紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の2(妻籠宿)

二度目の中山道19日目の2
1月7日(火)の2


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妻籠宿入り口の民宿大吉】


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写真の三叉路で、どっちに進むのか暫し迷いました。真ん中を進みます。

9:38 御宿大吉
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御宿大吉ホームページより

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信州木曽・妻籠宿。その 宿場街のにぎわいからほんの少し離れた街道筋に御宿 大吉はあります。通りから見ると平屋と見まがうそのたたずまいは、木曽には多く見られるかけや造りの二階建て。格子窓、くぐり戸、吊り灯籠、軒行灯、飾り棚…伝統とモダンが調和する木の温もりと、お客様をお迎えする温かな心づかいが、旅のひとときをより一層お引き立て致します。

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【鯉ヶ岩】

9:39 鯉ヶ岩
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案内板
「 鯉ヶ岩の由来

昔当地(妻篭)城山に木曽義仲の後裔義昌が砦を築いていた其頃武将が此の岩の附近で恋の物語をさヽやきたりと云ふ伝説あり其後部落の地名も恋野となり現在も其の儘残っている中仙道筋の旅人を驚かせたり悦ばしたりしている 信濃道中記
鯉ヶ岩は名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが明治廿四年美濃の大震災で移動したヽめ形が変わった附近の烏帽子岩(吾妻公園地区)兜岩(神戸地区)と共に三大違和として有名である

鯉ヶ岩津島社八十一年祭に当り祠再建
昭和四十年八月四日
林 常盤 建之
雲外書 」

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案内書(紙のビラ)
「 恋岩は妻籠の北外れにあり、形が魚の鯉の形に似ていることから鯉岩と呼ばれ中仙道開設以来街道を旅する人々の目を楽しませています。
伝説によると、昔はこの辺りは川でこの岩は土石流で流されてきたとの事です。
明治二十四年の濃尾大地震で山側に倒れ、現在の姿になりましたが文化二年刊の『木曽路名所図絵』には、元の姿が描かれています。左の絵がそのコピーです。
左端で岩の説明をしている人、説明を聞きながら岩を眺めている人等、往時を偲びながら眺めて下さい。川を渡り横から眺めると鯉の頭と口が想像できると思います。尚、妻籠城跡はこの先五百メートル程行った所の山の上にあります。」
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nagareki.comより

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鯉ヶ岩(妻籠宿)概要: 「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれる大岩で妻籠宿の北端に位置しています。鯉岩と呼ばれるのはどうも江戸時代以降の事で、それ以前はこいはこいでも、木曽義昌木曽義仲の後裔)の家臣がこの岩付近で恋物語をささやいたという伝説などから、こちらの「恋」の方が一般的で地名の恋野の由来にもなっています。 木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていた程でした。名所絵図は文字通り、各地の名所を見た人が判りやすいようにに多くの挿絵が描かれ、現在でいうガイドマップのようなもので、木曽路名所図会は文章を秋里籬島、挿絵を西村中和が担当しています。木曽路名所絵図では鯉ヶ岩の挿絵が1ページ丸まる描かれ、説明として「鯉巖 妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」と記載されています。
「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれようになったのは江戸時代以降岩の形状が鯉が飛び跳ねている様子から鯉ヶ岩と呼ばれるようになったとされますが、明治24年(1891)の濃尾大地震震源岐阜県本巣郡西根尾村、現在の本巣市、規模はマグニチュード8.4又は8.0)により鯉の頭部分が滑落し現在の様な形状(高さ約5.6m、幅約6m)になりました。鯉ヶ岩は木曽路の名勝として貴重で歴史的な経緯や景観が評価された事から昭和51年(1976)に南木曽町指定名勝に指定されています。

木曽義仲伝説: 平安時代末期、木曽源氏の棟梁である木曽義仲が京都上洛の際、愛妾鞆絵御前(巴御前)とこの大岩の前で別れを惜しんだ事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

