだれ掛けの意味は?

「日本文化研究ブログ Japan Culture lab」より

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よくお地蔵さんには赤いよだれかけがかけてあったり、お菓子がお供えしてあったりします。

お地蔵さんは子供を守る神様として信仰される事が多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけを奉納するのだそうです。

よだれかけだけではなく、丸い頭にかぶせる頭巾を奉納されることもあります。

このよだれかけや頭巾、なぜ赤色なのでしょうか?

赤という色は「清く」「正しい」そして「正直な色」と信じられており、魔よけとして赤ちゃんやお地蔵さんに赤いものを着せる風習があります。

還暦でも赤いものを身につけますが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、お地蔵さんや赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られています。

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また、「お地蔵さん.com」では、おじぞうさんの赤いよだれ掛けは2つの意味がある、と言っていて、上に上げた説の他にもうひとつ、

「赤い色は人間の煩悩を表している」としています。

「昔の人肌自らの煩悩を赤という刺激色に喩え、それをお地蔵さんに託すことで、雑念から解き放たれようとした」という説です。


10:20 中山道さんま碑
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自然石道標
「右(まごめ)旧道 左志ん道いいだ」

なぜ「さんま」なのか、わかりませんでした。

勝手な想像ですが、今は見えない下の方にまだ文字が隠れていて、「さんまた」(三又)と書いてあった? 何の物証もない架空の話です。

この先の、静かな田舎道を歩きながら、1月2日に買ったくるみ餅を食べました。

10:27 中山道走しば邑道標
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「走しば邑」は、「はしば村」でしょうか?

と思っていたら、この案内板がありました。

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案内板
「 石柱道標(町史跡)

明治二十五年に賤母(しずも)新道が開通するまで、馬籠〜妻籠〜三留野(みどの)を通る中山道は、古くから幹線道路として重要な役割を果していた。ことに妻籠の橋場は、『追分』とも呼ばれ、中山道飯田街道の分岐点として栄えた所である。
この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、当所の松井輿六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人とともに、飯田・江州・地元の商人によって、明治十四年六月に建てられたものである。当時の繁栄が伺われる石柱である。 」

走しば邑は、橋場村、「追分」とも呼ばれた場所なんですね。


【曲がって曲がる、そして石仏】

10:29 右へ行って左へ曲がる
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その、最初の右に曲がる道標の中山道
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その先、左に曲がると山道
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10:31 石仏
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安政◯年二月 とか、左にも文字が刻まれていますが、読めません。

10:35 急な下り坂
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【大妻籠 弘法大師常夜燈】


10:37 弘法大師常夜燈
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男垂川に架かる神明橋を渡ると、左の旅館金剛屋前に「南無弘法大師之記念碑」があります。
初代が弘法大師を祭祠して信仰を深め、後に多くの信者達が浄財を集めて建立したもので、毎年3月21日に弘法大師の上り幟旗を掲げた祭礼が行われ、厄払い・お産・縁結びに御利益ありと記されています。


10:38 大妻籠
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matinami.o.oo7.jpより

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南木曽町妻籠の町並 
妻籠

妻籠の町並
 南木曽町吾妻には国の重要伝統的建造物群保存地区妻籠宿や中山道沿いの大妻籠集落も含まれる。大妻籠を訪ねたのだが、本卯建と出梁造りの民家が連なった小さな集落であった。その連なった民家の3、4軒とも民宿をされていて、それはそれで古い町並としては一級品であった。
そこから坂道を登ること15分ほどで、田んぼの中に県指定文化財の藤原家住宅があった。
改造はされているが、改造の手が入らなかった部分は17世紀半ばまでさかのぼる古い建築で、このクラスの民家は長野県内でも藤原家住宅を含めて3軒しかなく、国の重要文化財になっている家もあり、貴重な建築である。

町並指数  50  
参考文献 
  木曾 歴史と民俗を訪ねて  木曾教育会郷土館部編  平成8年

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なんでこんな小さな集落が大妻籠なんだろう?もしや、奥妻籠の意味なのでは?と思っていたら、やはり、奥妻籠がなまって大妻籠になったらしいです。

民宿が数軒と、あとはほとんどみんな農家で、鴨を飼っている家もありました。


【大妻籠まるや、つたむらや 県宝藤原家住宅】

10:41 大妻籠旅館まるや
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諸人御宿(もろとおやど)まるやホームページのトップページに

「大妻籠にて寛政元年創業 囲炉裏が創る想い出の 宿」

とありました。

冷暖房完備で料理も美味しいそうです。

本卯建(ほんうだつ)、出梁(だしばり)造りの、昔の街道を彷彿とさせる古民家です。

後日(2020年8月、娘と木曽路を歩き、大妻籠まるやに泊まりました。)

2020年8月 大妻籠まるや
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まるやの囲炉裏のある部屋
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手作りの美味しい夕食
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さて、2020年1月7日に戻ります。

隣も旅籠つたむらや、という民宿でした。

こちらは「つたむらや」
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10:43 県宝藤原家住宅の案内板
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案内板
「 県宝藤原家住宅
Nagano prf. Tresure The House of Fujiwaraa

この坂(左右どちらの道でも行ける)を登った上平に、県宝藤原家住宅がある。この住宅は改造が大であったが、当初部分は県内民家で最も古いクラスで、建築年次は、間取り・構造・仕上がりから、十七世紀半ばまでさかのぼると考えられる。昭和五十三年七月二十七日に県宝に指定された。昭和六十年度と六十一年度の二ヵ年をかけて解体復元工事が実施され、往時の姿がよみがえった。希望者は内部を見学することが出来る。 」

案内板からは遠そうだったので、パスしました。


【庚申塚と民宿こおしんづか】

10:45 庚申塚
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案内板
「 庚申碑について Koshin stone monument

庚申の日は六十日後とに巡り、年に六日あります。
この日の夜に人々が集まり、徹夜で念仏を唱えたり世間話をして、朝に解散する風習がありました。これは人の体内に「三尸の虫」という霊虫が住み、人々が寝静まると体内から出て天界に昇り、天帝にその人の悪行を告げ口し、怒った天帝がその人を早死にさせると言い伝えられており信仰されていました。ですから、庚申の日は夜通し起きて、虫が体内から出ないようにします。これを「庚申待」といいます。
おそらく最初は「庚申待の夜は厳かに過ごす」ものだったと思われますが、娯楽の乏しかった平安時代から「二ヶ月に一度の楽しい夜通しの宴」となり全国に広がりました。

中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑です。
It is a stone monument based on the Koshin belief originating from Taoism introduced from Chaina.
平成27年度地域発元気づくり支援金事業」

10:45 石畳風歩道
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10:46 山駕篭を吊るした家(民宿こおしんづか)
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妻籠おしんづか

ここも民宿です。山駕籠が吊られているのが印象的です。

10:47 暫く歩道が続くのかと思っていたら、山みち入口が見えました。
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二度目の中山道19日目の4(大妻籠から馬籠宿への道)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/10/162530


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き19日目の2(妻籠宿)

二度目の中山道19日目の2
1月7日(火)の2


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妻籠宿入り口の民宿大吉】


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写真の三叉路で、どっちに進むのか暫し迷いました。真ん中を進みます。

9:38 御宿大吉
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御宿大吉ホームページより

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信州木曽・妻籠宿。その 宿場街のにぎわいからほんの少し離れた街道筋に御宿 大吉はあります。通りから見ると平屋と見まがうそのたたずまいは、木曽には多く見られるかけや造りの二階建て。格子窓、くぐり戸、吊り灯籠、軒行灯、飾り棚…伝統とモダンが調和する木の温もりと、お客様をお迎えする温かな心づかいが、旅のひとときをより一層お引き立て致します。

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【鯉ヶ岩】

9:39 鯉ヶ岩
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案内板
「 鯉ヶ岩の由来

昔当地(妻篭)城山に木曽義仲の後裔義昌が砦を築いていた其頃武将が此の岩の附近で恋の物語をさヽやきたりと云ふ伝説あり其後部落の地名も恋野となり現在も其の儘残っている中仙道筋の旅人を驚かせたり悦ばしたりしている 信濃道中記
鯉ヶ岩は名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが明治廿四年美濃の大震災で移動したヽめ形が変わった附近の烏帽子岩(吾妻公園地区)兜岩(神戸地区)と共に三大違和として有名である

鯉ヶ岩津島社八十一年祭に当り祠再建
昭和四十年八月四日
林 常盤 建之
雲外書 」

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案内書(紙のビラ)
「 恋岩は妻籠の北外れにあり、形が魚の鯉の形に似ていることから鯉岩と呼ばれ中仙道開設以来街道を旅する人々の目を楽しませています。
伝説によると、昔はこの辺りは川でこの岩は土石流で流されてきたとの事です。
明治二十四年の濃尾大地震で山側に倒れ、現在の姿になりましたが文化二年刊の『木曽路名所図絵』には、元の姿が描かれています。左の絵がそのコピーです。
左端で岩の説明をしている人、説明を聞きながら岩を眺めている人等、往時を偲びながら眺めて下さい。川を渡り横から眺めると鯉の頭と口が想像できると思います。尚、妻籠城跡はこの先五百メートル程行った所の山の上にあります。」
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nagareki.comより

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鯉ヶ岩(妻籠宿)概要: 「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれる大岩で妻籠宿の北端に位置しています。鯉岩と呼ばれるのはどうも江戸時代以降の事で、それ以前はこいはこいでも、木曽義昌木曽義仲の後裔)の家臣がこの岩付近で恋物語をささやいたという伝説などから、こちらの「恋」の方が一般的で地名の恋野の由来にもなっています。 木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていた程でした。名所絵図は文字通り、各地の名所を見た人が判りやすいようにに多くの挿絵が描かれ、現在でいうガイドマップのようなもので、木曽路名所図会は文章を秋里籬島、挿絵を西村中和が担当しています。木曽路名所絵図では鯉ヶ岩の挿絵が1ページ丸まる描かれ、説明として「鯉巖 妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」と記載されています。
「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれようになったのは江戸時代以降岩の形状が鯉が飛び跳ねている様子から鯉ヶ岩と呼ばれるようになったとされますが、明治24年(1891)の濃尾大地震震源岐阜県本巣郡西根尾村、現在の本巣市、規模はマグニチュード8.4又は8.0)により鯉の頭部分が滑落し現在の様な形状(高さ約5.6m、幅約6m)になりました。鯉ヶ岩は木曽路の名勝として貴重で歴史的な経緯や景観が評価された事から昭和51年(1976)に南木曽町指定名勝に指定されています。

木曽義仲伝説: 平安時代末期、木曽源氏の棟梁である木曽義仲が京都上洛の際、愛妾鞆絵御前(巴御前)とこの大岩の前で別れを惜しんだ事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

鎌倉武将伝説: 鎌倉時代、1人の武将が合戦に赴く際、この岩の前で許婚と「戦が終わるまで、この岩の下で待っていて欲しい。もし、生きて帰ってこれたら祝言を挙げよう。」と語り熱い抱擁をして別れを告げました。合戦は見事勝利し大功を挙げた武将は、この岩で再び許婚と再会を果たし、 2人は結婚し幸せとなりました。この伝説から、何時しかこの大岩を「恋岩」と呼ぶようになったと伝えられています。

妻籠城の武将伝説: 戦国時代、木曽義仲の後裔とされる木曽義昌妻籠城を築き、徳川方の大軍が攻めかかろうとした際、城方の1人の武将が、この大岩の下に意中の女性を誘い、恋物語を聞かせて口説いていた事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

石工伝説: ある石工が、この大岩から石材を切り出そうとし、ノミを入れようとしたところ、岩の精霊のものと思われる声が岩の中からしたので、石工は怖くなり逃げ出した事から、何時しか「声岩」と呼ばれるようになったと伝えられています

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【熊谷家住宅】


9:39 熊谷家住宅
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案内板
南木曽町有形文化財 熊谷家住宅
この建物は、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物がとり壊され建て替えられたことから、長屋 の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。昭和四十八年に町で買上げ、解体復元された。

昭和五十一年十二月二十二日
南木曽町教育委員会

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南木曽観光協会ホームページより

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熊谷家住宅

 この建物は19世紀初頭に建てられた長屋の一部ですが、左右の建物が取り壊され立て替えられたことから長屋の右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されてきたものです。
 こうした例は建築学上珍しく、貴重な建物です。昭和48年に町で買い上げ解体復原され、一般に公開されています(町指定有形文化財)。

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nagareki.comより

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旧熊谷家住宅(妻籠宿)概要: 旧熊谷家住宅は妻籠宿の北端に位置し、近くにには口留番所跡や鯉岩があります。案内板によると「 この建物は19世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが左右の建物が取り壊され建て替えられたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。昭和48年に町で買上げ解体復元された。 南木曽町教育委員会 」とあります。
旧熊谷家住宅(長野県木曽郡南木曽町)は江戸時代後期の19世紀初頭(1800年代初頭)妻籠宿(木曽路)・熊谷家住宅に二軒長屋として建てられた遺構で、左右の区画が解体され、残された3間半分を改めて1戸の住宅として改変されています。その為、元々の長屋だった間取りとは左右が逆で、右側の居住区の右半分と、左側の居住区の左半分を合わせて1軒分の住宅として改めて修築されたようでこのような形態を保持している古民家は珍しく貴重なものとされます。熊谷家住宅は木造平屋建、切妻、平入、鉄板葺、外壁は真壁造り板張、桁行3間半 ( 6.37m)、梁間6間半(11.83m)、内部は正面向って左側が板の間が3部屋続き、右側が土間、その奥が畳敷き8帖の部屋が配されています。一般の民家ということもあり派手な意匠は少なく軒が低いなど当時の形態を色濃く残しています。

同じ妻籠宿に残され江戸時代中期の三軒長屋を改築した下嵯峨屋や本賃宿だった上嵯峨屋と比べると、特徴がよく判ります。まず、建物の間口は熊谷家住宅が桁行3間半(約6.37m)なのに対し下嵯峨屋は桁行3間(約5.46m)、これは二軒長屋より三軒長屋の方がより1区画が狭小だった事が窺え、上嵯峨屋の間口が桁行3間半(約6.37m)だった事を見ると、妻籠宿では当初の一般庶民住宅の町割は3間半が1つの基準だったのかも知れません。

又、間取りにも大きな違いがあり、一般的な町屋建築では正面の道路から敷地背後を結ぶ「通り庭」と呼ばれる土間の通路があり、下嵯峨屋や上嵯峨屋では見られるものの、時代の下がった熊谷家住宅には見る事が出来ません。「通り庭」の名残の土間が残されている為、長屋から戸建てに改築された際に改変されたと思われます。又、
建物背後に風呂や雪隠を主屋に取り込んでいるのも時代の流れを感じさせます。熊谷家住宅の間取りは向って左側は正面から板の間4畳、板の間8畳(囲炉裏付)、妻籠宿(木曽路)・熊谷家住宅板の間4畳、右側は正面から土間、土間と板間、畳の間8畳(押入れ付)、主屋背後には風呂、廊下、雪隠とあり、下嵯峨屋と比べると遥かに暮らし易くなっています(元々は下嵯峨屋と同様な並列二間取りの長屋だったと思われますが改築された際、近代的な生活出来るように改変さえたと思われます)。

