紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の1(南木曽駅から妻籠宿への道)

二度目の中山道19日目の1
2020年1月7日(火)の1


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南木曽SL公園】

夕べ遅く、塩尻塩尻駅前のビジネスホテルに泊まりました。

5:00 起床

6:00 パンとコーヒーの簡単な朝食

6:51塩尻発中津川行きに乗る

8:51 南木曽
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トイレ コンタクトを入れる。

8:37 歩き始める。

8:44 SL公園

ベンチの前にスマホ台があったので、タイマーで写真撮る。
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こちらは、後日(8月)に娘と二人で木曽路旅をした時に描いた絵です。
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案内板
「 SL公園 機関車

D51351機関車は昭和15年3月から30有余年の長い間日本海沿いに、或いは中央西線木曽谷沿いに走り続けて地域の産業経済文化等の発展に多大な貢献をして来ましたが、国鉄の近代化(電化)に伴って廃車となりました。
この馴染み深い『デゴイチ』を学校教育に役立てるため、昭和49年5月に国鉄から貸与を受けてこの中央線の旧線上に展示したものです。 」

暫しD51を眺める。
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10年前に来たときは秋で、道にも落ち葉がたくさん積もっていました。

この公園に、小さな子どもとお母さんの二人連れがいたなあ。


【石仏 神明神社

8 :50 石仏
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中山道を歩いていると、しょっちゅう石仏に出会います。

中学生の頃、祖母の家にあった写真雑誌「太陽」を見て、いつか石仏を訪ねる旅をしてみたいと思っていましたが、中山道を歩くとその夢は叶います。

道の脇を水が流れ、せせらぎの音が心地よい道。今日は水が豊富な地域を歩きました。

8:53 中山道は左上の上り坂を行きます。
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8:58 神明神社
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神戸村の鎮守、慶応3年の「ええじゃないか」騒動に降ってきた御札を祭ったという謂われがあります。

【かぶと観音 袖振り松水舟】

8:58 かぶと観音
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10年前にここに来たこと、すごく覚えている。

案内板
南木曽町史跡かぶと観音

かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲 が、以仁王源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承四年(一八O)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷
の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を伺ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒した『袖振りの松』や、義仲が腰掛けたという『腰掛』が残されています。
そうした伝承故か、かぶと観音は古くから、木曽にゆかりの武将たちに手厚く保護されてきました。戦国末期の天正一五年(一五八七)には木曽義昌から三百文が寄進され、同一七年(一五八九)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されましした。江戸時代中期の宝暦七年(一七五七)に書かれた『吉蘇志略』には『俗に神戸観音と日み、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ』と記されているように一般庶民からも尊崇を受け、堂内には正保四年(一六四七)の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。幕末の弘化四年(一八四七)の『観音堂勧化帳』によれば、堂舎の改修に際してその寄進の範囲は、木曽谷中はいうに及ばず、木曽家旧臣が領する東美濃の各村にまで及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。
観音堂は、間口二間半、奥行き四間、入母屋造りの建物で、西側面には二間四方の庵室が設けられ、ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。
堂舎の建築年代は内陣・外陣境の虹梁や絵様墓股の様式から、貞享・元禄期(一六八四~一七〇三)と推定され、中の厨子も正徳五年(一七一五)頃のものと思われます。また格天井の絵は、上松町東野の阿弥陀堂と同じく、山村代官お抱え絵師 池井裕川が描いたものと考えられます。
このようにかぶと観音は、木曽義仲伝説の重要な地であり、堂舎も木曽の中では 古く貴重なものなので、南木曽町教育委員会では堂舎と境内を含めて平成六年1十月一日町史跡に指定し、平成九年度には半解体保存修理工事を
実施しました。 」

袖振り松の水舟
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案内板
「『 袖振りの松』の水舟

木曽義仲 が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前 が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、松くい虫の被害により平成二十一年に伐採されました。
この松は、地域の皆さんにより、長さ約七m という通常の倍以上の大きさがある水舟に生まれ変わり、巴御前の勇ましさを伝えるのにふさわしいものとなりました。 」

お堂の前にハート形の茅の輪くぐり
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水車も村の風景も
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この風景、時々夢に見る風景だ。私の好きな原風景なのかなあ。

写真の右側の小屋はトイレです。

10年前はあのトイレを借りて、流せるティッシュの必要性を感じて、旅にはいつも流せるティッシュを持って行ったなあ。(最近は忘れてました)


【古い石標など】

9:03 古い石標
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9:04 源臣光照院塚大明神 碑
謂われは分からりません。
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9:08 せん澤道標
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9:10 作品を見せる家
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今までこういう家を見ると、何かの工房、アトリエ、アート教室?と思って看板を探してみるのですが、何も分からないことが多く、多分、自分の作品を道を行く旅人に見てほしい、という個人的な思いで展示しているのかなあと。