鎌倉武将伝説: 鎌倉時代、1人の武将が合戦に赴く際、この岩の前で許婚と「戦が終わるまで、この岩の下で待っていて欲しい。もし、生きて帰ってこれたら祝言を挙げよう。」と語り熱い抱擁をして別れを告げました。合戦は見事勝利し大功を挙げた武将は、この岩で再び許婚と再会を果たし、 2人は結婚し幸せとなりました。この伝説から、何時しかこの大岩を「恋岩」と呼ぶようになったと伝えられています。

妻籠城の武将伝説: 戦国時代、木曽義仲の後裔とされる木曽義昌妻籠城を築き、徳川方の大軍が攻めかかろうとした際、城方の1人の武将が、この大岩の下に意中の女性を誘い、恋物語を聞かせて口説いていた事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

石工伝説: ある石工が、この大岩から石材を切り出そうとし、ノミを入れようとしたところ、岩の精霊のものと思われる声が岩の中からしたので、石工は怖くなり逃げ出した事から、何時しか「声岩」と呼ばれるようになったと伝えられています

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【熊谷家住宅】


9:39 熊谷家住宅
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案内板
南木曽町有形文化財 熊谷家住宅
この建物は、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物がとり壊され建て替えられたことから、長屋 の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。昭和四十八年に町で買上げ、解体復元された。

昭和五十一年十二月二十二日
南木曽町教育委員会

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南木曽観光協会ホームページより

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熊谷家住宅

 この建物は19世紀初頭に建てられた長屋の一部ですが、左右の建物が取り壊され立て替えられたことから長屋の右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されてきたものです。
 こうした例は建築学上珍しく、貴重な建物です。昭和48年に町で買い上げ解体復原され、一般に公開されています(町指定有形文化財)。

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nagareki.comより

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旧熊谷家住宅(妻籠宿)概要: 旧熊谷家住宅は妻籠宿の北端に位置し、近くにには口留番所跡や鯉岩があります。案内板によると「 この建物は19世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが左右の建物が取り壊され建て替えられたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。昭和48年に町で買上げ解体復元された。 南木曽町教育委員会 」とあります。
旧熊谷家住宅(長野県木曽郡南木曽町)は江戸時代後期の19世紀初頭(1800年代初頭)妻籠宿(木曽路)・熊谷家住宅に二軒長屋として建てられた遺構で、左右の区画が解体され、残された3間半分を改めて1戸の住宅として改変されています。その為、元々の長屋だった間取りとは左右が逆で、右側の居住区の右半分と、左側の居住区の左半分を合わせて1軒分の住宅として改めて修築されたようでこのような形態を保持している古民家は珍しく貴重なものとされます。熊谷家住宅は木造平屋建、切妻、平入、鉄板葺、外壁は真壁造り板張、桁行3間半 ( 6.37m)、梁間6間半(11.83m)、内部は正面向って左側が板の間が3部屋続き、右側が土間、その奥が畳敷き8帖の部屋が配されています。一般の民家ということもあり派手な意匠は少なく軒が低いなど当時の形態を色濃く残しています。

同じ妻籠宿に残され江戸時代中期の三軒長屋を改築した下嵯峨屋や本賃宿だった上嵯峨屋と比べると、特徴がよく判ります。まず、建物の間口は熊谷家住宅が桁行3間半(約6.37m)なのに対し下嵯峨屋は桁行3間(約5.46m)、これは二軒長屋より三軒長屋の方がより1区画が狭小だった事が窺え、上嵯峨屋の間口が桁行3間半(約6.37m)だった事を見ると、妻籠宿では当初の一般庶民住宅の町割は3間半が1つの基準だったのかも知れません。

又、間取りにも大きな違いがあり、一般的な町屋建築では正面の道路から敷地背後を結ぶ「通り庭」と呼ばれる土間の通路があり、下嵯峨屋や上嵯峨屋では見られるものの、時代の下がった熊谷家住宅には見る事が出来ません。「通り庭」の名残の土間が残されている為、長屋から戸建てに改築された際に改変されたと思われます。又、
建物背後に風呂や雪隠を主屋に取り込んでいるのも時代の流れを感じさせます。熊谷家住宅の間取りは向って左側は正面から板の間4畳、板の間8畳(囲炉裏付)、妻籠宿(木曽路)・熊谷家住宅板の間4畳、右側は正面から土間、土間と板間、畳の間8畳(押入れ付)、主屋背後には風呂、廊下、雪隠とあり、下嵯峨屋と比べると遥かに暮らし易くなっています(元々は下嵯峨屋と同様な並列二間取りの長屋だったと思われますが改築された際、近代的な生活出来るように改変さえたと思われます)。