旧熊谷家住宅は妻籠宿に建てられた江戸時代後期の町屋建築の遺構として貴重な存在で妻籠宿の町並み景観に大きく寄与している事から、昭和48年(1973)に南木曽町が買取り、解体復元が行われ、昭和51年(1976)に南木曽町指定有形文化財に指定されています。又、妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。現在、熊谷家住宅はは南木曽町が所有し内部は一般公開され当時の生活用品などが展示され見学できます。

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妻籠口留番所之跡と高札場跡】

9: 45 妻籠口留番所之跡
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案内板
「 口留番所

江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。
従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された 正保三年(一六四六)と推定される史料に、『妻子(隠)御関所』と記されていることから、少なくとも一七世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。
なお妻籠には、下り谷その後一石栃(いちこくとち)に、木材を取り締ることを目的とした白木改(しらきあらため)番所が、近世を通じて設置されていた。 」

nagareki.comより

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口留番所妻籠宿)概要: 口留番所妻籠宿の北端に位置し、近くには木曽路の名所として知られる鯉ヶ岩や高札場、旧熊谷家住宅などがあります。江戸時代初期に中山道を利用する旅人の人物改めや物資の搬入搬出を管理する為に妻籠宿の入口付近に設けられた番所で正保3年(1646)の資料にも「妻子御関所」の記載があります。
妻籠の地は主要街道である中山道木曽路)から大平街道(中山道妻籠宿と三州街道番所飯田宿を結ぶ街道)が分岐する交通の要衝で軍事的にも重要視されていた事から、戦国時代に築かれた妻籠城は木曽氏関係の山城の中でも最大級の規模を誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、豊臣方に転じた木曽義昌重臣山村良勝を妻籠城に配して、徳川方の軍勢をここで食い止めています。武田家が天正年中(1573~1582)に領内関所を設置した際には妻籠関所も整備されたと推定され、天正18年(1590)に木曽義昌徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されるまで機能していたと思われます。

木曽谷が犬山城(愛知県犬山市)の城主石川光吉の領内に入ると、妻籠城が木曽支配の中心となった為、関所が機能していたのかは不詳ですが、江戸時代に入ると、木曽代官となった山村氏が福島関所の関守にも就任し、妻籠関所は福島宿に置かれた福島関所の副関として機能していたと思われます(同じく副関として贄川宿贄川関所が設置されています)。慶長19年(1614)の 大坂冬の陣の際には大坂方への間者や、無断での武器の出入、大坂方の軍事行動を押える為、代官山村家は家臣である馬場半左衛門、同三郎左衛門、千村助左衛門、山村清兵衛、原十郎兵衛、千村次郎左衛門、三尾将監、原籐兵衛を関守として配しています。

一般的は元和6年(1620)に妻籠関所は 廃止となり福島関所に統合されたとされていましたが、近年発見された資料によると正保3年(1646)に「妻子御関所」の記載がある事から少なくとも17世紀半ば頃までには存在していた事が窺えます。ただし、元和元年(1615)以降、木曽谷は尾張藩領になっていた事から、妻籠関所は幕府の正式な関所ではなく、尾張藩独自の「口留番所」という扱いになっています。何れにしても江戸時代中期以降は口留番所は廃止され、少し離れた場所に白木番所を設置し江戸時代を通し、人物改めや荷物(主に木材)改めを行っていました。現在、番所跡には遺構はありませんが、街道との間に少の段差には石垣が残され、宿場側には地蔵沢(小さな川)が横切っていた事から、往来者は地蔵沢を渡り、関所を通過しなければいけない仕組みになっていたようです(迂回され「関所抜け」や「関所破り」などが横行した為、このような地形に設置されたと思われます)。

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この辺りから、郵便を配るシニア運転の軽自動車と抜きつ抜かれつ。

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9:47 高札場跡 水車
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この辺りまでは下り坂ですが、この先、妻籠宿内は比較的なだらかな道です。


妻籠と馬籠】

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今まで何度か妻籠と馬籠に行っていますが、二つの宿場の違いについて、妻籠は長野県、馬籠は岐阜県、というぐらいしか知りませんでした。

今回改めて調べてみました。

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yawamelogより

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現在、妻籠宿は長野県木曽郡南木曽町にあります。

また、馬籠宿は岐阜県中津川市にあります。

馬籠宿の方もかつては長野県にありましたが、2005年に超県合併が行われた際に岐阜県編入したそうです。


かつては、江戸と京都の街道として人々の足だった街道も時代と共に衰退の一途を辿りました。

明治時代には、新たな道路や鉄道が出来き宿場の機能を失った事も中山道の衰退に拍車をかけたと言われています。

中山道の機能失った後に訪れた昭和の経済成長の中、いち早く地域で保全活動に取り組み始めたのが妻籠宿です。

妻籠宿は全国で初めて古い町並みの保存に取り組んだ町です。

その為、古い町並の状態が現在でも形を変えずにそのままの形で残されているのです。

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妻籠宿

妻籠宿は昔の街並みがそのままの状態で保管されているところが魅力です。

馬籠宿の様に坂道ではないので、ゆったりと歩くことができます。

宿場の通りを通ると、まるで当時にタイムスリップしたかなの様な錯覚を起こすという方もいらっしゃいます。

寺下の街並みなどにはいくつか食事処もあり、街並みを見て歩くだけでも楽しいです。

当時の面影を残しているままなので地味さもありますが、再現されたものとは違う本物の街並みを味わえる所が一番の魅力です。


馬籠宿

馬籠宿は石畳の坂道にある宿場で有名です。

坂道なので若干歩くのが大変!!

水を汲みにくい場所に位置している為、当時火災が起きた時に対応ができなかったため、焼失してしまったのが大部分ですが復元をして当時の面影を残しています。

妻籠宿と比べるとお食事処やお土産屋さんも多く、妻籠宿と比べると観光地のイメージに近い活発な所です。坂道から見下ろす街並みもとても奇麗なのも魅力なので、観光を楽しみたい場合は馬籠宿もおススメです。

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yawamelogは、愛知県周辺のお得情報を更新しているサイトだそうです。

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ここに上げた写真はすべて妻籠宿の建物です。



【奥谷脇本陣跡と林家住宅】

9:51 奥谷脇本陣
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案内板
南木曽町(なぎそまち)博物館

脇本陣跡奥谷(おくや)(国重要文化財)
木曽檜をふんだんに用いて、明治
十年に建てられた豪壮な建物です。
同13年には明治天皇の御小休所(お
こやすみしょ)になりました。島崎
藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふ
さんの嫁ぎ先でもあります。
常時、係員による案内を行ってい
ます。

歴史資料館
映像や模型を駆使して、木曽の歴史
妻籠宿の保存のあゆみをわかりや
すく紹介しています。ここをご覧に
なれば、妻籠宿への理解がより一層
深まります。 」

9:51 林家住宅
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南木曽町観光協会公式ホームページより

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妻籠宿「林家住宅(はやしけじゅうたく)」国の重要文化財

平成13年6月15日付で南木曽町博物館で「脇本陣奥谷」として公開されている「林家住宅」の主屋、文庫蔵、土蔵、侍門が国の重要文化財に指定されました。

林家住宅とは
 

林家住宅は江戸時代の末から明治にかけて建設された建物で、近世の町家建築の様式をふまえています。江戸時代には厳しい山林の統制があり、ひのきなどの貴重な木材の使用は禁じられていました。木曽の人々は山のひのきを目の前にしながら、決して使用することができなかったのです。
 明治になって尾張藩の統制が終わり、林家では自分の家の山からひのき、さわらなどそれまで伐ることのできなかった大径木をふんだんに伐り出して住宅の建築用材としました。これが現在「奥谷(おくや)」 という屋号の林家住宅であり、 江戸時代には大名や公家たちが宿泊した脇本陣だったことから、南木曽町博物館の施設の名称として「脇本陣奥谷」と呼ばれています。

 
林家住宅は妻籠宿の町並み保存運動の中心的存在として町が借り上げ、昭和42年から「奥谷郷土館」として一般に公開し、以来町並み保存運動のシンボルとなりました。
 建物もさることながら、江戸時代に妻籠の庄屋を務めたことから歴史と伝統を伝える貴重な古文書や民俗資料が数多く残されています。
 明治以降の和風建築物が国の重要文化財に指定されるのは、長野県で初のことです。今回は、主屋の外観が町屋形式を残し、室内の欄間や引き手に近代の様式を用いていること、ひのきなどの良い木材をふんだんに使用し建築技術が優れていることなどが評価されました。

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9:54 明治天皇妻籠御小休止所
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【ふれあい館】

9:54 無料お休み処(ふれあい館)
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Yahoo!ロコより

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妻籠の古い町並みの中にある、桧をふんだんに使って建てられた本陣横にある無料休憩施設「ふれあい館」です。懐かしい雰囲気のが味わえる休憩所です。広い板間になっていて、靴を脱いで上がって、ゴロゴロと寝転んだり、お弁当を食べたりと、自由にくつろぐことができます。観光客が気軽に使える休憩所となっています。朝市や地元民芸品の実演販売も行われていて、こちらも人気となっています。団体利用の場合は事前に予約が必要です。

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【人馬会所】

9:55 人馬会所
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案内板
「 人馬会所(じんばかいしょ)
問屋場(とんやば)

宿場には、公用の旅客に人馬を提供するのが第一の仕事でした。妻籠宿には、本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交替で勤めました。
人馬会所には、問屋、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし)人足指(にんそくさし)などの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割振りをしました。人馬会所の道路は広く宿内で最もにこやかなところでした。 」

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【島崎本陣跡と郵便資料館】

9:55 島崎本陣跡
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案内板
妻籠宿本陣

妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から『ぬい』が馬籠の正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代の間取図を元に忠実に復原されたのが現在の建物です。 」

9:55 郵便局と郵便資料館
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案内板
妻籠郵便局と
郵便史料館

妻籠郵便局は、明治六年三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。
当時の取扱所は、本陣にありました。その後、名称も場所も変わりましたが、現在のところに移ったのは、昭和五十四年一月です。
この建物は重要伝統的建造物群ほぞんちく町並の景観にあうように出梁造り(だしばりづくり)の形式を用いて造られています。
郵便史料館はこの郵便局の中にあり、昭和六十年七月に開館しました。
ここは、明治四年新式郵便制度創業時の服装を始め、時代の移り変わりに伴う郵便関係の貴重な資料を展示してあります。
自由にご覧ください。

妻籠郵便局長 」


妻籠観光案内所とぎんもくせい】

10:03 ぎんもくせい下
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上の写真の奥の方に見えているのが、てまえがキンモクセイ、その奥がギンモクケイではなかろうかと。

以前来たとき、階段を上って見に行きましたが、その時は秋だったから白い花が咲いてきました。今はきつい階段を上っても上った甲斐がないので、見に行きませんでした。

妻籠のぎんもくせい 妻籠観光協会公式Webサイト(ブログ)より

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妻籠観光案内所横の階段を上まで上がると「ギンモクセイ」の老木があります。この木は長野県の天然記念物に指定されていますよ。開花は9月下旬から10月初旬。白くてかわいらしい小さな花が咲き、キンモクセイよりずっとさわやかな香りが楽しめますよ。開花の頃、どうぞお出かけ下さいませ。

 妻籠宿の中央付近、 観光案内所の横の階段を一番上まで上がるとギンモクセイが見られます。階段の中ほど、下から見える木はキンモクセイですので、お間違えにならないようにして下さいね。

 樹齢が定かではないこのギンモクセイ・・・枝ぶりといい苔の具合といい、かなりの老木だと言うことがわかります。

キンモクセイと同じ花で色が真っ白なんですよ。とても清楚な感じがしますね。香りも控えめでキンモクセイよりもさわやかな香り・・・ただし、近くにあるキンモクセイが咲き始めるとギンモクセイの香りが負けてしまいますので、ギンモクセイの香りだけを楽しみたいのでしたら、咲き始めにお越しになられるといいですよ。例年、ギンモクセイの方が先に咲き始めます。

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10:04 観光案内所
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「ぶらり南木曽」(南木曽町観光協会HPより)

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観光案内所

 観光案内所の建物は、明治30年に旧吾妻村警察署として建てられたものです。その後旧吾妻村役場、南木曽町役場吾妻支所として使用されていましたが、昭和54年に無料休憩所・観光案内所として修理・整備されました。現在は妻籠宿保存地区の保存会(財)妻籠を愛する会の事務所にもなっています。

(財)妻籠を愛する会では妻籠宿の案内サービスをはじめました。団体での妻籠宿見学にぜひご利用ください

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こちらは、古い建物
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【枡形】

10:05 枡形
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案内板
「保存の原点『寺下の町並み』この先50m

枡形
徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際に、外敵の侵入を少しでも遅らせるために設けた構造物です。

全国に先駆けて
町並み保存に取り組んだ妻籠宿。その保存工事が最初に行われた寺下地区は、この先です。

枡形を経て
江戸時代から明治のままに整備された町並みと、解体・復元された『下嵯峨屋(しもさがや)』『上嵯峨屋(かみさがや)』をはじめ、『まねき』『延命地蔵堂』『厩(うまや)』等が見られます。 」


「まねき」とは? 妻籠観光協会ホームページより

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寺下の旅館「松代屋」の屋根と庇の間に看板が並んでいるのを見る事ができます。これは『まねき』と言われまして、今で言う「〇〇様御一行」と宿前にかかる看板と同じものです。

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案内板
「 枡形の跡(町史跡)

江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしてものである。
この妻籠宿の枡形は、明治三二年からの大平(おおひら)街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。 」
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寒山拾得延命地蔵堂】

10:08 寒山拾得
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案内板
「 石仏「寒山拾得」像

 この石仏は、昭和五十九年の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な像が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積み直されたもので、それが再び地震で崩れ、石仏が出現したわけで、まことに不思議なことである。
 この石仏が日本石仏協会の目にとまり、寒山拾得を題材にした「箒と巻物を持った人物による双体像」は、国内唯一つの珍らしい絵柄と分析された。彫ったのは、文政年間にこの像の隣にある「水舟」を手掛けた光徳寺の「中外和尚」と推察される。
 「寒山」は、唐代の禅僧豊干に師事し、天台山の近くに「拾得」とともに住んだ奇行の僧で、伝説の部分も多いが「寒山詩」や禅宗の画材」として有名である。
 石仏の「寒山」が手にする「巻物」は、智慧を意味し文殊菩薩の化身であり、隣の「拾得」が手にする箒は、行動を意味し普賢菩薩の化身と言われている。
平成十九年九月吉日
寺下区 」

10:09 延命地蔵
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案内板
延命地蔵

享保十年(一七二五)の書上げには、『地蔵堂』と記されている。堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化十年(一八一三)五月十日頃、河中(蘭〔あららぎ〕川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運びあげたというものである。この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常にぬれているようにみえることによる。毎年四月二三か二四日にお祭りが行われている。 」

延命地蔵堂付近から、枡形方面を振り返る。
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【寺下の町並みとふじさん柿】

10:09 寺下の町並み
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案内板
「 ー寺下の町並みー

妻籠宿 は全国で初めての集落町並み保存に着手し、昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、江戸時代の面影を残すことができました。生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、歴史を生きたまゝ受け継いでいくことです。このようにして一見無人家とも思われる家々でも、人々はくらしているのです。 」


10:10 ふじさん柿
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説明書き
「 『ふじさん柿』(百め柿)

