紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き16日目の3(木曽福島宿から上松宿)

二度目の中山道16日目の3
8月26日(木)の3

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【塩渕】

坂を下ります。
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坂を下りきると、「ここは塩渕」
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塩渕地名由来解説
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案内板
「 ここは塩渕(しおのぶち)です

天正十二年(一五八四)の木曽義昌朱印状には、『上塩渕』、『塩渕中屋』、『塩渕彦三郎』の名がでてくる。
享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には『家数拾四軒塩渕』とある。
シオという地名はかわの曲流部につけられることが多く塩渕の木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあっている。
又、塩渕には次のような言い伝えが残っている。
昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところその馬が、木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついたと伝えられている。

木曽福島町史より 」


塩渕の一里塚跡
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石仏石塔群
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案内板
「ここを上った所に
廿三夜様・勢至大菩薩
新田記念・堤防記念
塩渕開発記念
の石碑があります。 」

県道に合流
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左斜めに上がります。
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道祖神馬頭観音
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【中平】

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案内板
「 ここは中平(なかだいら)です

元禄七年(一六九四)の『岩郷村御役木惣百姓中ヨリ出ス高之覚』には、中平は『長吉・長兵衛』の二人の名がでているが、享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には、中平の部落名はでてこない。明治十一年の『福島村誌』には『(川渕橋)同上、中平里に在り、里中の用水の下流に在り、川渕一名中平と云う。長四尺幅二間二尺』とあり中平が川渕の一部であったと考えられる。天保九年(一八三八)の『木曽巡行記』には『中平は木櫛挽き売る』とありここには立場茶屋がおかれ木櫛を売っていた。
川渕(かわぶち) 現在の中平から塩渕までの木曽川べり(関西電力塩渕えん堤付近)に集落があったことが考えられる。享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には『家数五軒川渕』とあり寛保二年(一七四二)の『福島村、岩郷村地図』には田沢の対岸に川渕とあるが、明治七年(一八七四)の『岩郷村地図』には川渕は載っていない。
木曽福島町史 」


中山道案内
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津島神社
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案内板
「左側に津島様を祀った祠があります。」

写真に撮って引き伸ばしてみても、どこに祠があるか分かりませんでした。


斜め左へ
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国道19号線を潜りました。
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ガイド本には「廃線トンネルを通る」とありましたが、パスして、階段を上りました。
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11年前は廃線トンネルを通りました。11年前に撮った写真です。
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国道19号線を暫く歩きました。
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元橋交差点で左側に渡りました。
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左折して線路を潜って、右折しました。
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石仏石塔群
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道側を向いていないのは、もしかしたら御嶽山を向いているのかな?


【御嶽遙拝所】


御嶽山遥拝所
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案内板
「 御嶽遥拝所

木曽の路筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠の外はこの地だけで有る。遥に王滝川の渓谷を通して仰ぐ御嶽の雄姿は其の信仰心をそそった事で有ろう。遙拝のため、鳥居が建設された此の鳥居は寛永九年壬申毀損の記録が有るから相当古くから有ったものと思われる。此の遙拝所は御嶽山四方遙拝所の一つで、北は長峰峠、西は三浦山、東は鳥居峠、此の神戸のものが南方からの遙拝所で有る。
寛永二年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。
文政四年七月金剛院頼明によって石の華表に建替えらた。石柱周囲五尺五寸、高さ三間で有る。壇内二畝二十六歩で有る。
(木曽福島町史より抜粋)

木曽福島町町制百周年記念事業の助成を得て、石段、案内板、ベンチ、鳥居額縁を整備したもので有る。

木曽福島町下条区 」

今は木が繁って御嶽山は見えないそうです。

御嶽遙拝所からは見えなかった御嶽山が、6分降りてきたら見えました。
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さらに6分坂を下り、右折して線路を潜り、ITANOのあるところで国道と合流。左折して国道を歩きます。
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真ん中の坂を上がります。
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Y字路を右へ。
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線路脇の草道へ入りますが、この草地に座って持参のパンで朝食を取りました。
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12:16~12:27 休憩しました。

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舗装道に出ましたが、沓掛馬頭観音堂を見るために、先の草道に入りました。
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沓掛馬頭観音
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案内板
「 沓掛馬頭観音
Kutsukake Batokannon

霊験あらたかで有名なこの馬頭観音 の縁起によれば、昔、木曽義仲 公の名馬は、人の言葉がわかりました。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「七十三間とべ」と号令をかけました。馬は命ぜられるまま正確に七十三間とびましたが、実際は七十四間あったので人馬ともに河中へ転落してしまいました。義仲は九死に一生を得て助かりましたが、かわいそうに名馬はなくなりました。そこで、義仲は金の観音像を作らせて一堂を立てて馬の菩提を弔ったといいます。それがこの観音堂のいわれです。
以前は、もう少し南の観音坂にありましたが、明治四十三年の鉄道工事の折に、現在地一里塚の上に移築されました。 」