旧熊谷家住宅は妻籠宿に建てられた江戸時代後期の町屋建築の遺構として貴重な存在で妻籠宿の町並み景観に大きく寄与している事から、昭和48年(1973)に南木曽町が買取り、解体復元が行われ、昭和51年(1976)に南木曽町指定有形文化財に指定されています。又、妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。現在、熊谷家住宅はは南木曽町が所有し内部は一般公開され当時の生活用品などが展示され見学できます。

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妻籠口留番所之跡と高札場跡】

9: 45 妻籠口留番所之跡
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案内板
「 口留番所

江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。
従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された 正保三年(一六四六)と推定される史料に、『妻子(隠)御関所』と記されていることから、少なくとも一七世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。
なお妻籠には、下り谷その後一石栃(いちこくとち)に、木材を取り締ることを目的とした白木改(しらきあらため)番所が、近世を通じて設置されていた。 」

nagareki.comより

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口留番所妻籠宿)概要: 口留番所妻籠宿の北端に位置し、近くには木曽路の名所として知られる鯉ヶ岩や高札場、旧熊谷家住宅などがあります。江戸時代初期に中山道を利用する旅人の人物改めや物資の搬入搬出を管理する為に妻籠宿の入口付近に設けられた番所で正保3年(1646)の資料にも「妻子御関所」の記載があります。
妻籠の地は主要街道である中山道木曽路)から大平街道(中山道妻籠宿と三州街道番所飯田宿を結ぶ街道)が分岐する交通の要衝で軍事的にも重要視されていた事から、戦国時代に築かれた妻籠城は木曽氏関係の山城の中でも最大級の規模を誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、豊臣方に転じた木曽義昌重臣山村良勝を妻籠城に配して、徳川方の軍勢をここで食い止めています。武田家が天正年中(1573~1582)に領内関所を設置した際には妻籠関所も整備されたと推定され、天正18年(1590)に木曽義昌徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されるまで機能していたと思われます。

木曽谷が犬山城(愛知県犬山市)の城主石川光吉の領内に入ると、妻籠城が木曽支配の中心となった為、関所が機能していたのかは不詳ですが、江戸時代に入ると、木曽代官となった山村氏が福島関所の関守にも就任し、妻籠関所は福島宿に置かれた福島関所の副関として機能していたと思われます(同じく副関として贄川宿贄川関所が設置されています)。慶長19年(1614)の 大坂冬の陣の際には大坂方への間者や、無断での武器の出入、大坂方の軍事行動を押える為、代官山村家は家臣である馬場半左衛門、同三郎左衛門、千村助左衛門、山村清兵衛、原十郎兵衛、千村次郎左衛門、三尾将監、原籐兵衛を関守として配しています。

一般的は元和6年(1620)に妻籠関所は 廃止となり福島関所に統合されたとされていましたが、近年発見された資料によると正保3年(1646)に「妻子御関所」の記載がある事から少なくとも17世紀半ば頃までには存在していた事が窺えます。ただし、元和元年(1615)以降、木曽谷は尾張藩領になっていた事から、妻籠関所は幕府の正式な関所ではなく、尾張藩独自の「口留番所」という扱いになっています。何れにしても江戸時代中期以降は口留番所は廃止され、少し離れた場所に白木番所を設置し江戸時代を通し、人物改めや荷物(主に木材)改めを行っていました。現在、番所跡には遺構はありませんが、街道との間に少の段差には石垣が残され、宿場側には地蔵沢(小さな川)が横切っていた事から、往来者は地蔵沢を渡り、関所を通過しなければいけない仕組みになっていたようです(迂回され「関所抜け」や「関所破り」などが横行した為、このような地形に設置されたと思われます)。

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この辺りから、郵便を配るシニア運転の軽自動車と抜きつ抜かれつ。