『つとっこ』と呼んでます。
【完熟させて冬食べます。】

(食べた後の『つとっこ』は、一輪挿しとして使います。) あぶらや 」


妻籠観光協会ブログ2014/11/6

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熟すまでお待ち下さい。……「つとっこ」

今日も穏やかな秋晴れの妻籠宿となりました。スッキリ晴れた青空がとても気持ちのいい朝です。しかし土曜日からお天気も下り坂になるようです・・・近頃、何故か週末にかけてお天気が崩れるパターンが多いですね。お天気の回復を願います。
 秋の味覚に欠かせない柿。この辺りではそのほとんどが渋柿です。その渋柿を食べる為には干し柿にしたり、熟すまで吊るし甘くなるのを待って食べる方法があります。そして、寺下の町並みでは 店先や二階の軒先に「つとっこ」と呼ばれる吊るし柿が見られるようになりましたよ。ワラに包まれた大きな渋柿・・・甘く熟すとトロトロで美味しいんですよ。

 お客様の中には熟し柿を知らない方も多いです。「何故皮をむかないの?」「ワラに包まれているのは何ですか?」とお問い合わせをいただく事も多いです。渋柿は甘柿と同じように美味しそうな色になっていても、それは食べられたものではありません。熟すまで待つので時間がかかりますが、その分甘さが倍増し、お好きな方にはたまらない一品ですね。

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【寺下の町並み復原工事と厩】

10:11 案内板
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「 寺下地区の復原保存工事

妻籠宿 は全国でも初めての集落保存に着手し、長野県の明治百年記念事業として、昭和四十三年から四十五年にかけて寺下地区を中心に二十六戸の解体復原工事等を実施した。これによって江戸時代の面影をそのまま残すことができた。妻籠宿は全国に注目されるに至り、五十一年九月四日国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定された。(面積1.2454ヘクタール)現在この地区には、町の有形文化財に指定されている。上嵯峨屋、下嵯峨屋をはじめ、馬屋跡(現在地)を一般に公開している。 」

10:11 厩
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妻籠観光協会ブログより

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寺下の町並みの中に、厩(うまや)があります。馬をつないでおく小屋なのですが、今朝、この前で近所の方と立ち話をしていましたら、「さっき、外国の人達と日本人のガイドさんが、この厩の中に入って見学をして行ったよ。なかなか厩の中まで案内をするガイドさんはいないよ~。」と言う話になりました。その方も一緒に中に入って話をしたそうですが、その時の様子を聞きながら、私も中に入ってみるとパッとライトが点くではありませんか!奥まで入ると、自動でライトが点くようになっていたんですねぇ~・・・知りませんでしたぁ。すみません。

 と言うわけで、皆さんもぜひ、厩の中まで入っていただき、見学をして下さいね。実は、この厩、以前は納屋として使われていまして、宿場の保存工事の時も荷物を置いたり休憩場所になったりしていたそうです。そして、地面の石につまづくので、その石を取り除くために掘り返していると、まだ下にも石がある事がわかり・・・実は厩だったと言う事がわかったのだそうです。住民の方もそれまで知らなかったそうですよ。右の写真は、馬に履かせるわらじです。


馬のひづめを守る為の物だそうですが、今ではこれを編める方がいないと以前聞いたことがあります。

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寺下の町並み。さきほどの「ふじさん柿」も見えます。右に水舟。妻籠も水が豊富な町です。
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土産物店「ささき」
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【尾又 おしゃごじさま 藁馬】

10:15 尾又 おしゃごじさま
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案内板
「 尾又(おまた)

木曽路(中山道)から、伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝曆年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

おしゃごじさま
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御佐口(ミサグチ)神を祀る。古代からの土俗信仰の神様で、『土地政令指定都市神『土地丈量神様『酒神』等の諸説がある謎の神様と言われている。

尾又区 」

10:17 藁馬
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藁馬の「いんきょ」
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妻籠観光協会ホームページより

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おみやげ・特産品「いんきょ」

いんきょオリジナル民芸藁馬は、専用田からの藁と稲穂を使い動きのある藁馬を一つ一つ作りあげています。又体験学習、各地発送も致します。最近では祝馬、花馬、香り馬も人気の商品でございます。

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横から見ると、
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「 のれません。

No ride

キケン!! 」

という札が掛かっていました。


二度目の中山道19日目の3(妻籠宿から大妻籠) に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/09/223932


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003




二度目の中山道歩き19日目の1(南木曽駅から妻籠宿への道)

二度目の中山道19日目の1
2020年1月7日(火)の1


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南木曽SL公園】

夕べ遅く、塩尻塩尻駅前のビジネスホテルに泊まりました。

5:00 起床

6:00 パンとコーヒーの簡単な朝食

6:51塩尻発中津川行きに乗る

8:51 南木曽
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トイレ コンタクトを入れる。

8:37 歩き始める。

8:44 SL公園

ベンチの前にスマホ台があったので、タイマーで写真撮る。
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こちらは、後日(8月)に娘と二人で木曽路旅をした時に描いた絵です。
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案内板
「 SL公園 機関車

D51351機関車は昭和15年3月から30有余年の長い間日本海沿いに、或いは中央西線木曽谷沿いに走り続けて地域の産業経済文化等の発展に多大な貢献をして来ましたが、国鉄の近代化(電化)に伴って廃車となりました。
この馴染み深い『デゴイチ』を学校教育に役立てるため、昭和49年5月に国鉄から貸与を受けてこの中央線の旧線上に展示したものです。 」

暫しD51を眺める。
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10年前に来たときは秋で、道にも落ち葉がたくさん積もっていました。

この公園に、小さな子どもとお母さんの二人連れがいたなあ。


【石仏 神明神社

8 :50 石仏
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中山道を歩いていると、しょっちゅう石仏に出会います。

中学生の頃、祖母の家にあった写真雑誌「太陽」を見て、いつか石仏を訪ねる旅をしてみたいと思っていましたが、中山道を歩くとその夢は叶います。

道の脇を水が流れ、せせらぎの音が心地よい道。今日は水が豊富な地域を歩きました。

8:53 中山道は左上の上り坂を行きます。
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8:58 神明神社
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神戸村の鎮守、慶応3年の「ええじゃないか」騒動に降ってきた御札を祭ったという謂われがあります。

【かぶと観音 袖振り松水舟】

8:58 かぶと観音
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10年前にここに来たこと、すごく覚えている。

案内板
南木曽町史跡かぶと観音

かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲 が、以仁王源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承四年(一八O)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷
の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を伺ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒した『袖振りの松』や、義仲が腰掛けたという『腰掛』が残されています。
そうした伝承故か、かぶと観音は古くから、木曽にゆかりの武将たちに手厚く保護されてきました。戦国末期の天正一五年(一五八七)には木曽義昌から三百文が寄進され、同一七年(一五八九)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されましした。江戸時代中期の宝暦七年(一七五七)に書かれた『吉蘇志略』には『俗に神戸観音と日み、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ』と記されているように一般庶民からも尊崇を受け、堂内には正保四年(一六四七)の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。幕末の弘化四年(一八四七)の『観音堂勧化帳』によれば、堂舎の改修に際してその寄進の範囲は、木曽谷中はいうに及ばず、木曽家旧臣が領する東美濃の各村にまで及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。
観音堂は、間口二間半、奥行き四間、入母屋造りの建物で、西側面には二間四方の庵室が設けられ、ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。
堂舎の建築年代は内陣・外陣境の虹梁や絵様墓股の様式から、貞享・元禄期(一六八四~一七〇三)と推定され、中の厨子も正徳五年(一七一五)頃のものと思われます。また格天井の絵は、上松町東野の阿弥陀堂と同じく、山村代官お抱え絵師 池井裕川が描いたものと考えられます。
このようにかぶと観音は、木曽義仲伝説の重要な地であり、堂舎も木曽の中では 古く貴重なものなので、南木曽町教育委員会では堂舎と境内を含めて平成六年1十月一日町史跡に指定し、平成九年度には半解体保存修理工事を
実施しました。 」

袖振り松の水舟
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案内板
「『 袖振りの松』の水舟

木曽義仲 が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前 が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、松くい虫の被害により平成二十一年に伐採されました。
この松は、地域の皆さんにより、長さ約七m という通常の倍以上の大きさがある水舟に生まれ変わり、巴御前の勇ましさを伝えるのにふさわしいものとなりました。 」

お堂の前にハート形の茅の輪くぐり
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水車も村の風景も
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この風景、時々夢に見る風景だ。私の好きな原風景なのかなあ。

写真の右側の小屋はトイレです。

10年前はあのトイレを借りて、流せるティッシュの必要性を感じて、旅にはいつも流せるティッシュを持って行ったなあ。(最近は忘れてました)


【古い石標など】

9:03 古い石標
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9:04 源臣光照院塚大明神 碑
謂われは分からりません。
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9:08 せん澤道標
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9:10 作品を見せる家
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今までこういう家を見ると、何かの工房、アトリエ、アート教室?と思って看板を探してみるのですが、何も分からないことが多く、多分、自分の作品を道を行く旅人に見てほしい、という個人的な思いで展示しているのかなあと。


【上久保の一里塚跡】


9:11 上久保の一里塚跡
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kisoji.com.「南木曽町の史跡」より

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史跡内容・保存状態
道の両側にある。盛り土で比較的原型をよくとどめている。5間4方、高さ1丈(3m)。塚の上に昭和45年建立の一里塚の碑が立ち、枝垂桜、松の木が一本それぞれに生えている。

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案内板
「 上久保の一里塚(町史跡)
The Milestone of Uwakubo

一里塚 は、慶長九年(1604)から一七年(1612)にかけて、一里(約四粁)ごとに築造されたものである。一里塚の基準は、五間四方(約九米)、高さ一丈(約三米)で、塚上に榎や松を植えた。街道の両側に対に築造され、旅人に安息と利便を与えた。
町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四ヵ所に一里塚があったが、現在原形をとどめているのはここだけである。江戸から数えて七十八里目の塚である。 」

道の両側、二つの塚を一緒に撮るのは難しいけれど、頑張って撮りました。
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良寛碑】

9:12 良寛
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案内板
良寛

木曽路にて
この暮れの
もの恋しさに
わかくさの
妻呼びたてて
小牡鹿鳴くも


この歌は手まり
上人と言われた
良寛木曽路
を通った折に
詠まれた二首の
内の一首です。 」

碑面 
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「 幾そち耳天
この久礼乃 毛の可奈之起耳 和可久さの
川まよひ堂てて さ遠志可奈久毛 」

読み

木曽路にて
この暮の もの悲しきに 若草の
妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」

脇碑
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「 此ノ碑ハ良寛ノ心ガ益々高揚サレマスコトヲ念ジ 加納陽治氏ノ御尽力 木原ゆ紀氏ノ土地ノ提供 中村渓男氏所蔵書使用ノ快諾ニヨッテ建設サレタモノデス
  昭和六十年四月吉日
         撰文 川口霽亭」


案内板に、「 良寛木曽路を通った折に
詠まれた二首の内の一首です。」
とあるので、そのもうひとつの良寛の歌は?

良寛さまのゆかり」というサイトに紹介されていました。

碑面
「 きそち耳て
さむしろ耳ころ毛可多志きぬ者多まの
さよふけ可多能月をみる可毛」

読み 
木曽路にて
さむしろに衣かたしきぬばたまの
さ夜ふけ方の月を見るかも」

碑陰
「この碑は ここ古典庵の旧跡が観月の名所(木曽八景の一つ)であることから 良寛さまが詠んだこの地の歌を平成二年度から実施した 中山間地域農村活性化総合整備事業の公園づくりを機に建立したものである
 建設協力者 良寛書所蔵者 
中村渓男(逗子市)
   平成七年三月吉日
       南木曽町長 楯 種臣
   与川地区中山間地域活性化協議会
   碑稿書 川口霽亭(名古屋市

案内板 
木曽路にて
さむしろに 衣かたしき ぬばたまの
  さ夜ふけ方の 月を見るかも

この歌は てまり上人といわれた 良寛木曽路を通った折 詠まれた
2首のうちのひとつで その時期は 次の3つの場合のいずれかと思われる

1.師の国仙和尚に随って善光寺方面を巡錫した時で 天明4年(1784)
  27歳頃
2.備中玉島にある円通寺での修行を終えて 越後に帰る時で 寛政7年
  (1795)38歳頃
3.飛騨高山の大隆寺の僧宗龍禅師を参訪した時で 良寛20代後半か

場所 長野県木曽郡南木曽町読書与川
古典庵跡 」


【蛇石道標】

9:13 中北道標と古い石標
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9:20 蛇石道標
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kisoji.com.「南木曽町の史跡」より

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中山道沿いの青木初恵氏宅前にある。蛇石の数100m手前。昭和45年建立で、表面には「中山道・右つまこ宿・蛇石・左新道・下り旧道」と刻まれている。ここから中山道は東側の細い道に入っていく。
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この辺りで、5〜6人の欧米の方達とすれ違いました。今日すれ違った外国の方たちは皆さん欧米からいらした方たちで、「こんにちは」と声をかけるようにしていました。

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案内板
妻籠宿 郷土環境保全地域

この地域は、中山道妻籠宿周辺一体の歴史的自然環境を守るために指定されたものです。
南木曽町の林家住宅、藤原家住宅、妻籠のギンモクセイなどは、県の文化財に指定されています。
優れた文化財と一体となったこの自然環境をいつまでも大切に守り育てましょう。」


妻籠宿城趾入り口】

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9:25 三叉路

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案内板

妻籠城址(県史跡)

妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が籠って、徳川家康の配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和二年(一六一六)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀(からぼり)・帯曲輪(おびくるわ)、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁(さいのかみどるい)という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。 」

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三叉路の、右の道を上ると妻籠城址、真ん中の道を下ると妻籠宿です。


二度目の中山道19日目の2(妻籠宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/09/204048


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003





二度目の中山道歩き18日目の3(野尻宿から三留野宿)

二度目の中山道18日目の3
9月5日(土)の3


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【線路沿いの道と、熊出没注意】


下在郷一里塚跡 江戸から77里目
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この踏切は渡らず、
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左横の道に入ります。うっそうとした旧道。
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それまで暑かったので、木陰の道は嬉しいです。

第13中仙道踏切を渡ります。
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線路沿いの道 11年前もここを歩いた記憶があります。
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列車が通りました。
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熊出没注意の看板
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思わず「出るんかい!」と叫んでしまいました。妻籠や馬籠あたりは熊鐘も設置されているので覚悟していましたが、ここいら辺りに出るとは、寝耳に水。

第14中仙道踏切を渡りました。
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【逆Vに折れて、山の中】

国道19号線に突き当たり、右折
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下横橋を渡ったら左折して上り坂へ。
逆V形に右に折れ、上り坂へ。
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逆V形の角にベンチがありました。
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石仏群
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常夜燈
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こんな草深いところを歩くのか?と思ったら、来すぎていて戻りました。写真に撮った場所よりさらに進んでもった草深いところまで行きました。
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さっきの常夜燈から少し進んだ所のY字路を右に行くのが正解ですが(さっきは左に行ってしまいました)、そのY字路の右へ行った先に車が何台か停まっているので、その奥は道ではなく人家の庭に見えたのです。
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国道19号線に向かって下り、
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信号は渡らず、信号の脇の

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この地下道を潜って国道と鉄道の向こう側へ出ます。
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地下道はパイプ等を組んだ足場の道です。


十二兼駅周辺】

13:43 柿其渓谷案内板
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おんたけ観光局ホームページより

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柿其渓谷(かきぞれけいこく)

柿其かきぞれ渓谷は数ある木曽路の渓谷の中でも特に美しいと言われ、吊橋より上流8kmにわたって深い谷を埋めた巨大な花崗岩が美しい滝や瀬や淵を織りなす景勝地です。春にはツツジシャクナゲ、秋には紅葉が旅人の目を楽しませます。

一般には十二兼駅から自然歩道を通って、牛ヶ滝まで4.5km、さらに奥へは林道を歩いていきます。特に、恋路のつり橋から牛ヶ滝までの約300mの遊歩道がお勧めです。

花崗岩をくりぬいて柿其川本流が落下する牛ヶ滝のながめは壮観です。牛ヶ滝からさらに林道を徒歩40分のところに、展望台からの眺めが爽快な霧ヶ滝があります。

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十二兼駅 何だかオシャレな駅ですね。
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13:53 この辺りが南目覚めかな?
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稲田に案山子
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明治天皇小休所記念碑
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急に風が強くなりました。帽子が飛ばされそう。また雷雨の前兆?