【上久保の一里塚跡】


9:11 上久保の一里塚跡
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kisoji.com.「南木曽町の史跡」より

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史跡内容・保存状態
道の両側にある。盛り土で比較的原型をよくとどめている。5間4方、高さ1丈(3m)。塚の上に昭和45年建立の一里塚の碑が立ち、枝垂桜、松の木が一本それぞれに生えている。

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案内板
「 上久保の一里塚(町史跡)
The Milestone of Uwakubo

一里塚 は、慶長九年(1604)から一七年(1612)にかけて、一里(約四粁)ごとに築造されたものである。一里塚の基準は、五間四方(約九米)、高さ一丈(約三米)で、塚上に榎や松を植えた。街道の両側に対に築造され、旅人に安息と利便を与えた。
町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四ヵ所に一里塚があったが、現在原形をとどめているのはここだけである。江戸から数えて七十八里目の塚である。 」

道の両側、二つの塚を一緒に撮るのは難しいけれど、頑張って撮りました。
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良寛碑】

9:12 良寛
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案内板
良寛

木曽路にて
この暮れの
もの恋しさに
わかくさの
妻呼びたてて
小牡鹿鳴くも


この歌は手まり
上人と言われた
良寛木曽路
を通った折に
詠まれた二首の
内の一首です。 」

碑面 
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「 幾そち耳天
この久礼乃 毛の可奈之起耳 和可久さの
川まよひ堂てて さ遠志可奈久毛 」

読み

木曽路にて
この暮の もの悲しきに 若草の
妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」

脇碑
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「 此ノ碑ハ良寛ノ心ガ益々高揚サレマスコトヲ念ジ 加納陽治氏ノ御尽力 木原ゆ紀氏ノ土地ノ提供 中村渓男氏所蔵書使用ノ快諾ニヨッテ建設サレタモノデス
  昭和六十年四月吉日
         撰文 川口霽亭」


案内板に、「 良寛木曽路を通った折に
詠まれた二首の内の一首です。」
とあるので、そのもうひとつの良寛の歌は?

良寛さまのゆかり」というサイトに紹介されていました。

碑面
「 きそち耳て
さむしろ耳ころ毛可多志きぬ者多まの
さよふけ可多能月をみる可毛」

読み 
木曽路にて
さむしろに衣かたしきぬばたまの
さ夜ふけ方の月を見るかも」

碑陰
「この碑は ここ古典庵の旧跡が観月の名所(木曽八景の一つ)であることから 良寛さまが詠んだこの地の歌を平成二年度から実施した 中山間地域農村活性化総合整備事業の公園づくりを機に建立したものである
 建設協力者 良寛書所蔵者 
中村渓男(逗子市)
   平成七年三月吉日
       南木曽町長 楯 種臣
   与川地区中山間地域活性化協議会
   碑稿書 川口霽亭(名古屋市

案内板 
木曽路にて
さむしろに 衣かたしき ぬばたまの
  さ夜ふけ方の 月を見るかも

この歌は てまり上人といわれた 良寛木曽路を通った折 詠まれた
2首のうちのひとつで その時期は 次の3つの場合のいずれかと思われる

1.師の国仙和尚に随って善光寺方面を巡錫した時で 天明4年(1784)
  27歳頃
2.備中玉島にある円通寺での修行を終えて 越後に帰る時で 寛政7年
  (1795)38歳頃
3.飛騨高山の大隆寺の僧宗龍禅師を参訪した時で 良寛20代後半か

場所 長野県木曽郡南木曽町読書与川
古典庵跡 」


【蛇石道標】

9:13 中北道標と古い石標
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9:20 蛇石道標
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kisoji.com.「南木曽町の史跡」より

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中山道沿いの青木初恵氏宅前にある。蛇石の数100m手前。昭和45年建立で、表面には「中山道・右つまこ宿・蛇石・左新道・下り旧道」と刻まれている。ここから中山道は東側の細い道に入っていく。
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この辺りで、5〜6人の欧米の方達とすれ違いました。今日すれ違った外国の方たちは皆さん欧米からいらした方たちで、「こんにちは」と声をかけるようにしていました。

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案内板
妻籠宿 郷土環境保全地域

この地域は、中山道妻籠宿周辺一体の歴史的自然環境を守るために指定されたものです。
南木曽町の林家住宅、藤原家住宅、妻籠のギンモクセイなどは、県の文化財に指定されています。
優れた文化財と一体となったこの自然環境をいつまでも大切に守り育てましょう。」


妻籠宿城趾入り口】

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9:25 三叉路

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案内板

妻籠城址(県史跡)

妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が籠って、徳川家康の配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和二年(一六一六)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀(からぼり)・帯曲輪(おびくるわ)、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁(さいのかみどるい)という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。 」

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三叉路の、右の道を上ると妻籠城址、真ん中の道を下ると妻籠宿です。


二度目の中山道19日目の2(妻籠宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/09/204048


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003