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9:47 高札場跡 水車
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この辺りまでは下り坂ですが、この先、妻籠宿内は比較的なだらかな道です。


妻籠と馬籠】

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今まで何度か妻籠と馬籠に行っていますが、二つの宿場の違いについて、妻籠は長野県、馬籠は岐阜県、というぐらいしか知りませんでした。

今回改めて調べてみました。

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yawamelogより

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現在、妻籠宿は長野県木曽郡南木曽町にあります。

また、馬籠宿は岐阜県中津川市にあります。

馬籠宿の方もかつては長野県にありましたが、2005年に超県合併が行われた際に岐阜県編入したそうです。


かつては、江戸と京都の街道として人々の足だった街道も時代と共に衰退の一途を辿りました。

明治時代には、新たな道路や鉄道が出来き宿場の機能を失った事も中山道の衰退に拍車をかけたと言われています。

中山道の機能失った後に訪れた昭和の経済成長の中、いち早く地域で保全活動に取り組み始めたのが妻籠宿です。

妻籠宿は全国で初めて古い町並みの保存に取り組んだ町です。

その為、古い町並の状態が現在でも形を変えずにそのままの形で残されているのです。

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妻籠宿

妻籠宿は昔の街並みがそのままの状態で保管されているところが魅力です。

馬籠宿の様に坂道ではないので、ゆったりと歩くことができます。

宿場の通りを通ると、まるで当時にタイムスリップしたかなの様な錯覚を起こすという方もいらっしゃいます。

寺下の街並みなどにはいくつか食事処もあり、街並みを見て歩くだけでも楽しいです。

当時の面影を残しているままなので地味さもありますが、再現されたものとは違う本物の街並みを味わえる所が一番の魅力です。


馬籠宿

馬籠宿は石畳の坂道にある宿場で有名です。

坂道なので若干歩くのが大変!!

水を汲みにくい場所に位置している為、当時火災が起きた時に対応ができなかったため、焼失してしまったのが大部分ですが復元をして当時の面影を残しています。

妻籠宿と比べるとお食事処やお土産屋さんも多く、妻籠宿と比べると観光地のイメージに近い活発な所です。坂道から見下ろす街並みもとても奇麗なのも魅力なので、観光を楽しみたい場合は馬籠宿もおススメです。

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yawamelogは、愛知県周辺のお得情報を更新しているサイトだそうです。

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ここに上げた写真はすべて妻籠宿の建物です。



【奥谷脇本陣跡と林家住宅】

9:51 奥谷脇本陣
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案内板
南木曽町(なぎそまち)博物館

脇本陣跡奥谷(おくや)(国重要文化財)
木曽檜をふんだんに用いて、明治
十年に建てられた豪壮な建物です。
同13年には明治天皇の御小休所(お
こやすみしょ)になりました。島崎
藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふ
さんの嫁ぎ先でもあります。
常時、係員による案内を行ってい
ます。

歴史資料館
映像や模型を駆使して、木曽の歴史
妻籠宿の保存のあゆみをわかりや
すく紹介しています。ここをご覧に
なれば、妻籠宿への理解がより一層
深まります。 」

9:51 林家住宅
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南木曽町観光協会公式ホームページより

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妻籠宿「林家住宅(はやしけじゅうたく)」国の重要文化財

平成13年6月15日付で南木曽町博物館で「脇本陣奥谷」として公開されている「林家住宅」の主屋、文庫蔵、土蔵、侍門が国の重要文化財に指定されました。

林家住宅とは
 

林家住宅は江戸時代の末から明治にかけて建設された建物で、近世の町家建築の様式をふまえています。江戸時代には厳しい山林の統制があり、ひのきなどの貴重な木材の使用は禁じられていました。木曽の人々は山のひのきを目の前にしながら、決して使用することができなかったのです。
 明治になって尾張藩の統制が終わり、林家では自分の家の山からひのき、さわらなどそれまで伐ることのできなかった大径木をふんだんに伐り出して住宅の建築用材としました。これが現在「奥谷(おくや)」 という屋号の林家住宅であり、 江戸時代には大名や公家たちが宿泊した脇本陣だったことから、南木曽町博物館の施設の名称として「脇本陣奥谷」と呼ばれています。