川を見下ろします。
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国道19号線の歩道 草ぼうぼうです。
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右の砂利道へ。
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左斜め 上り坂へ
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川の眺めがよい
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【草むらでランチ】

14:55 中央本線のガードを潜り、右へ大きくカーブするところの草むらに座ってランチ。
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今朝、木曽福島の駅前の店で買った大味噌パンが、固くて口の中の水分を全部もっていけれます。

カフェラテか牛乳があったら美味しく食べられそうですが、袋に二枚入っていた、1枚は食べ、もう1枚は持っていきました。


三留野宿

木曽氏の館があり「御殿(みどの)」と呼ばれたことが「三留野」の由来と云われているそうです。

妻籠宿への山道を控え、かつては大きな宿場だったそうですが、江戸時代に4度の大火に見舞われて、さらに明治14年(1881)の大火では宿場のほとんどを失ってしまいました。


15:02 中山道道標
南木曽駅1.1km
←与川経由 薮原14.7km
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三留野宿脇本陣
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案内板
三留野宿脇本陣

木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。本選は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。
脇本陣はその名の通り凡人を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が務めた。宮川家はまた三留野村の庄屋を務め、本陣西尾鮎沢家、問屋の勝野家などとともに指導的役割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸時代の三留野の中心部であった。
なお三留野宿は明治十四年(一八八一)の大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。

平成十二年十一月三日

南木曽町教育委員会

晴れているのに雷の音がしています。


【本陣跡と柏屋】


三留野宿本陣跡
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案内板
三留野宿本陣跡

この長野地方法務局南木曽出張所跡地は、三留野宿本陣があったところである。本陣の建物は、明治十四年七月とおかの三留野宿の大火災の際焼失してしまった。ちなみにこの時の被害は、家屋七十四軒、土蔵拝見に達した。
しかし、庭木の枝垂梅(しだれうめ・真地の天然記念物)と明治天皇御膳水(ごぜんすい)が凡人の名残を留めている。明治天皇は、大火の前年の十三年六月二十七日に一泊されている。御膳水の井戸は常夜五四年に復原したものである。 」


ゲストハウス 柏屋
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築140年の総檜造りの町家を大家の市川周さんと株式会社フォークロアが共同で一棟貸しの宿泊施設としてよみがえらせた建物だそうです。


【園原先生碑】

園原先生碑
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案内板
「 園原先生碑

園原旧富(ふるとみ)は、三留野村和合(わごう)の東山神社の神官の家に元禄十六年(一七〇三)に生まれ、長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神祇管領長)に師事して神学を学び、『神学則』を著すまでになった。その後も『木曽古道記』『神心問答』『御坂越記』『木曽名物記』などを著して、尾張・美濃・信濃に門人多数を擁する大学者となった。
この碑は彼の死後五年目の天明元年(一七八一)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、碑文は同時有数の学者である松平君山が書いている。なお、園原家住宅(一部公開)は、江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである。 」

園原家住宅

案内板
「 長野県指定文化財(県宝)
園原家住宅

園原家は、三留野宿東山神社の神官を務めた家で、江戸時代の大学者園原旧富まで遡る建物である。
栗材が多用され、差鴨居も鼻栓で止める古い形式で、一七世紀後半から一八世紀前期の建築と推察される。神殿も同時期のものと思われる。
江戸時代中期の神官屋敷の様子を知ることができる建築物で、現存するものが少ないことからも貴重である。又、推定数百年のイチョウや屋敷内の坪庭にあるドウダンツツジも、季節ごとに鮮やかな姿を見せ、見事である。

平成二十四年九月十三日 指定
長野県教育委員会


園原家住宅
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こちらのブログからお借りしました。
https://blog.goo.ne.jp/wxm68971-1936/e/93376f9021f420c4d2fa621f61f514ab


この後、急に雷雨。空の半分は晴れているのに、雷雨。傘は手に持っていたので慌てませんが、この後SL公園に行きたかったけれど、やめておきました。

急いで南木曽駅へ。

15:41 南木曽駅
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本日の歩数 34,080歩 20.78km


二度目の中山道19日目(南木曽駅妻籠宿~馬籠宿~落合宿~中津川宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/09/172118


度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き18日目の2(野尻宿)

二度目の中山道18日目の2
9月5日(土)の2


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野尻宿 いぼ石と東のはずれ】


標識「左 駅 右へ 野尻宿
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12:01 いぼ石
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案内板
「 いぼ石
『南無妙法蓮華経

高さ7尺(約2.1m)の石碑の台座になっている大きな石は『いぼ石』と呼ばれ、その昔、イボができた人がこの石に触るとイボが治ったという言い伝えがあります。 」

写真に指が入ってしまったので、フレームを付けました。


12:05 東のはずれ
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案内板
野尻宿 東のはずれ

ここが東のはずれで、この家の屋号も『はずれ』という。

野尻宿は木曽十一宿のなかでも旅館、茶屋など三十余軒をもって繁栄した場所である。野尻宿の特徴は外敵を防ぐための枡形が随所に設けられ、『七曲り』と言われる。 」


【本陣跡・脇本陣跡】


本陣跡
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今は遺構はなく、明治天皇御小休跡の碑が残るだけです。案内板が新設され、写真を撮ったのですが、うまく撮れませんでした。


脇本陣
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道がくねくねした町並み
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【西のはずれ】


西のはずれ
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西のはずれの先は枡形になっています。
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二度目の中山道18日目の3(野尻宿から三留野宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/08/021428


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き18日目の1(須原宿から野尻宿へ)

二度目の中山道18日目の1
2020年9月5日(土)の1


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須原宿本陣跡】

5:00 起床

7:00 朝食。朝食も美味しかった。
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8:30 チェックアウト。

木曽福島駅 9:05発
須原駅 9:37着 身仕度などして、

9:48 出発
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9:51 須原宿本陣跡 昨日見つけそびれたので、今日は探しながら歩いて見つけました。
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10:04 第9中仙道踏切を渡りました。
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白く泡立つ流れに沿って
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橋場バス停
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【岩出観音】

岩出観音分岐
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岩出観音の大イチョウ
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案内板
「 岩出観音のカエデ

樹齢/不明 幹周り/240cm 樹高/14m

岩出観音は脇にあり、秋には見事に紅葉します。懸崖宝形造りの建物との競演する美しさは格別です。

大桑村

9月5日現在のイチョウ
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岩出観音
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案内板
「 岩出 観音

奉仏 馬頭観世音菩薩

別名を伊奈川観音又は橋場観音といい、口伝によると三百余年前須原の一老父が馬の省を作り商いをしていた。
或日一人の威厳ある馬上の侍が馬の省を求めたが折り悪く片足分しかなかつたのでその旨を伝え、不足分を早速作り後から追いかけて現在の橋場の入口付近で渡した。侍は喜んで代金を渡そうとした
が老父はその侍の尊容に打たれて代金を辞退したところ傍らにあつた木片を取らせ馬上で『馬頭観世音』と書いて渡し『必ずこれを信仰せよ、御利益があるであらう』と言って立ち去ったと云う、俗にこれをコッパ観音とも云う。老父はそれを家に安置したところ光明を放つたので、恐れを抱いて橋場の岩出山の岩間に
祀ったところ一層赫々と光明を放ったので、忽近郷近在の評判となり来拝するものが多くなったので、近隣の助力を得て、この木片に観世音菩薩と刻み京都まで出掛けて妙心寺の名僧愚堂国師の開眼を受けて持ち帰り、一宇を建立して、奉安したところ 信仰する者多く、
縁日(一月十七日、二月の初午)には遠くから大勢御詣りに来られる様になった様です。
毎年一月十七日 初観音縁日、1月の初午縁日は午前十時半より法要を行っております。福ダルマ、お守り、お札の頒布も行います。
大桑村須原 定勝寺
平成十四年一月十七日
掲示板寄贈
柳橋政明氏 」

境内の地蔵堂
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階段を下りて、下から見上げた岩出観音
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おおくわナビより

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江戸中期に建立された長い歴史ある懸崖造りの観音堂
絵馬、筏流しの立派な歴史ある絵が多く保存されている。毎年、初観音(1月中旬)と初午(2月初旬)の行事が盛大に執り行われる。京都清水寺に似た崖屋造りに特徴がある。
木曽街道六十九次「伊奈川橋遠景」(渓斎英泉)の図にも描かれています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

英泉の「伊奈川橋遠景」はこちらですが、
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えっ、この絵のどこに岩出観音が?

よく見たらありました。

こちらの○で囲んであるところです。
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伊奈川橋
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川沿いの道
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伊奈川橋から8分歩いた所で左折
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左折してすぐに水舟
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石塔
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八幡神社入り口
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水害記念碑
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標識
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この辺り、とにかく暑くてくらくらしそうです。


【天長院】

天長院案内板
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案内板
「 地久山天長院(臨済宗妙心寺派)

当寺の往古は、室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し、木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、天文年間(一五四〇~)武田軍或いは山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったといわれています。
その後文禄年間(一五九四~)定勝寺七代天心和尚を開山として旧地に禅寺地久山天長院として開かれ、回答の変遷により、寛文年間(一六六二~)地蔵堂のあった合の宿平沢の現在地へ移転し現在に至っています。 」

天長院

石仏石塔 スマホが動かなくなって暫しスマホを冷やす時間をとりました。
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天長院の石垣
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常夜燈
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遠くに山が見えます。木曽御岳かな?
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第10中仙道を渡りました。
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暫く国道19号線を歩き、斜め右に入りました。
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こんな道を歩きました。
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第11中仙道踏切を渡りました。
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第12中仙道踏切を渡りました。
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左折する角の少し先に赤い洋館があり、何の建物か気になったのですが、調べたけれど何の建物か分かりませんでした。
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二度目の中山道18日目の2(野尻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/07/142612



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き17日目の2(須原宿)

二度目の中山道17日目の2
2020年9月4日の2


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須原宿入り口】

13:27 須原宿入り口
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須原の一里塚跡(江戸から75里目)
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須原駅
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須原の町並み
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おおくわナビより

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歴史的概要
木曽谷の中では一番古くに栄えた宿場町で須原から野尻宿までは1里24町、宿の延長は4町35間。問屋二軒・本陣一軒・脇本陣一軒・旅籠三十五軒の当時としては平均的な宿場でした。

宿のはじまりは戦国時代で、正徳年間に洪水の被害をうけ、享保2年(1717)に現在地へ移転しました。

木曽谷の中ででは一番古くに栄えた歴史ある宿場町です。
昔から清水が湧き、今も丸太をくり抜いて作った「水舟」が置かれています。

現在の状況
須原宿の枡形は宿場の京方に設けられ、幕府に反乱を起こした敵を防ぐために造られたものでした。今もなお残る直角に曲がった道や急坂も攻めにくくする工夫だったといわれています。
その独特な形状から「鍵屋の坂」とも言われるほどです。

本来の街道の姿を今に伝える通りでもあり、広い道幅や、町の中を流れる昔ながらの用水路などが、往時の面影を残しています。

大桑村指定無形文化財「須原ばねそ」(はね踊り)をはじめ、宿のはずれにある定勝寺は、桃山様式の代表的建築で昭和27年に重要文化財に指定されており、幸田露伴の「風流仏」の舞台とにもなった宿場です。

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脇本陣跡と水舟と須原ばねそ】

脇本陣西尾家
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案内板
「 旧脇本陣西尾家の沿革

脇本陣西尾家の祖は代々菅原の民を名乗る族柄にして大永、天文年間(1522年-1554年)の頃此の地信濃の国須原に住し地域の開拓に力を尽す西尾家は木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣ととして重きを為す殊に西尾丹波守は馬術又武芸に優れ木曽義昌公の信任極めて厚く鳥居峠妻籠城 の合戦等に参画転戦しその武功著しきものありしと伝えられる
天正十八年木曽義昌 公は豊臣秀吉 の命により突然下総の国網戸に移封せらるゝも 西尾家は依然此の地に留まりその後は木曽代官山村家に仕え尾張藩の山林取締役等の重責を担う
慶長五年(1600年)中仙道宿場の出来る に伴ひ須原宿脇本陣問屋、庄屋を兼ね宿役人として重きを為し地域の発展に貢献せり
その後寛延慶応の二度に亘る火災に遭遇し記録の一部を焼失するも今尚当時の隆昌を物語るに足る古文書、書画什器等多数蔵することは文化財として貴重な存在である
酒造業は古るく江戸時代の創業にして現在にいたる
大桑村


西尾酒造
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水舟と正岡子規の歌碑
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水舟とは、丸太を舟のようにくり抜き、丸太の中を湧き水が絶え間なく流れる様にしたもので、飲み水として使用されています。

正岡子規歌碑
「 寝ぬ夜半 いかにあかさん 山里は
月出づるほどの 空たにもなし
子規 透水筆 」

案内板
「須原に至りし頃には夜に入りて
空こめたる山霧深く
朧々の月は水汲み人の影を
照らして寂寞たる古駅の趣
いふ計りなく静かなるに
道の中央には石にて囲ひし
古風の井戸有りて淡島神社
の灯籠其の傍に寂しく立てり
(日本名勝写生紀行) 」


清水医院跡と須原ばねそ発祥の地
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案内板
「 清水医院跡

文豪 島崎藤村による『ある女の生涯』の舞台となった清水(蜂谷)医院跡。
現在、明治の医院建築として、愛知県犬山市明治村に移築され保存されている。」


須原ばねそ発祥の地 おおくわナビより

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すはらばねそ

須原宿に六百年前から伝わる盆踊。「ばねそ」とは「はね踊る衆」という意味で、よいこれ・竹の切株・甚句の三種があり、いずれも楽器を用いない地唄でこれを称して「須原ばねそ」と呼んでいる。

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案内板
「 聴けます♪♪

須原ばねそ『よいこれ』


民謡 須原ばねそ 発祥の地
『よいこれ』

ハー ヨイコレ 須原ばねそは
お十六ばねそホイ
足で九つ 手で七つ 」


須原ばねそ歌詞

1 、ハァーヨイーコレー 須原ばねそは
お十六ばねそ (ハイー)
足で九つ 手で七つ
(ハァー手で七つ 足で九つ 手で七つ)

