紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き16日目の2(木曽福島宿)

二度目の中山道16日目の2
7月26日(木)の2


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【福島関所跡】

10:19 木曽福島の大冠木門
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10:21 木曽福島関所跡
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文化遺産オンラインより

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福島関跡

福島関跡は、木曾谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曾川に迫る突端の根の井山(関山)麓の崖上に所在する。明治以降の文献資料や写真等を総合すると、国道の改修、JR中央線の開通や宅地化により、その面影はほとんど失われている。しかし、のこされている各種の文献資料や数点の古絵図を現地を照合することにより、福島町全体の旧町並道路とともに関所の敷地であった狭長な平坦部分は、今日なおほぼ原形を遺存しているとみることができる。
 関所内の番所・門・塀・棚等の間数を正確に記す寛文8年(1668)頃の古絵図等を手がかりに、2次にわたり発掘調査を実施した。その結果、番所前の石列、番所から東西にのびた塀の礎石、西門周辺部の石列等を検出し、これらによって番所敷地及び諸施設の配置を確認することができた。しかも、この西門の位置は、福島宿本陣会所角から「百九十一間」の距離があったという信ずべき資料とも一致する。また、現在国道から西門跡へのぼる急坂な小道は、福島関を通過する旧中山道の面影をのこしている。
 福島関は、その創設年次は明らかでないが、関ヶ原役後いわゆる五街道の整備とともに幕府の木曾谷防衛の関門として東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とならぶ重要な関所であった。その位置が京都と江戸のほぼ中間にあること、しかも木曾谷の流域中両岸が最も狭い地形であることなどを考えると、幕府がこの地に福島関を設けた意図も十分推測されよう。
 江戸幕府の交通政策史上における遺構として極めて重要なものとして、旧中山道に接する家中屋敷部分を含め関所跡として指定する。

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10:25 高瀬資料館
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木曽おんたけ観光局より

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関所資料館のすぐ隣りにある高瀬資料館は、江戸時代の侍で、薬「奇応丸」を製造していた武士の家であり、文豪・島崎藤村の姉が嫁ぎ、小説「家」のモデルとなった旧家です。
写真や手紙など藤村関係の資料の他、薬の製造に使った道具や先祖の鎧や鉄砲などを展示しております。
現在もご子孫がこの家に住みながら、お客様をお迎えしております。お気軽にお立ち寄りください。

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地蔵堂
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【福島宿の町並み】

酒屋さん
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10:34 左折の入口
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曲がると急な上り坂
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高札場跡
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水場
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10:38 上の段の町並み
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案内板
「 古い町並みが残る上の段

 古い町並みが残るこの竹を上の段という。
 宿場 は江戸幕府の命により防塞の施設としても作られており、敵の進入を阻むため道を『鍵の手』に折り曲げたり、急な坂道や道の両側に石垣を作ったり、いわゆる『桝形』を設けており、この地区にはその地形がそのまま残っている。
 また上の段は、木曽義仲 から十九代目の木曽義昌 の居城『上之段城』があったところで、その郭内として多くの道筋が通っており、由緒ある小路名が残っている。

上の段と晴明社

 上の段区の晴明社は、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明(921~1005)を祀ったもので、安永五年(1776)に同地区にある大通り寺内に祀られ、明治五年になって町内にある水無神社に遷されていたものを、晴明没後千年にあたる平成十六年に氏子の上の段区民によって現在の地に祀られた。
 社殿は一間社流れ造りで、正面に掲げられた『晴明霊神』の額は十一代木曽代官山村良煕 の書であり、小さいながらも獅子・像鼻・波・龍・雲・松・竹の彫刻が施された立派な造りは一見の価値がある。
御神体は上の段に宿泊した山伏が持ち込んだ幣束とされ、これをこの地の神にせよと言って置いていったものと伝えられる。上の段区では旧暦の八月十五日(九月の十五夜)に祭礼が行われる。
 同じく当町黒川地区にも安倍晴明にまつわる『清博士』という地名があり、二基の宝篋印塔がある。この地区でも晴明様と呼んで正月には松のかわりに柳を飾るなど独特の風習を伝えている。 」


まつり開館 冬季休館中 トイレは借りられます。
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鍵の手
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下り坂
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井戸
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木曽福島駅への登り坂
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10:52 木曽福島駅 トイレを借りました。
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右下へ
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御嶽神社
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突き当たり、木曽町役場を右から回り込む
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二度目の中山道16日目の3(木曽福島宿から上松宿までの道)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/12/31/005555


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003