 
林家住宅は妻籠宿の町並み保存運動の中心的存在として町が借り上げ、昭和42年から「奥谷郷土館」として一般に公開し、以来町並み保存運動のシンボルとなりました。
 建物もさることながら、江戸時代に妻籠の庄屋を務めたことから歴史と伝統を伝える貴重な古文書や民俗資料が数多く残されています。
 明治以降の和風建築物が国の重要文化財に指定されるのは、長野県で初のことです。今回は、主屋の外観が町屋形式を残し、室内の欄間や引き手に近代の様式を用いていること、ひのきなどの良い木材をふんだんに使用し建築技術が優れていることなどが評価されました。

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9:54 明治天皇妻籠御小休止所
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【ふれあい館】

9:54 無料お休み処(ふれあい館)
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Yahoo!ロコより

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妻籠の古い町並みの中にある、桧をふんだんに使って建てられた本陣横にある無料休憩施設「ふれあい館」です。懐かしい雰囲気のが味わえる休憩所です。広い板間になっていて、靴を脱いで上がって、ゴロゴロと寝転んだり、お弁当を食べたりと、自由にくつろぐことができます。観光客が気軽に使える休憩所となっています。朝市や地元民芸品の実演販売も行われていて、こちらも人気となっています。団体利用の場合は事前に予約が必要です。

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【人馬会所】

9:55 人馬会所
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案内板
「 人馬会所(じんばかいしょ)
問屋場(とんやば)

宿場には、公用の旅客に人馬を提供するのが第一の仕事でした。妻籠宿には、本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交替で勤めました。
人馬会所には、問屋、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし)人足指(にんそくさし)などの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割振りをしました。人馬会所の道路は広く宿内で最もにこやかなところでした。 」

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【島崎本陣跡と郵便資料館】

9:55 島崎本陣跡
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案内板
妻籠宿本陣

妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から『ぬい』が馬籠の正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代の間取図を元に忠実に復原されたのが現在の建物です。 」

9:55 郵便局と郵便資料館
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案内板
妻籠郵便局と
郵便史料館

妻籠郵便局は、明治六年三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。
当時の取扱所は、本陣にありました。その後、名称も場所も変わりましたが、現在のところに移ったのは、昭和五十四年一月です。
この建物は重要伝統的建造物群ほぞんちく町並の景観にあうように出梁造り(だしばりづくり)の形式を用いて造られています。
郵便史料館はこの郵便局の中にあり、昭和六十年七月に開館しました。
ここは、明治四年新式郵便制度創業時の服装を始め、時代の移り変わりに伴う郵便関係の貴重な資料を展示してあります。
自由にご覧ください。

妻籠郵便局長 」


妻籠観光案内所とぎんもくせい】

10:03 ぎんもくせい下
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上の写真の奥の方に見えているのが、てまえがキンモクセイ、その奥がギンモクケイではなかろうかと。

以前来たとき、階段を上って見に行きましたが、その時は秋だったから白い花が咲いてきました。今はきつい階段を上っても上った甲斐がないので、見に行きませんでした。

妻籠のぎんもくせい 妻籠観光協会公式Webサイト(ブログ)より

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妻籠観光案内所横の階段を上まで上がると「ギンモクセイ」の老木があります。この木は長野県の天然記念物に指定されていますよ。開花は9月下旬から10月初旬。白くてかわいらしい小さな花が咲き、キンモクセイよりずっとさわやかな香りが楽しめますよ。開花の頃、どうぞお出かけ下さいませ。

 妻籠宿の中央付近、 観光案内所の横の階段を一番上まで上がるとギンモクセイが見られます。階段の中ほど、下から見える木はキンモクセイですので、お間違えにならないようにして下さいね。