 
2、ハァーヨイーコレー 木曽の須原で
自慢なものは 須原ばねそと 常勝寺

3、ハァーヨイーコレー 須原ばねそを
習いたかこざれ 金の十百両も 
持てござれ

4、ハァーヨイーコレー 須原よいとこ
地酒の美味さ 添えて差し出す 
とろろ汁

5、ハァーヨイーコレー 山は夕焼け
日は暮れ始める ごんと鳴る鐘 
定勝寺

6、ハァーヨイーコレー 嫁にゃもらわれ
主さにゃ泣かれ 胸は八千代の 玉椿

7、ハァーヨイーコレー 須原よいとこ
泊ろじゃないか 花漬売る娘の 
宿がよい

8、ハァーヨイーコレー 糸瀬山から
ちょっと出た月に 顔をかくして
皆おどる

9、ハァーヨイーコレー 好いたお方と
須原のばねそ 今宵一夜を 
輪であかそ

 
10、ハァーヨイーコレー 色気づいたか
木曽路のもみじ 朝も早よから 
水鏡

11、ハァーヨイーコレー 咲いてぼたんと
云われるよりも 散りて桜と 
云われたい 

12、ハァーヨイーコレー 主を松風
身にしみじみと 更けてさびしや 
虫の声

13、ハァーヨイーコレー 小野の滝越え
滑川越えて 花の寝覚が 近くなる

14、ハァーヨイーコレー 須原女と
江戸馬方は 馬につけても 
かたぎゃせぬ

15、ハァーヨイーコレー 須原名物
数々あれど 食ってうまいは
 とろろ汁



秋葉常夜燈
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水舟
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旧家
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【枡形 鍵屋の坂】

須原宿枡形 鍵屋の坂
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案内板
「枡形は宿場の京方(京都側)に設けられ反乱を起こした敵を防ぐためのものである。道路を直角に曲げ、攻めにくくなっている。通称『鍵屋の坂』ともいう。須原宿の枡形は形態がよく残されており、規模も大きく枡形の典型的な遺構として高い評価を得ている。 」


【常勝寺 国の重要文化財


常勝寺
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案内板
「 常勝寺
昭和二十七年三月二十九日
重要文化財指定

嘉慶年間木曽家第十四代の源親豊公が木曽川辺りに開創し、その後木曽川の洪水による流失の後、当地に慶長三年(一五九八)に移建したものが現在の諸堂宇で、山門、本堂、庫裏何れも桃山建造物として国の重要文化財に指定されています。
常勝だるま大座像、人間国宝『香取正彦』作の大梵鐘のほか木曽氏歴代による寄進物も数多く木曽の古い姿を知る重要な資料となっています。 」

山門
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山門への階段の周りの草むらや、境内のあちこちに点在する十六羅漢
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常勝寺の庫裏
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鶴亀蓬莱庭園
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常勝寺前の水舟
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この後、大桑駅14:56の列車に乗るため、写真も撮らず必死に歩いたので、明日は大桑駅ではなく須原駅で降りて、続きを歩きます。

大桑駅から木曽福島駅に移動し、木曽福島で泊まりました。
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本日の歩数 30,687歩 18.71km


二度目の中山道18日目(須原宿から野尻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/07/124623


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き17日目の1(上松宿から須原宿までの道)

二度目の中山道17日目の1
2020年9月4日(金)


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【あいさつの町 上松宿】

前夜、八王子まで進んで八王子のホテルに泊まり、八王子発4:52に乗って、高尾、大月、甲府塩尻で乗り換えて

9:12 上松駅着 トイレ、身仕度して、

9:24 出発

11年前に泊まった田政旅館前で旧中山道に合流しました。
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堺重旅館前から左に入ります。
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こんな坂を上りました。
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斎藤茂吉歌碑
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上松材木役所跡
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案内板
尾張藩直轄 上松材木役所跡

文三年から四年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半がとられ、尽山も多いことに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の地に役所を作ったといいます。
(後略) 」


諏訪神社
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案内板
諏訪神社 Suwajinja Shrine

この神社は、上松の鎮守の神様として古くからこの地にあり、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)の二神で、祭日は九月六日・七日ですが昔は七月二十六日・二十七日であったといいます。
この附近は縄文時代の早期、約八千年前の遺跡で、古くからこの地が良好であったといいます。
このお宮は、諏訪から直接来たのではなく京都から勧進したお宮のため、御柱を建てないともいわれています。
この神社の神主は、弘治二年(一五五六年)頃より代々徳原氏が行い現在に至っています。境内に五社神社津島神社が祀られています。 」


庚申塔
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石仏石塔群
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あいさつの川柳があちこちに貼ってあります。
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私は、

「あいさつで いい町この町 上松町

が好きです。

【越前屋・たせや】


越前屋(蕎麦屋)
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お向かいが、旅館のたせや
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途中で見かけた、寿命そばゆかりの人々
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寿命そば越前屋ゆかりの人々
「井伊大老 前田青邨
十辺舎一九 島崎藤村
廣重 降嫁姫君
歌麿 各国諸大名
芭蕉 大岡越前

降嫁姫君は、皇女和宮ですね。
十辺舎一九と書いてありますが、十返舎一九 が正しいと思います。

現在の越前屋そば店(中山道沿いから、寝覚めの床入り口に移転しました。)
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越前屋そば店ホームページより

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越前屋の歴史

当店は寛永元年(1624年)に創業しました。現在分かっている限りで日本で二番目に古い蕎麦屋と言われております。
当時からさまざまな旅人が宿場に立寄り、立場茶屋として栄えてきました。
喜多川歌麿十返舎一九岡本一平氏、前田青邨氏などの書や画も残されており、島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場しております。
中山道沿いには大正元年に3回目の建て替えをした旅館も保存されて残って
おります。
宿場として栄えた頃の旅人の姿に思いをはせながら、昔ながらの白いお蕎麦を
どうぞご賞味ください。

大正元年造 旧旅館
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木曽街道中膝栗毛(十返舎一九)より
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続膝栗毛 木曽街道膝栗毛(十返舎一九)より
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寿命そばの由来

「─ 寝覚の寺には、浦島太郎の釣竿といふものが有りました。 それも伯父さんの話して呉れたことですが、
浦島太郎の釣をしたという岩もありました。それから、あの浦島太郎が竜宮から帰って来まして自分の姿を
うつして見たといふ『姿見の池』もありました ─」

(藤村童話集 「ふるさとの中の「浦島太郎の釣竿」より)

その浦島太郎の長寿にちなんで「寿命そば」と名付け、現在にいたっております。
また、浦島太郎が愛用したと言われる釣竿が当店のすぐ近くにある臨川宝物館に展示されています。

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11年前のブログより

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2009.10.5.

レトロなポストの手前、民宿のたせや(多勢屋)は、昔は茶屋本陣でした。

向かいの越前屋は、寛永元年(1624)創業の、名物寿命そば」(そばきり)の老舗。松尾芭蕉、十辺舎一九、島崎藤村も立ち寄っています。
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越前屋は現在(2009年当時)旅館となり、ここにとまりたかったのですが予約がとれませんでした。

(追記:2017年現在は、写真の大正期に建てられた旧旅館として残されてはいますが、場所を近くに移して蕎麦屋として営業しているようです。)

こちらは、十辺舎一九の木曽街道中膝栗毛に描かれた越前屋。
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たせやと越前屋の間を入っていくと、寝覚めの床への道。

途中にある社に、カボチャ2個奉公されていました。
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神社だと思っていたら、臨済宗臨川寺でした。こちらの境内から寝覚めの床を一望できます。(拝観料あり)

寝覚めの床には、浦島伝説があり、浦島太郎の釣竿が宝物館にあるそうです。

竜宮城から帰った浦島太郎が、絶望の末、辿り着いたのが寝覚めの床で、ここで玉手箱を開けた、という伝説のようです。

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【寝覚めの床】


寝覚めの床入り口 臨済宗 臨川禅寺
入場料200円
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明治天皇寝覚小休所
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芭蕉句碑
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山頭火句碑
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案内板
謡曲木曽路の寝覚の床

 木曽路随一の景勝地寝覚の床は、昔役の行者 が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎 や三帰の翁 の不老長寿の伝説が生まれた。
 謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰いに勅使が遣わされます。三帰の翁は実は医王仏 の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げます。
 謡曲「飛雲 」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢います。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退けます。
謡曲史跡保存会 」


寝覚めの床看板
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展望台から寝覚めの床を見下ろしたところ。
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ここから坂道を下って寝覚めの床まで行くと、かなり時間もかかるし、上って戻るのも大変なので、ここから眺めるだけにしました。

子どもの頃、長野県に住んでいて寝覚めの床まで降りた記憶も残っているので、その思い出をもとに描いた絵です。
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弁財天堂
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案内板
弁財天堂 Benzaiten-do

尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(一七一一年)寝覚めの地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁財天堂を建てるよう上松の役人に命じ、翌正徳二年に完成したお堂です。
現存する上松町の建築物では最も古いもので、大工の棟梁は、名古屋の岩崎治兵衛他四名で当時の木曽では珍しいお堂の造りといわれています。石屋は三名で高遠から来ています。 」

弁財天堂の裏側
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明治天皇寝覚御膳水
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浦島太郎旧縁跡
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浦島太郎姿見の池
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長野県の情報【E-cure】より

↓↓↓↓↓↓↓↓」

上松町は、浦島太郎が晩年を過ごしたといわれる場所。
現世に戻って、諸国を旅した浦島太郎は、上松の里が気に入って住みつき、毎日寝覚の床で釣りを楽しんだという伝説が残っています。

(中略)

浦島太郎は竜宮城から地上へ帰るが、まわりの風景は変わっており、知人もおらず、旅に出ることにした。
旅の途中、木曽川の風景の美しい里にたどり着き、竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけた。
玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまう。
浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。
このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。
Wikipediaより

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白髪と化した浦島太郎太郎が、自らの姿を映し見た池が、この浦島太郎姿見の池だったの言われています。

亀の家
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寝覚めの床を後にして、中山道に戻りました。


【小野の滝と荻原一里塚跡】

大樟
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分岐点(郵便局)
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石塔群
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石畳風歩道入り口
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石畳風歩道を下って下の舗装道へ。
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滑川橋からの川の流れ
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こんな道を歩きました。
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小野の滝
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案内板
「 小野の滝 Ononotaki-warterfall
名所 (木曽八景のひとつ)

広重と英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。
明治四十二年鉄道の鉄橋がこの上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。
かつてここを旅した細川幽斉は『老の木曽越』のなかで『木曽の小野の滝は布引や箕面の滝にも、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける』と、手放しで誉めています。
また、浅井洌は、この地を訪れて
ふきおろす松の嵐も音たえて
あたりすずしき小野のたきつせ
と、歌を詠んでいます。今も上松の旧蹟にかわりありません。 」


荻原一里塚跡
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案内板
「 荻原一里塚跡 Ogiwara Ichiri-zuka
上松町指定文化財指定―

この一里塚は、上松宿内の一里塚か
らちょうど一里(約四キロメートル)
南へきた荻原集落の入口にありま
した。集落の北の入口であるこの一
里塚には、左右両方とも榎が植え
られていました。南の入口には、高
札場があったといわれています
 この一里塚の位置は
   京へ六十四里
   江戸より七十三里です
残念ながら現存しません。 」

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案内板
「 榎(えのき)と紅葉(もみじ)の合体木

一里塚 は江戸時代の徳川家康 のときから作られたが、そこに何か木を植えようということになり、家康の家臣が、どの木にしようかと家康に伺ったところ、「ええ木を植えよ」との答え。それが家臣には「えのき」に聞こえたらしい。よって、「一里塚=榎(えのき)ということになった。
(「ええ木」の他に「余の木」など諸説あります)

←200m先水場(和水)あります 」


【雲生まれ雲を抱く木曽路


石塔群
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上松駅から歩き始めた時は晴れて暑かったのに、この頃から雨が降り出しました。


雨の山道
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雲が生まれる木曽路
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石塔群
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木曽古道
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人の家の前を通るみたいな道です。


線路の脇の道
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11:51 雨がかなり激しくなったので、
倉本駅バス停でランチ。
メープルバウムクーヘン
メープルワッフル
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倉本駅周辺
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稲田の向こうに倉本駅
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黄色いコスモスと倉本駅
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コスモスの季節です。
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石仏石塔群
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えっ、ここ、中山道!?
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逆N字にヘアピンカーブ的に進むところ。ここ、11年前にも歩いたことを覚えています。
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立町橋をくぐります。
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池の尻分岐
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分岐の先は、こんな道です。
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【急に草の道】


急に草の道 11年前と変わっていなくて嬉しい。
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歩いてくると、急に道がなくなる、そんな印象です。

廃レストラン裏
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レストランは「ていしゃば」という名前でした。
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12:41 標高588m
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エドヒガン桜を見たかったのですが、見に行くための分岐がわからず、違う道だから見られた石塔群を撮りました。
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枝垂れ桜
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歩道が草ぼうぼう
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歩道
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二度目の中山道17日目の2(須原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/05/165353


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き16日目の3(木曽福島宿から上松宿)

二度目の中山道16日目の3
8月26日(木)の3

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【塩渕】

坂を下ります。
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坂を下りきると、「ここは塩渕」
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塩渕地名由来解説
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案内板
「 ここは塩渕(しおのぶち)です

天正十二年(一五八四)の木曽義昌朱印状には、『上塩渕』、『塩渕中屋』、『塩渕彦三郎』の名がでてくる。
享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には『家数拾四軒塩渕』とある。
シオという地名はかわの曲流部につけられることが多く塩渕の木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあっている。
又、塩渕には次のような言い伝えが残っている。
昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところその馬が、木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついたと伝えられている。

木曽福島町史より 」


塩渕の一里塚跡
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石仏石塔群
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案内板
「ここを上った所に
廿三夜様・勢至大菩薩
新田記念・堤防記念
塩渕開発記念
の石碑があります。 」

県道に合流
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左斜めに上がります。
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道祖神馬頭観音
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【中平】

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案内板
「 ここは中平(なかだいら)です

元禄七年(一六九四)の『岩郷村御役木惣百姓中ヨリ出ス高之覚』には、中平は『長吉・長兵衛』の二人の名がでているが、享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には、中平の部落名はでてこない。明治十一年の『福島村誌』には『(川渕橋)同上、中平里に在り、里中の用水の下流に在り、川渕一名中平と云う。長四尺幅二間二尺』とあり中平が川渕の一部であったと考えられる。天保九年(一八三八)の『木曽巡行記』には『中平は木櫛挽き売る』とありここには立場茶屋がおかれ木櫛を売っていた。
川渕(かわぶち) 現在の中平から塩渕までの木曽川べり(関西電力塩渕えん堤付近)に集落があったことが考えられる。享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には『家数五軒川渕』とあり寛保二年(一七四二)の『福島村、岩郷村地図』には田沢の対岸に川渕とあるが、明治七年(一八七四)の『岩郷村地図』には川渕は載っていない。
木曽福島町史 」


中山道案内
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津島神社
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案内板
「左側に津島様を祀った祠があります。」

写真に撮って引き伸ばしてみても、どこに祠があるか分かりませんでした。


斜め左へ
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国道19号線を潜りました。
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ガイド本には「廃線トンネルを通る」とありましたが、パスして、階段を上りました。
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11年前は廃線トンネルを通りました。11年前に撮った写真です。
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国道19号線を暫く歩きました。
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元橋交差点で左側に渡りました。
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左折して線路を潜って、右折しました。
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石仏石塔群
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道側を向いていないのは、もしかしたら御嶽山を向いているのかな?