戻って、国道に向かって急坂を下りました。
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【沓掛一里塚跡】


沓掛一里塚跡碑
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案内板
「 沓掛一里塚
Kutsukake-ichirizuka
上松町史跡指定…

この 一里塚は上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治四十三年(一九一〇年)中覆う本線の鉄道敷設工事の折に、山側(西側)の一基は取り壊され川側(東側)の一基が残っています。上松で原型をとどめているのは、この一基だけで貴重な存在です。
 この一里塚の位置は
 京へ六十六里
 江戸より七十一里です。 」


国道に合流。国道なのに全く車が通っていないので、私が山にいる間に世間はロックダウンしてしまったか?なんて錯覚しそうでしたが、多分バイパスが出来てみんなバイパスを通るので、国道は閑散としているのでしょう。
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【木曽の棧】

木曽川がきれい。
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赤橋が見えます。
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木曽棧(きそのかけはし)を赤橋から見ました。
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木曽の棧は、川を対岸に渡るための橋ではなく、崖に補強して通れるようにした、崖にへばりついた道。今は立派なコンクリート補強で、大型トラックもビュンビュン通っています。

木曽の棧はコンクリートで補強工事が施される以前は、日本三奇橋のひとつに数えられていました。

昔の木曽の棧
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13:12 迂回路入口
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11年前に中山道を歩いたとき、この近辺は国道はトラックがビュンビュン通っているのに歩道がなく、歩くのかとても怖い場所でした。

でも、迂回路が出来て、歩きやすくなりました。

バイパスの橋が見えました。後にここを渡ります。
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ながさか地下横断歩道に入ります。
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さっきのバイパスの橋を渡って、迂回路を左へ。
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裏道(迂回路)。山がきれい。
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おにぶちばし。隣は鬼淵鉄橋。昔ここに木曽森林鉄道が通っていたそうです。
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案内板
木曽森林鉄道と鬼淵鉄橋
Kiso forest train & Onibuchi railway bridge

大正時代になって、日本の鉄橋(トラス橋)は鋼材や製作が全て日本の技術で作ることができるようになりました。木曽森林鉄道 の鬼淵鉄橋は現存する国産最古のトラス橋だといわれています。
大正三年、宮内省土木技師三根奇能夫 の設計で大阪の横河橋梁製作が作った鬼淵鉄橋は、全長九十三・八メートル。完成から昭和五十年まで森林鉄道の鉄橋として使われてきました。
各地で森林鉄道は相次いで廃止されましたが、木曽森林鉄道は日本で最後まで運行され、この鬼淵鉄橋の上でフィナーレが行われました。
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写真)鬼淵鉄橋を走る森林鉄道ホールドウィン蒸気機関車

森林鉄道の軌道跡の橋
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中央線を潜りました。
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十王橋交差点
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上松宿北入口
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案内板
中山道上松宿北入口

○上松宿高札場跡
高札場は、幕府や領主が木目田法度(はっと)や御定書(おさだめがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲示した施設で、主要な街道の交差点や村の入り口など、人通りの多い場所に設置されていました。
上松宿では宿場の入り口(江戸側)である十王橋の橋詰山手にありました。

○十王橋のいわれ
宿場の北側を流れているこの川は、昔は小野川と呼ばれていましたが、宿場側の橋詰に十王堂が建てられてからは十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになって現代に伝わっているものです。

地蔵尊馬頭観音
この地にある地蔵尊は十王堂に祀られていたもので、慶応三年五月(一八六七年)の大洪水で十王堂とともに流出しましたが、それから七五年後の春のお彼岸に河川の石の間から発見されてからは、対岸の山腹にあった馬頭観音とともに祀られてきたと伝えられています。
国道バイパス工事(平成十年完成)に伴う新道の敷設と橋の架け替えのため現在地に移転し、地域の人たちがお世話をしています。 」

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十王堂石仏群(石仏群の裏が高札場跡だったそうです)
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トイレをお借りしました。
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トイレの隣の塚本歯科医院が、本陣跡だそうです。
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道祖神と水速女命(本陣跡の前にあります)
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脇本陣跡(問屋・庄屋を兼ねていたそうです)
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本町一里塚跡
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案内板
「 本町一里塚跡
Honmachi Ichiri-zuka

江戸時代には、本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右の二基の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)。
一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。この一里塚の位置は
京へ六十五里
江戸より七十二里です。
残念ながら現存しません。 」

11年前に泊まった田政旅館
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14:01 上松駅
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本日の歩数 26,465歩 19.41km

今日は明日のために、中津川に泊まります。


二度目の中山道17日目(上松宿から)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/03/232515



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003