 樹齢が定かではないこのギンモクセイ・・・枝ぶりといい苔の具合といい、かなりの老木だと言うことがわかります。

キンモクセイと同じ花で色が真っ白なんですよ。とても清楚な感じがしますね。香りも控えめでキンモクセイよりもさわやかな香り・・・ただし、近くにあるキンモクセイが咲き始めるとギンモクセイの香りが負けてしまいますので、ギンモクセイの香りだけを楽しみたいのでしたら、咲き始めにお越しになられるといいですよ。例年、ギンモクセイの方が先に咲き始めます。

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10:04 観光案内所
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「ぶらり南木曽」(南木曽町観光協会HPより)

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観光案内所

 観光案内所の建物は、明治30年に旧吾妻村警察署として建てられたものです。その後旧吾妻村役場、南木曽町役場吾妻支所として使用されていましたが、昭和54年に無料休憩所・観光案内所として修理・整備されました。現在は妻籠宿保存地区の保存会(財)妻籠を愛する会の事務所にもなっています。

(財)妻籠を愛する会では妻籠宿の案内サービスをはじめました。団体での妻籠宿見学にぜひご利用ください

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こちらは、古い建物
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【枡形】

10:05 枡形
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案内板
「保存の原点『寺下の町並み』この先50m

枡形
徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際に、外敵の侵入を少しでも遅らせるために設けた構造物です。

全国に先駆けて
町並み保存に取り組んだ妻籠宿。その保存工事が最初に行われた寺下地区は、この先です。

枡形を経て
江戸時代から明治のままに整備された町並みと、解体・復元された『下嵯峨屋(しもさがや)』『上嵯峨屋(かみさがや)』をはじめ、『まねき』『延命地蔵堂』『厩(うまや)』等が見られます。 」


「まねき」とは? 妻籠観光協会ホームページより

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寺下の旅館「松代屋」の屋根と庇の間に看板が並んでいるのを見る事ができます。これは『まねき』と言われまして、今で言う「〇〇様御一行」と宿前にかかる看板と同じものです。

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案内板
「 枡形の跡(町史跡)

江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしてものである。
この妻籠宿の枡形は、明治三二年からの大平(おおひら)街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。 」
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寒山拾得延命地蔵堂】

10:08 寒山拾得
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案内板
「 石仏「寒山拾得」像

 この石仏は、昭和五十九年の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な像が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積み直されたもので、それが再び地震で崩れ、石仏が出現したわけで、まことに不思議なことである。
 この石仏が日本石仏協会の目にとまり、寒山拾得を題材にした「箒と巻物を持った人物による双体像」は、国内唯一つの珍らしい絵柄と分析された。彫ったのは、文政年間にこの像の隣にある「水舟」を手掛けた光徳寺の「中外和尚」と推察される。
 「寒山」は、唐代の禅僧豊干に師事し、天台山の近くに「拾得」とともに住んだ奇行の僧で、伝説の部分も多いが「寒山詩」や禅宗の画材」として有名である。
 石仏の「寒山」が手にする「巻物」は、智慧を意味し文殊菩薩の化身であり、隣の「拾得」が手にする箒は、行動を意味し普賢菩薩の化身と言われている。
平成十九年九月吉日
寺下区 」

10:09 延命地蔵
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案内板
延命地蔵

享保十年(一七二五)の書上げには、『地蔵堂』と記されている。堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化十年(一八一三)五月十日頃、河中(蘭〔あららぎ〕川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運びあげたというものである。この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常にぬれているようにみえることによる。毎年四月二三か二四日にお祭りが行われている。 」

延命地蔵堂付近から、枡形方面を振り返る。
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【寺下の町並みとふじさん柿】

10:09 寺下の町並み
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案内板
「 ー寺下の町並みー

妻籠宿 は全国で初めての集落町並み保存に着手し、昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、江戸時代の面影を残すことができました。生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、歴史を生きたまゝ受け継いでいくことです。このようにして一見無人家とも思われる家々でも、人々はくらしているのです。 」


10:10 ふじさん柿
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説明書き
「 『ふじさん柿』(百め柿)