【御嶽遙拝所】


御嶽山遥拝所
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案内板
「 御嶽遥拝所

木曽の路筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠の外はこの地だけで有る。遥に王滝川の渓谷を通して仰ぐ御嶽の雄姿は其の信仰心をそそった事で有ろう。遙拝のため、鳥居が建設された此の鳥居は寛永九年壬申毀損の記録が有るから相当古くから有ったものと思われる。此の遙拝所は御嶽山四方遙拝所の一つで、北は長峰峠、西は三浦山、東は鳥居峠、此の神戸のものが南方からの遙拝所で有る。
寛永二年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。
文政四年七月金剛院頼明によって石の華表に建替えらた。石柱周囲五尺五寸、高さ三間で有る。壇内二畝二十六歩で有る。
(木曽福島町史より抜粋)

木曽福島町町制百周年記念事業の助成を得て、石段、案内板、ベンチ、鳥居額縁を整備したもので有る。

木曽福島町下条区 」

今は木が繁って御嶽山は見えないそうです。

御嶽遙拝所からは見えなかった御嶽山が、6分降りてきたら見えました。
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さらに6分坂を下り、右折して線路を潜り、ITANOのあるところで国道と合流。左折して国道を歩きます。
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真ん中の坂を上がります。
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Y字路を右へ。
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線路脇の草道へ入りますが、この草地に座って持参のパンで朝食を取りました。
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12:16~12:27 休憩しました。

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舗装道に出ましたが、沓掛馬頭観音堂を見るために、先の草道に入りました。
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沓掛馬頭観音
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案内板
「 沓掛馬頭観音
Kutsukake Batokannon

霊験あらたかで有名なこの馬頭観音 の縁起によれば、昔、木曽義仲 公の名馬は、人の言葉がわかりました。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「七十三間とべ」と号令をかけました。馬は命ぜられるまま正確に七十三間とびましたが、実際は七十四間あったので人馬ともに河中へ転落してしまいました。義仲は九死に一生を得て助かりましたが、かわいそうに名馬はなくなりました。そこで、義仲は金の観音像を作らせて一堂を立てて馬の菩提を弔ったといいます。それがこの観音堂のいわれです。
以前は、もう少し南の観音坂にありましたが、明治四十三年の鉄道工事の折に、現在地一里塚の上に移築されました。 」

戻って、国道に向かって急坂を下りました。
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【沓掛一里塚跡】


沓掛一里塚跡碑
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案内板
「 沓掛一里塚
Kutsukake-ichirizuka
上松町史跡指定…

この 一里塚は上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治四十三年(一九一〇年)中覆う本線の鉄道敷設工事の折に、山側(西側)の一基は取り壊され川側(東側)の一基が残っています。上松で原型をとどめているのは、この一基だけで貴重な存在です。
 この一里塚の位置は
 京へ六十六里
 江戸より七十一里です。 」


国道に合流。国道なのに全く車が通っていないので、私が山にいる間に世間はロックダウンしてしまったか?なんて錯覚しそうでしたが、多分バイパスが出来てみんなバイパスを通るので、国道は閑散としているのでしょう。
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【木曽の棧】

木曽川がきれい。
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赤橋が見えます。
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木曽棧(きそのかけはし)を赤橋から見ました。
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木曽の棧は、川を対岸に渡るための橋ではなく、崖に補強して通れるようにした、崖にへばりついた道。今は立派なコンクリート補強で、大型トラックもビュンビュン通っています。

木曽の棧はコンクリートで補強工事が施される以前は、日本三奇橋のひとつに数えられていました。

昔の木曽の棧
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13:12 迂回路入口
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11年前に中山道を歩いたとき、この近辺は国道はトラックがビュンビュン通っているのに歩道がなく、歩くのかとても怖い場所でした。

でも、迂回路が出来て、歩きやすくなりました。

バイパスの橋が見えました。後にここを渡ります。
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ながさか地下横断歩道に入ります。
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さっきのバイパスの橋を渡って、迂回路を左へ。
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裏道(迂回路)。山がきれい。
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おにぶちばし。隣は鬼淵鉄橋。昔ここに木曽森林鉄道が通っていたそうです。
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案内板
木曽森林鉄道と鬼淵鉄橋
Kiso forest train & Onibuchi railway bridge

大正時代になって、日本の鉄橋(トラス橋)は鋼材や製作が全て日本の技術で作ることができるようになりました。木曽森林鉄道 の鬼淵鉄橋は現存する国産最古のトラス橋だといわれています。
大正三年、宮内省土木技師三根奇能夫 の設計で大阪の横河橋梁製作が作った鬼淵鉄橋は、全長九十三・八メートル。完成から昭和五十年まで森林鉄道の鉄橋として使われてきました。
各地で森林鉄道は相次いで廃止されましたが、木曽森林鉄道は日本で最後まで運行され、この鬼淵鉄橋の上でフィナーレが行われました。
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写真)鬼淵鉄橋を走る森林鉄道ホールドウィン蒸気機関車

森林鉄道の軌道跡の橋
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中央線を潜りました。
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十王橋交差点
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上松宿北入口
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案内板
中山道上松宿北入口

○上松宿高札場跡
高札場は、幕府や領主が木目田法度(はっと)や御定書(おさだめがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲示した施設で、主要な街道の交差点や村の入り口など、人通りの多い場所に設置されていました。
上松宿では宿場の入り口(江戸側)である十王橋の橋詰山手にありました。

○十王橋のいわれ
宿場の北側を流れているこの川は、昔は小野川と呼ばれていましたが、宿場側の橋詰に十王堂が建てられてからは十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになって現代に伝わっているものです。

地蔵尊馬頭観音
この地にある地蔵尊は十王堂に祀られていたもので、慶応三年五月(一八六七年)の大洪水で十王堂とともに流出しましたが、それから七五年後の春のお彼岸に河川の石の間から発見されてからは、対岸の山腹にあった馬頭観音とともに祀られてきたと伝えられています。
国道バイパス工事(平成十年完成)に伴う新道の敷設と橋の架け替えのため現在地に移転し、地域の人たちがお世話をしています。 」

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十王堂石仏群(石仏群の裏が高札場跡だったそうです)
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トイレをお借りしました。
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トイレの隣の塚本歯科医院が、本陣跡だそうです。
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道祖神と水速女命(本陣跡の前にあります)
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脇本陣跡(問屋・庄屋を兼ねていたそうです)
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本町一里塚跡
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案内板
「 本町一里塚跡
Honmachi Ichiri-zuka

江戸時代には、本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右の二基の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)。
一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。この一里塚の位置は
京へ六十五里
江戸より七十二里です。
残念ながら現存しません。 」

11年前に泊まった田政旅館
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14:01 上松駅
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本日の歩数 26,465歩 19.41km

今日は明日のために、中津川に泊まります。


二度目の中山道17日目(上松宿から)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/03/232515



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き16日目の2(木曽福島宿)

二度目の中山道16日目の2
7月26日(木)の2


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【福島関所跡】

10:19 木曽福島の大冠木門
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10:21 木曽福島関所跡
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文化遺産オンラインより

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福島関跡

福島関跡は、木曾谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曾川に迫る突端の根の井山(関山)麓の崖上に所在する。明治以降の文献資料や写真等を総合すると、国道の改修、JR中央線の開通や宅地化により、その面影はほとんど失われている。しかし、のこされている各種の文献資料や数点の古絵図を現地を照合することにより、福島町全体の旧町並道路とともに関所の敷地であった狭長な平坦部分は、今日なおほぼ原形を遺存しているとみることができる。
 関所内の番所・門・塀・棚等の間数を正確に記す寛文8年(1668)頃の古絵図等を手がかりに、2次にわたり発掘調査を実施した。その結果、番所前の石列、番所から東西にのびた塀の礎石、西門周辺部の石列等を検出し、これらによって番所敷地及び諸施設の配置を確認することができた。しかも、この西門の位置は、福島宿本陣会所角から「百九十一間」の距離があったという信ずべき資料とも一致する。また、現在国道から西門跡へのぼる急坂な小道は、福島関を通過する旧中山道の面影をのこしている。
 福島関は、その創設年次は明らかでないが、関ヶ原役後いわゆる五街道の整備とともに幕府の木曾谷防衛の関門として東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とならぶ重要な関所であった。その位置が京都と江戸のほぼ中間にあること、しかも木曾谷の流域中両岸が最も狭い地形であることなどを考えると、幕府がこの地に福島関を設けた意図も十分推測されよう。
 江戸幕府の交通政策史上における遺構として極めて重要なものとして、旧中山道に接する家中屋敷部分を含め関所跡として指定する。

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10:25 高瀬資料館
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木曽おんたけ観光局より

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関所資料館のすぐ隣りにある高瀬資料館は、江戸時代の侍で、薬「奇応丸」を製造していた武士の家であり、文豪・島崎藤村の姉が嫁ぎ、小説「家」のモデルとなった旧家です。
写真や手紙など藤村関係の資料の他、薬の製造に使った道具や先祖の鎧や鉄砲などを展示しております。
現在もご子孫がこの家に住みながら、お客様をお迎えしております。お気軽にお立ち寄りください。

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地蔵堂
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【福島宿の町並み】

酒屋さん
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10:34 左折の入口
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曲がると急な上り坂
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高札場跡
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水場
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10:38 上の段の町並み
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案内板
「 古い町並みが残る上の段

 古い町並みが残るこの竹を上の段という。
 宿場 は江戸幕府の命により防塞の施設としても作られており、敵の進入を阻むため道を『鍵の手』に折り曲げたり、急な坂道や道の両側に石垣を作ったり、いわゆる『桝形』を設けており、この地区にはその地形がそのまま残っている。
 また上の段は、木曽義仲 から十九代目の木曽義昌 の居城『上之段城』があったところで、その郭内として多くの道筋が通っており、由緒ある小路名が残っている。

上の段と晴明社

 上の段区の晴明社は、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明(921~1005)を祀ったもので、安永五年(1776)に同地区にある大通り寺内に祀られ、明治五年になって町内にある水無神社に遷されていたものを、晴明没後千年にあたる平成十六年に氏子の上の段区民によって現在の地に祀られた。
 社殿は一間社流れ造りで、正面に掲げられた『晴明霊神』の額は十一代木曽代官山村良煕 の書であり、小さいながらも獅子・像鼻・波・龍・雲・松・竹の彫刻が施された立派な造りは一見の価値がある。
御神体は上の段に宿泊した山伏が持ち込んだ幣束とされ、これをこの地の神にせよと言って置いていったものと伝えられる。上の段区では旧暦の八月十五日(九月の十五夜)に祭礼が行われる。
 同じく当町黒川地区にも安倍晴明にまつわる『清博士』という地名があり、二基の宝篋印塔がある。この地区でも晴明様と呼んで正月には松のかわりに柳を飾るなど独特の風習を伝えている。 」


まつり開館 冬季休館中 トイレは借りられます。
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鍵の手
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下り坂
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井戸
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木曽福島駅への登り坂
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10:52 木曽福島駅 トイレを借りました。
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右下へ
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御嶽神社
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突き当たり、木曽町役場を右から回り込む
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二度目の中山道16日目の3(木曽福島宿から上松宿までの道)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/12/31/005555


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き16日目の1(中山道中間点から木曽福島宿への道)

二度目の中山道16日目の1
3月26日(木)の1


中山道中間点】

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5:00 起床

7:00 朝食

8:30 チェックアウト

木曽福島駅8:56発

原野駅 9:01着 9:02発
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9:07 明星岩公園とそこからの木曽駒ヶ岳南アルプス
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9:12 中山道中間点
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案内板
中山道中間点

ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方
から六十七里ニ十人町(約二六六キロ)に
位置しています。
中山道は、東海道とともに江戸と京都を
結ぶ二大街道として幕府の重要路線で
あったことはいうまでもありません。
木曽路というと深山幽谷の難所と思われ
がちですが、木曽十一宿が中山道六十九
次の宿場として指定された慶長六年(一
六O1)ころからは整備も行き届き、和
官などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壺
道中などの通行に利用されていました。
英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数
多くの名作を残していることからも変化
に富むこの街道は旅人の目を楽しませて
くれたに違いありません。
また、江戸時代に木曽一円を治めていた
代官山村氏は、中央との結びつきを深め、
代々向学の士を輩出して政治、経済はも
とより、文学にもその才を発揮し、木曽
をして中山道のいう東西文化の接点な
らしめたのです。

木曽町 」


9:17 斜め右に下ります。
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9:20 石作 駒石
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案内板
「 石作 駒石 (いしづくり くいし)

寛保元年(1741)山村代官家臣井沢喜兵衛の二男で生まれる。名前を貞(てい・貞一郎)字(あざな)は士幹(しかん)。後に姓を石作と改正し、号を駒石とした。18才の時父が亡くなり家を継ぎ、良由(たかよし・蘇門)御側役(おそばやく)となり、1才下の良由の学友となり、学問・武芸・兵法を学ぶ。
駒石は学才を認められ、尾張名古屋の山村屋敷勤めにし、伊勢の南宮大湫(なんぐうたいしゅう)のもとで学ぶことができた。
3年後木曽に帰り、良由の学問相手となり、家中の子弟を教え、多くの学者と交流を深め、漢詩で名を挙げた。
天明元年(1781)良由は九代代官となった時、一万両の借金があったため、財政建直しのため駒石を勘定役にあてた。駒石は『倹約・節約』に勤め 、商人には実情を話し、協力を求め、この努力で借金はなくなった。

天明の飢饉では、中山道の宿と往来する旅人たちの米を確保するため、良由と共に周囲の藩、尾張藩江戸幕府に訴え頼み木曽への米の搬入を確保し、木曽での酒造りを禁止して、食料にまわした。さらに開田、馬産、漆器、製薬等にも力を入れ、一人も餓死者を出さなかった。
良由は駒石を連れて木曽全体を巡視して現状を把握して、困っている人たちへの援助をした。
この改善は中山道を通った老中松平定信の知る所となり、幕府の老中に良由をと尾張藩へ伝えたところ、そのように立派な人なら尾張藩で働いてもらいたいと家老に迎えられた。
駒石は現在西方寺敷地内に書斎『翠山桜』(山村代官屋敷に移築保存)を建て、学問や詩作に励み、『翠山桜詩集』をつくった。
寛政9年(1795)駒石は57才で亡くなる。
遺言により、興善寺墓地の他に駒ヶ岳見える七笑にも墓が建てられた。
碑には学者『細井平洲』の碑文が刻まれている。 」

9:22 藪のような道を下りていきます。
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川沿いを行き、金網の橋を渡りました。
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舗装道に合流。
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9:33 栗本バス停
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連子格子の家
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薬師堂 嘉永五年(1852)建立の二十三夜塔 庚申塔など
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薬師堂内部
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薬師堂脇の石仏
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天満宮(手習神社)
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案内板
「 手習(てならい)天神

このお宮は、古くは山下天神と呼び、
木曽義仲を養育した中原兼遠(かねとお)は義仲の学問の神として
勧進したものと伝えられます。
源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し、
養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、
付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等に史跡があり、
このお宮の古さを物語っています。
境内の『一位(イチイ)』の古木は、名木として知られ、中山道を往来する旅人は、必ずここに杖をとめ参詣したものといわれています。
このお宮の祭は、毎年八月二十四日、二十五日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行われています。

木曽町 」

9:40 Y字路 右の下りへ
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中山道ウォーキングの方への注意書き
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中山道ウォーキングの方へ

この先、道がなくなっていて危険です!

中山道を歩かれる方は、下記地図の赤い破線ルートに従って迂回をお願いします。

※歩道の通行をお願いします! 」


出尻一里塚跡
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日野製薬ホームページより

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2013.03.09

出尻一里塚跡の石碑除幕式


国道19号の坂道を少し上がって行ったら、石碑があり、参列者と新聞記者が集まっていました。しばらくしたら、石碑に刻む銘文の最優秀作品を書いた小椋春奈さんとご家族の方たちが来ました。

10時から除幕式が始まり、主催者として挨拶をしたあと、小椋さんを含む参列者で除幕をしました。写真のように立派な石碑が披露されました。小椋さんもご家族も大変うれしそうでした。

石碑の裏面には銘文作者の小椋春奈さんの名前と 優秀作品を書いた西田光孝君と五月日香澄さんの名前が協力者として刻まれています。何百年も名前が残ることになるので、良い記念になったと思います。

一昨年から木曽街道にある22の一里塚跡のうち、10か所の一里塚跡に石碑を設置し、目印機能の復元をしてきましたが、出尻一里塚跡が最後です。木曽町教育委員会の渡辺さんが、所在地について綿密に調べてくれました。国道とJR中央線の間に一里塚があったようで、今は見る影もありませんが、渡辺さんは、せめて国道脇に設置したいと国土交通省と交渉し、旧中山道と国道の交わった国道脇に設置することができました。このように地元の方たちの協力により、石碑の設置ができて本当に良かったと思っています。

中山道をウォーキングして回る人たちにも良い目印になると思います。

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フジベ印刷の先を道標に従って下ります。草道のかなり旧な下り坂です。
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9:55 国道と合流
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蕎麦屋くるまやの先を斜め右へ
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経塚と芭蕉句碑
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「思い出す木曽や4月のさくら狩り」


10:07 木曽大橋の下を潜りました。
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国道に合流する前に振り返ると、桜橋と木曽大橋が見えました。
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国道に合流
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関山公園碑
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二度目の中山道16日目の2(木曽福島宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/12/29/214207


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き15日目の5(宮ノ越宿)

2度目の中山道15日目の5
3月25日(水)の5


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【吉田洞門】

吉田洞門が見えてきました。
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14:30 吉田同門脇の歩道を進みます。
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歩道から見える山
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吉田洞門の脇の歩道、なかなか長いです。
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でも、もしトンネルの中を歩かねばならなかったら危険だし息苦しいし、洞門脇の歩道、ありがたいですね。山も綺麗にみえるし。

14:37 石仏石塔群
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12年前に初めて東海道を歩き始めた頃は、石仏石塔群は、何らかの意味をもってその場所にたくさん建てられたものだと思っていました。鎮魂とか、その場所が神聖であるとか。でも、ほとんどの石仏石塔群は、人間の都合で、道路工事や区画整理などで移動せざるを得なくなった石仏や石塔が、一ヶ所に集められてしまったものなのです。もちろん、意味をもってそこに建てられた石仏や石塔もありますが。

14:40 石仏石塔群
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14:45 吉田橋を渡る
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【旧国道】

14:46 渡ったら、左の旧道へ
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旧道が国道に突き当たり、国道を横断して、その先また旧道に入りました。
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完全に使われていない道なので、真ん中を堂々と歩けますが、落ち葉が積もって、そこに草や木が生えて、荒れ果てていました。
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11年前のブログより

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2009.9.9.

途中、草ぼうぼうの旧国道を歩きました。テンション上がりました。

11年前の旧国道の写真
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↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

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14:56 旧国道終点
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14:58 セブンイレブン
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トイレをお借りして、抹茶ミルクもちを買って食べました。


【巴淵】


15:12 句碑
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遥かなる花の薫りや
鴬の声

「時◯」(◯が読めない)という人の俳句と思われますが、この句碑について、特に解説は見つかりません。


森川許六の句碑
  山吹も巴もいでて田うえ哉

がどこかにあるらしいのですが、わかりませんでした。

或いは、「遥かなる花の薫りや鴬の声」の句碑が森川許六の句碑である、という説もありました。

後で調べたら、実は「巴淵」の碑の「巴淵」の字の右側に小さく、「山吹も巴もいでて田うえ哉」と彫ってあるのだそうです。今回私が撮った写真では、碑面が風化して読みにくくなっているので、
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ネットから読める写真をお借りしてきました。(「平家物語への旅http://blowinthewind.net/heike/miyanokoshi.htmから勝手にお借りしました。)
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慕情之碑
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  粟津野に討たれし公の
霊抱きて
巴乃慕情淵に渦まく

千村春潮



15:13 巴淵
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案内板
謡曲『巴』と巴淵

 謡曲『巴』は修羅物の中でも女性を主人公とした唯一の作品です。木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと『木曽義仲 が討ち死にした場所で、弔って欲しい』という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ、『自分は巴という女武者。義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった』とかたる。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。
 巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。

謡曲史跡保存会 」


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案内板
木曽三川 三十六景の一 伝説の残る巴が淵

 歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき、巴が渕と名付けられた。
 伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠 の娘として生れ、名を巴御前 と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切々と燃えた愛の証でもあった。巴御前の尊霊は
再びこの渕に帰住したと云う。法号龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔みして並ぶ。
 絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。
 岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕。木曽川の悠久の流れと共に、この巴が渕の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。

蒼蒼と巴が渕は岩をかみ
黒髪愛しほととぎす啼く

木曽町 」

11年前のブログより

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巴淵は、木曽義仲の恋人、巴御前ゆかりの淵で、エメラルドブルーの水をたたえ、とてもきれいでした。
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巴御前はこの巴淵の近くの出身ですが、この淵に住む龍の化身という伝説もあるそうです。

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15:16 巴橋を渡ろうとしたら、橋の上にいた軽トラが、渡るのか渡らないのか止まるのか、動きが不審で、脇を通り抜けるのが怖かった。
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【南宮神社手洗水から葵橋】

15:17 南宮神社手洗水
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案内板
「 南宮神社 手洗水

往昔木曽義仲公鎮守南宮
神社手洗水也唱来發年歷
事歎今新石船造立仕者也

月 日 願主 村中 」

この漢文は、石碑に刻まれているものです。


15:21 道祖神
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15:23 有栖川宮小休所跡碑
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15:24 徳音寺南バス停(ここを右折)
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15:30 葵橋を渡りました。
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こんな道を歩きます。
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15:36 道祖神
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15:36 義仲館への分岐
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今回は義仲館には行きませんでしたが、11年前には立ち寄りました。

11年前のブログより

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ちなみにその先の義仲館の休憩所で栃餅とコーヒーで休んでいたら、サービスで山盛りの漬け物と茹でトウモロコシ一片出してくれて、美味しくて腹一杯になりました。

その先、宮ノ越宿は、大火で焼けてしまい、昔の面影はほぼ残っていませんが、旅籠田中家が、火事のとき運び出された家具を元に復元されています。

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宮ノ越本陣跡】

15:39 宮ノ越本陣跡(冬季閉館中)
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案内板
宮ノ越宿 本陣 Miyanokosijuku Honjin

宮ノ越宿は、慶長六年(一六〇一)徳川幕府中山道整備の時、藪原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から三十六番目の宿 として新設され、明治三年(一八七〇) の宿駅制度廃止まで続いた。
天保十四年(一八四三)の本陣絵図によると、街道に接する間口十二間、奥行二十六間の敷地内に、道に面して本陣問屋を兼ねる主屋、三間離れ位置をずらして大名が休泊する客殿が別棟である。客殿に入るには薬医門 を入って主屋に隣接する庭を十二間入って式台玄関がある。十八畳の大広間の奥に上段の間や控えの間、大広間の隣は廊下を挟んで料理の間があり、整った本陣の造りである。
宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、絵図の本陣は元治二年(一八六五)の大火 で焼失したがすぐに再建された。
明治十三年(一八八〇) の明治天皇中山道巡幸の折この本陣に小休止され、明治一六年(一八八三)の大火では主屋 が焼失するが客殿部は残った。 その後生活の場として一部改造されるが、木曽十一宿中で唯一現存し、明治天皇も休まれた部屋がそのまま残る貴重な建物である。

木曽町 」
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15:40 町川用水
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15:41 脇本陣問屋跡
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【田中邸】

15:43 田中邸
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案内板
宮ノ越宿 田中邸

■田中家(旧田中邸)の概要
中山道宮ノ越宿の田中家は、宿絵図に旅籠屋田中忠右衛門と記された旅籠であったが、明治十六年(1883)の上町から下町まで九十戸を焼失する大火で焼失した。
現在の建物は、大火時に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建されたものと伝えられており、背の高い差鴨居を多用しているので、移築した建物の建築年代は幕末期と考えられる。また、入り口周りの痕跡からみると、間口四間ほどの建物の土間部分を狭くし、間口を縮めて移築したものと考えられる。現在の間口は三間四尺あるので、宿絵図に記された三間より広く、大火により町割の再編がされとことがうかがえる。建物は大きな改築をすることなく住宅として使用されてきたが、平成九年に旧日義村へ寄贈された。
田中家主屋は、間口三間四尺、奥行き八間の二階建てで、二階を三尺張り出した出梁造り(だしばりづくり)の建物であり、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい伝統的な宿場の建築様式を伝えている。
間取りは、大戸の入り口を入ると通り土間があり、片側に一列に十畳、勝手(六坪余)、十畳がある。二階には勝手にある箱階段から上がり、勝手の囲炉裏部分は吹き抜けとして、他は表から裏まで間仕切りの無い一室になっていた。
入り口の持ち送りは、波しぶきの彫もしっかりとしていて、宮ノ越大工の腕の確かさを証明している。
平成二十六年の修復復元工事にあたり、古い部材の再使用など建築当時の姿を保つよう配慮しながら、奥の縁側に階段を新設したほか、入り口の十畳は土間へ改装し、構造補強の壁を追加するなど、交流の場としての活用を目的とした改装を行った。

宮ノ越大工
江戸時代(嘉永元年)の宮ノ越村では、二七九軒のうち六二軒が大工・杣・木挽きであった。隣村である原野村にも大工が多く、彼らは棟梁を中心に七~八人で『一手合』という集団を作り、諏訪や松本などの近隣はもとより、甲州三河駿府などへ出かけ、各地の社寺や民家の建築に携わった。

民家の持ち送りに彫刻を施したものがみられるが、これらは大工棟梁から施主建築主への祝儀として贈られたものであった。

■江戸末期の田中家に関する考証
江戸末期から明治初期の作図と考えられる宮ノ越宿の宿場建物図が残されており、この図から読み解いた当時の田中家の特徴は以下のとおり。

(1)間口は三間(現在は三間四尺)。間口が狭く奥行きの長い町家建築。
(2)周辺の建物では比較的規模が大きく、庭や設備も充実しており、宮ノ越宿下町の中では中心的な旅籠であったと考えられる。
(3)中庭が特徴的で、中庭の奥に厠、湯殿が配置されている。
(4)奥に通じる直線の土間、囲炉裏、流しの位置など基本構成は現在の建物と同様であり、当時の建物利用と建築様式を良く伝えている。
(5)建物内部には壁が少なく、ほとんどが建具で仕切られていた。
おそらく二階建てであったと考えられるが、階段が記載されていないのは、当時階段は家具であったことの表れと考えられる。
おそらく、旅人は街道に面した板の間を通り、勝手にあった箱階段を利用して二階に上ったことであろう。

木曽町 」


この案内板に出てくる「持ち送り」をwikipediaで調べてみました。


持ち送り wikipediaより

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持ち送りまたはコーベル(corbel)は、壁から突き出した石などの構造物で、その上に張り出した重量を支持する。持出し、持送り積み、受け材とも。同じ構造でも木でできたものは、「梁受け (tassel)」と呼ぶ。持ち送り構造 (corbelling) は、一連の持ち送りを壁に深くかみ合わせて、張り出した壁や手摺を支持する技法で、新石器時代から使われてきた。

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連子格子が美しい家
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15:44 明治天皇御膳水
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田中家のすぐ先に井戸が復元されています。

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案内板
「 井戸の由来

この井戸は、江戸末期(一八六六年頃)町内の飲用水を得るために掘られ昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活をささえてきました。その後水道の普及により廃止されました。井戸の石積は当時のままの姿を残して降ります(道径一・一m、深さ八・〇m)。明治十三年六月(一八八〇)明治天皇中山道ご巡幸のみぎり、旧本陣にお小休みされた際この井戸水をもってお茶を献上されました。以来明治天皇御膳水と呼ばれるようになりました。現在の建物は町内の旧跡保存の熱意と村の援助により復元されたものです。

     平成七年四月  
宮ノ越 下町組 」


15:46 石仏石塔群
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15:53 宮ノ越の一里塚跡
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案内板
「 宮越 一里塚

 慶長六年(1601)、江戸幕府は江戸と各地を結ぶ五街道を整備し、宿を設置した。街道には日本橋を起点にし、一里(約四km)ことに塚(直径約九m、高さ約二m)を作らせた。一里塚 の土には榎・松・杉などが植えられた。街道の松並木と区別するため余の木を植えよと言ったのを聞き違えて榎を植えたという逸話がある。一里塚に植えられた木が旅人の距離の目安となり、木陰が休み場となった。
 宮越宿 と藪原宿 の間には木祖村吉田に、宮越宿と福島宿 の間には宮ノ越下島と福島上田の出尻の二箇所に一里塚があった。下島一里塚は道路工事で削平され形が残っていない。

平成二十七年三月 
NPO法人木曽ユネスコ協会

説明文 日義中学校三年生 山本世津子 」


16:03 第二中仙道踏切を渡りました。
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16:04 石塔
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16:06 山がきれい
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こちらの写真は、原野駅の近くから見えた雪山。木曽駒ヶ岳と思われます。


16:13 石仏石塔群
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16:14 石仏石塔群
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この付近からも山がきれいに見えます。
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16:21 原野駅
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16:46発に乗って、16:51 に木曽福島
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今夜は木曽福島に泊まります。
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今夜のご馳走。
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本日の歩数 41,504歩 30.44km



2度目の中山道16日目の1(中山道中間地点から福島宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/12/29/171713


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き15日目の4(藪原宿)