『つとっこ』と呼んでます。
【完熟させて冬食べます。】

(食べた後の『つとっこ』は、一輪挿しとして使います。) あぶらや 」


妻籠観光協会ブログ2014/11/6

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熟すまでお待ち下さい。……「つとっこ」

今日も穏やかな秋晴れの妻籠宿となりました。スッキリ晴れた青空がとても気持ちのいい朝です。しかし土曜日からお天気も下り坂になるようです・・・近頃、何故か週末にかけてお天気が崩れるパターンが多いですね。お天気の回復を願います。
 秋の味覚に欠かせない柿。この辺りではそのほとんどが渋柿です。その渋柿を食べる為には干し柿にしたり、熟すまで吊るし甘くなるのを待って食べる方法があります。そして、寺下の町並みでは 店先や二階の軒先に「つとっこ」と呼ばれる吊るし柿が見られるようになりましたよ。ワラに包まれた大きな渋柿・・・甘く熟すとトロトロで美味しいんですよ。

 お客様の中には熟し柿を知らない方も多いです。「何故皮をむかないの?」「ワラに包まれているのは何ですか?」とお問い合わせをいただく事も多いです。渋柿は甘柿と同じように美味しそうな色になっていても、それは食べられたものではありません。熟すまで待つので時間がかかりますが、その分甘さが倍増し、お好きな方にはたまらない一品ですね。

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【寺下の町並み復原工事と厩】

10:11 案内板
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「 寺下地区の復原保存工事

妻籠宿 は全国でも初めての集落保存に着手し、長野県の明治百年記念事業として、昭和四十三年から四十五年にかけて寺下地区を中心に二十六戸の解体復原工事等を実施した。これによって江戸時代の面影をそのまま残すことができた。妻籠宿は全国に注目されるに至り、五十一年九月四日国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定された。(面積1.2454ヘクタール)現在この地区には、町の有形文化財に指定されている。上嵯峨屋、下嵯峨屋をはじめ、馬屋跡(現在地)を一般に公開している。 」

10:11 厩
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妻籠観光協会ブログより

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寺下の町並みの中に、厩(うまや)があります。馬をつないでおく小屋なのですが、今朝、この前で近所の方と立ち話をしていましたら、「さっき、外国の人達と日本人のガイドさんが、この厩の中に入って見学をして行ったよ。なかなか厩の中まで案内をするガイドさんはいないよ~。」と言う話になりました。その方も一緒に中に入って話をしたそうですが、その時の様子を聞きながら、私も中に入ってみるとパッとライトが点くではありませんか!奥まで入ると、自動でライトが点くようになっていたんですねぇ~・・・知りませんでしたぁ。すみません。

 と言うわけで、皆さんもぜひ、厩の中まで入っていただき、見学をして下さいね。実は、この厩、以前は納屋として使われていまして、宿場の保存工事の時も荷物を置いたり休憩場所になったりしていたそうです。そして、地面の石につまづくので、その石を取り除くために掘り返していると、まだ下にも石がある事がわかり・・・実は厩だったと言う事がわかったのだそうです。住民の方もそれまで知らなかったそうですよ。右の写真は、馬に履かせるわらじです。


馬のひづめを守る為の物だそうですが、今ではこれを編める方がいないと以前聞いたことがあります。

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寺下の町並み。さきほどの「ふじさん柿」も見えます。右に水舟。妻籠も水が豊富な町です。
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土産物店「ささき」
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【尾又 おしゃごじさま 藁馬】

10:15 尾又 おしゃごじさま
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案内板
「 尾又(おまた)

木曽路(中山道)から、伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝曆年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

おしゃごじさま
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御佐口(ミサグチ)神を祀る。古代からの土俗信仰の神様で、『土地政令指定都市神『土地丈量神様『酒神』等の諸説がある謎の神様と言われている。

尾又区 」

10:17 藁馬
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藁馬の「いんきょ」
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妻籠観光協会ホームページより

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おみやげ・特産品「いんきょ」

いんきょオリジナル民芸藁馬は、専用田からの藁と稲穂を使い動きのある藁馬を一つ一つ作りあげています。又体験学習、各地発送も致します。最近では祝馬、花馬、香り馬も人気の商品でございます。

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横から見ると、
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「 のれません。

No ride

キケン!! 」

という札が掛かっていました。


二度目の中山道19日目の3(妻籠宿から大妻籠) に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/09/223932


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003