2度目の中山道15日目の4
3月25日(水)の4


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【御鷹匠役所跡と飛騨街道追分】

13:34 尾州鷹匠役所跡
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案内板
尾州鷹匠役所跡

はじめ尾州鷹匠役所は妻籠宿にあったが、伊奈川にあった鷹の飼育場も統合して享保一五年、ここ藪原に移された。
この役所は明治四年に廃止されるまで存続したが、土地の人々が『おたかじょ』と呼んでいるこの場所がその跡地である。
毎年春になると、尾張藩から鷹匠と役人が出張して来た。
鷹の巣を見つけて鷹の飼育や調教・鷹の公儀献上・巣山の管理および巡視等を、木曽代官山村家の家臣や土地の人々の手助けも得て、行なっていた。
木曽谷中に六十余あった『巣山』といわれていた御巣鷹山木曽川の上流では、味噌川にある池ノ沢・尾頭沢と笹川の押出の三ヶ所であった。
厳しい自然環境のなかに棲みつき育った当地の鷹は優秀であり、生まれた幼鷹とともに鷹狩を好む尾張藩主をはじめ、将軍家に人気があったといわれている。」

13:35 飛騨街道追分
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案内板
「 飛騨街道追分(分岐点)

藪原は中山道の宿駅として発達した。
この場所には十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山に通ずる飛騨街道(奈川道)の追分だった。
左手の細い道が旧奈川道で、小木曽地域を抜けると美濃と信濃の国境であったことから境峠といわれるようになった峠がある。
当時この峠は険しい道で、木曽側は湿地であり板橋を掛けてわたった。いっぽう、奈川側も岩石だらけの悪路で馬を使うことが困難であった。
かわりに、もっぱら尾州陸舟(おかふね)と呼ばれた奈川の牛が飛騨ぶりの魚介物や塩等の荷物の運搬に使われていた。
明治四四年に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製糸工場で働く飛騨の女工達がひんぱんに往来するようになった。 」

右へ折れて左へ折れ、跨線橋
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津島大社
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跨線橋が見えてきました。
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13:38 津島大神水
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13:38 跨線橋を渡ります。
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13:39 葛沢橋
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13:41 藪原本陣跡
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木曽氏の家臣の古畑十右衛門邸の本陣で、木曽11宿で最大の規模だったそうですが、今は「おぎのや」の駐車場になっていて、標柱がなければ昔を偲ぶものはなにもありません。

おぎのやは蕎麦屋さんで、この日は定休日で暖簾が出ていませんでした。
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米屋與左衛門(旅館)
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造り酒屋(湯川酒造店)
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水場
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13:43 防火高塀跡
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案内板
「 防火高塀跡

元禄八年七月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ツ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀を作って防火壁とした。当時、これを『高塀』と呼んでいた。宮田敏の『岨俗一隅』にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、石垣の一部のみが残されている。
消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を付けるとか火除け広場を確保するなどしている。
この藪原宿のような防火高土壁によるのは少ない例である。 」

13:43 街道にぎわい水車
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燕型屋号看板(おおぜにや)
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北原製菓店
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13:45 水場
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宮川漆器
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「しんおおざかや」と「なすや」
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13:47 二又の水
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お六櫛製造 萬寿屋本店(篠原商店)
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13:49 高札場跡
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案内板
藪原宿高札場跡

江戸期になると、幕府中心の幕藩体制が確立した。その情報伝達方法として『高札場』が、都市・宿場・在郷等に設けられました。
初期には法度や掟書きなど老中交替の都度高札として出された。正徳年間以降(1711~)変更のないのはそのまま『定札』として幕末まで維持された。他に『覚』等の高札もあって時期により掲示枚数が違う。
藪原宿の高札場(御判形とも呼んでいた)は高さ二間三尺幅二間四尺の建造物で、この場所にあった。
左にくだる坂道(旧中山道)一帯を出口といって京方からの宿場入り口のあたり、ここが鍵の手(枡形)のような道になっているため人々が集まり目につき易い所だった。掲示の高札は宿場町らしく、定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主流だったと思われる。木祖村郷土館には、当宿場に掲示されていた幕末期の 定三札の一つがある。 」


13:50 右の下り坂へ
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13:52 延命地蔵
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13:54 橋を渡りました。
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藪原駅
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13:56 藪原の一里塚跡とD51
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案内板
中山道一里塚

一里塚は江戸時代 主要街道に江戸日本橋を起点として一里(約四粁米)ごとに設けた里程の塚である。
築造は慶長九年(西暦一六〇四)とされ道路の西側五間四方に高さ一丈(約三米)ほどの土を丸く盛り上げその上に榎や松を植えた。
村内の一里塚はこの藪原と吉田(江戸から六十七里 京から六十九里)の二箇所にあった。日本橋京都三条大橋を結ぶ中山道六十九次百三十五里二十三町の凡そ中程にあたり旅人の安息と利便を与えた場所である。
現在は時代の推移により、その原形は見られない。この位置を一里塚と呼びその名をとどめている。
木祖村教育委員会

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14:01 突き当たりの国道26号線を左折し、藪原架道橋(JR中央本線)を潜りました。
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14:05 藪原交差点で国道19号線に合流
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国道から木曽川を見下ろします。
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14:18 左斜めに旧道に入る。
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旧国道。草が生えています。
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14:25 国道19号線と合流
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2度目の中山道15日目の5(宮ノ越宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/08/17/115235


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003




2度目の中山道六十九次歩き15日目の3(鳥居峠)

2度目の中山道15日目の3
3月25日(水)の3


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鳥居峠の山道へ】


11:46 分岐 山道へ
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11:52 Y字を右へ
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11:53 信濃路自然遊歩道道
奈良井宿0.30km→
鳥居峠 2.01km
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石畳へ 石標 「上る 鳥居峠 下る 奈良井宿
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熊出没注意の看板
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12:01 木の橋
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12:05 展望台
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ここはわざわざ上ってみましたが、木々がこんもり繁って展望はよくないので、行かなくてよいと想いました。(写真では山がきれいに見えていますが、普通に眺めると山はほとんど見えません。少しでもきれいに山が写るように工夫しました。)

展望台から、峠路に戻ります。
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12:13 木の橋
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12:14 木の橋
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【葬沢・中の茶屋跡】

12:15 葬沢(ほうむりさわ)
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案内板
「 本沢自然探勝園(葬沢)
Honsawa Natural Park

天正十年(一五八二)二月、木曽義昌武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めたとりいとうげの古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。 」

12:16 中の茶屋
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「 中の茶屋

奈良井宿 →1.15km
For The Naraijuku

鳥居峠 ←1.16km
For The Torii Pass 」

中の茶屋の小屋の中に、このような看板があるそうですが、私は中を確認しませんでした。

看板
菊池寛恩讐の彼方に鳥居峠

 『恩讐の彼方に』の鳥居峠での場面は、静かな中に一瞬凄絶を極める
 そして ここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。
 この鳥居峠には作品として最も重要な動機が設定されているのであるが  
 思えば、その動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところも
 ないのである。 鳥居峠の貫禄というものであろう。
  鳥居峠、時に奈良井側からの峠の、あの山の背を這うようにしてゆく
 崖道は、険阻そのものであると同時に、中山道全街道を通じて
 最も深い趣をもつといっていい。
  兎も角、幾百年の歴史の道は、その風格とも併せて春秋ただ
 素晴らしいの一語につきる。 」
         

12:21 木の橋
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12:26 木の橋風ですが、多分コンクリートの橋だと思います。
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鳥居峠一里塚跡】

12:31 鳥居峠一里塚跡
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案内板
鳥居峠 一里塚

鳥居峠は標高一一九七メートル、木曽川奈良井川分水嶺である。江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と藪原(やぶはら)宿の境をなし、旅人には難所として知られていた。
戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から、御嶽を遙拝し、戦勝を祈願した。その功あって勝利を得ることができたので、峠に鳥居を建てた。以来、この峠は『鳥居峠』と呼ばれるようになったという。
一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに会同の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、鳥居峠一里塚はその面影をとどめていない。場所も、古老の話や古地図、文献などによって『ほぼ、この辺り』としたものである。

平成二十五年十月
NPO法人木曽ユネスコ協会
説明文 楢川中学校一年
宮原 瑞季


12:33 木の橋
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12:35 木の橋
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12:38 未舗装車道(旧国道)を左へ
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中部北陸自然歩道道
奈良井宿 2.0km →
JR奈良井駅 3.0km →

← 100m 鳥居峠
← 3.4km JR藪原駅


「熊出没中」の看板
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【中利茶屋跡】

中利茶屋跡
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中利茶屋跡前の句碑
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12:40 休憩所の右側の道を旧国道進行方向を見ながら斜め左へ
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鳥居峠

12:40 鳥居峠看板
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案内板
中山道鳥居峠

御岳山眺望所まで 180m
明治天皇駐蹕所石碑まで 200m
御嶽神社(御嶽遙拝所)まで 600m 」

12:43 御嶽講 明覺霊神碑
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案内板
「 御嶽講 明覺霊神碑
Monument to the Ontake-ko

御嶽を信仰する講社が建てた霊神碑。当時の御嶽信仰の盛大さが伺える。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」


12:45 景色が広がりました。この辺りが鳥居峠
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12:46 明治天皇駐蹕所碑
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案内板
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)所碑
Monument to Emperor Meiji's visit

明治13年明治天皇がこの地を巡幸されたことを記念して建設された。碑の裏面には、大正2年に木祖村長であった横澤雄次郎が建立したと記してある。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」


【峠の下り道】

12:51 遊歩道の階段を下ったら車道を右へ
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12:52 旧国道が横切る十字路に出ました。
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12:53 藪原方面への遊歩道へ(左斜め後ろに折れる)
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道標 御嶽神社(御嶽山遙拝所 470m)方面に向かいます。
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12:53 熊除けの鐘
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案内板
「 熊除けの鐘
Bear Alert

熊は臆病で、音や匂いに敏感です。
熊が歩道に出ることはまれですが、念のため、鐘を鳴らして、人間がいることを伝えましょう。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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【子産みの栃】

12:56 子産みの栃
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案内板
「 子産みの栃(トチ)
“Baby-bearing” Horse Chestnut

昔、この木の空洞に捨て子があり、子宝に恵まれな い村人が育てて幸福になった事から、この木の皮を 煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

これが子産みの栃でしょうか?11年前に来たときは、もっと「いかにも」という幹の太い、穴が空いた木があった気がしたのですが、その木は倒れてしまったのか、以前もこの木だったのを、私の記憶が勝手に木を巨大化していたのか。
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鳥居峠トチノキ群の標柱
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どの木がトチノキなのか、よくわからないので写真は撮りませんでした。この辺り、お六櫛の原材料のミネバリも植えてあるそうで、どの木がそうなのかわかりませんでした。

12:59 2つ目の熊除けの鐘
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13:00 分岐(JR藪原方面へ向かいます。)
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道標にある丸山公園に行けば、芭蕉句碑などがあったのですが、行きませんでした。

丸山公園への道標
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11年前のブログを見てみると、当時歩いた道と少し違うので、これはガイド本の違いからでしょうか。

11年前のブログより

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2009.9.8.

再び熊除けの鐘があり、鳴らして下ると、御嶽神社鳥居の前に出ます。

木曽義元が松本の小笠原氏との合戦の際、峠の頂上から御嶽山を遙拜し、戦勝を祈願したところ、見事勝利を納めたので、鳥居を寄進したということで、鳥居峠の地名由来となっています。

鳥居を下って行くと、丸山公園。御岳手洗水鉢があり、湧水は飲めます。(2009年当時)

湧水の上に、義仲硯石水井戸があります。

木曽義仲が平家追討の旗揚げで、戦勝祈願の願書をしたためた時に、墨をするのに使った石と水だそうです。

さらに下ると、森林測候所跡地に休憩所とトイレがあります。

つづら折りを下ると、緩やかな下りの石畳になります。

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11年前に見た湧き水も、義仲硯石水井戸も今回は見ませんでした。


御嶽神社

御嶽神社
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案内板
御嶽神社
Ontakejinja shrine

北から木曽路へ入り、初めて御嶽山を望むことのできる場所として御嶽神社(御嶽遙拝所)がある。神社の境内には御嶽を信仰する講社の人々が建立した石碑、石仏、石塔がある。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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案内書き
「 駅長おすすめ
中山道69次『藪原宿

浮世絵中山道69次の作者の一人、渓斎英泉の作。浮世絵は御嶽山が見える鳥居峠で休憩する旅人がモデル。松の横には木曽義仲の硯水(すずりみず)の松尾芭蕉句碑があり、このあたりを版画にしたもの。 」

下り道
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13:13 供養塔
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かなりガンガン下りました。


13:15 未舗装車道を横断
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13:15 熊除けの鐘
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13:16 鳥居峠の案内板
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案内板
鳥居峠 Toriitoge Pass

鳥居峠は、木祖村と旧楢川村(塩尻市)の境にある海抜一一九七メートルの峻嶺で、木曽川信濃川上流の奈良井川分水嶺をなしている。
峠路の開通は歴史が古く、和銅年間に官道『吉蘇路』として開かれた。このころ峠は『懸坂』といい、中世においては『ならい坂』あるいは『藪原峠』と呼ばれた。明応年間に木曽領主であった木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この峠から西方はるかに御嶽権現を遙拝し、戦勝を祈願したところ、霊夢によって勝利を得たことからここに鳥居を建立、それ以降は『鳥居峠』と呼ばれるようになったと言われている。
峠からの眺望は非常によく、西に霊峰御嶽山、南に駒ヶ岳雄峰が眺められる。中山道の道筋に当たる峠路は新緑紅葉ともに美しく、トレッキングコースとして最適で、昭和四十六年長野県より『信濃路自然歩道』、平成七年環境省と県より『中部北陸資源歩道』として指定されている。また、平成二十八年には『木祖村史跡 鳥居峠』『鳥居峠トチノキ群』が日本遺産の構成文化財に認定された。

平成三十年三月 木祖村

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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案内板
「 おねがい

木祖村ヒメギフチョウは、村の天然記念物として保護しています。ヒメギフチョウ及びウスバサイシン、吸蜜植物のカタクリ等 採らないでください。
(天然記念物は文化財であり、採取すると刑罰法令に触れる場合があります。)

木祖村教育委員会
木曽警察署

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

石畳の道
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13:20 杖置き場
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杖置き場の後ろの案内板
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石畳の道
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13:24 車道を横断して、消防署近くのトイレをお借りしました。
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オレンジの服の人(消防署員さん)が走っていました。


13:30 天降社
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木祖村blogより

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木祖村史跡 木祖村天降社

薮原宿の北端にある。境内には石碑と祠があり、祠は拝殿神明造りである。境内に石碑があり「天降太神・津島太神・蚕玉太神」と刻まれている。大正4年の建立。

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木曽観光サイトより

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【 天降社のオオモミジ(木祖村天然記念物)】

この木は村内藪原地区 原町地域の青年の家のすぐ隣にある天降社境内の一画にあります。この神社の森は古来「大神宮の森」と称し、楓(かえでの老木が群生し、街道筋に当たるため有名であったといわれています。現在は森という観には乏しいですが・・県内には楓(かえで)の巨木はあまり多く見られないといわれていますが、この楓は村内唯一の巨木であります。(樹高約14m・目通り幹周囲2.45m・枝張り約10m)道路沿いにただ一本、樹幹に注連縄(しめなわ)が張られていて、その姿はいっそう重々しく、また紅葉の時期は見事です。村では昭和52年7月1日に木祖村天然記念物として指定されました。

木祖村誌編纂委員会発行 『木祖村誌』より抜粋)

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13:31 原町清水
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案内板
「 原町清水

この水は峠を越える旅人が喉をうるおしたもので今も飲み水として使用されています。 」


2度目の中山道15日目の4(藪原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/22/173805


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003