紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の4(大妻籠から馬籠宿への道)

二度目の中山道19日目の4
2020年1月7日(火)の4

f:id:asiandream0804:20210110111334j:plain


【どうがめ澤と牛頭観音】

10:47 どうがめ澤
f:id:asiandream0804:20210110000740j:plain

分岐にあるどうがめ澤道標には「下り谷を経て馬籠峠へ」と刻まれています。

石畳の上り
f:id:asiandream0804:20210110000801j:plain

10:50 牛頭観音
f:id:asiandream0804:20210110000815j:plain

斜面のかなり上にあり、案内板がなければ絶対に気づかずに通りすぎていたと思います。
f:id:asiandream0804:20210110000839j:plain

案内板
「 牛頭観音

石の多い急な坂道を想い荷物を運ぶため黒牛が使用された。その黒牛の供養塔である。この中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔である。) 」


【熊除けの鐘】

10:52 熊除けの鐘 No.1
f:id:asiandream0804:20210110000911j:plain
f:id:asiandream0804:20210110000925j:plain
貼り紙
「鐘を鳴らしてください。
熊を追い払います。

Ring the bell hard
Against' Bears

緊急に連絡が必要になった場合は、
下記にご連絡下さい。

南木曽町役場 (電話番号)
(財)妻籠を愛する会 (電話番号)
妻籠観光協会 (電話番号) 」

冬なので、熊は冬眠しているだろうから、鳴らさなくてもいいかな?

でも、蛇や蛙の冬眠とは違い、熊の冬眠はお腹がすくと出てくるというから、やはり鳴らしました。

11:03 トイレがあったので入る。
f:id:asiandream0804:20210110001051j:plain

11:03 熊除けの鐘 No.2
f:id:asiandream0804:20210110001033j:plain


【倉科祖霊社】

11:04 倉科祖霊社
f:id:asiandream0804:20210110001117j:plain
f:id:asiandream0804:20210110001138j:plain
f:id:asiandream0804:20210110001206j:plain
案内板
「 倉科祖霊社 Kurashina Soreisya

ここには、松本城小笠原貞慶重臣倉科七郎左衛門朝軌 の霊が祭られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉 のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、そうした因縁からこの争いも起きたと思われる。  」

f:id:asiandream0804:20210110001230j:plain
案内板
「 倉科祖霊社縁起

倉科左衛門尉時元は、松本平の豪族で、はじめ武田信玄に仕え、川中島合戦のとき、武田の兵糧と財政を受け持ったほどの勇士であったが、信玄亡き後は松本城小笠原貞慶の愛顧を受け、重臣としての面目をほどこしました。
天正十四年四月、豊臣秀吉が太閤関白に任ぜられるや太閤秀吉の祝辞言上の正使となり、御祝いの品、金銀製の鶏、金銀製の蚕や繭や太刀等を厳重な荷作りをした上でこれを共侍二名にかつがせて上洛の途についた。 与川峠を越えて夕方早く三留野宿のとある旅籠に泊りその日、与川峠越えに雇った人夫や近在の郷士たちをねきらい、賑やかく雑談にふけっていた時、御祝いの品物が金銀製であることを知られてしまった。人夫達は宿の主人を味方に引き入れ、使者を殺害し、宝物を強奪する謀議をこらした。戦国時代のこと、平和な郷士が一夜にして山賊に化けること等は当たり前のことである当時は、時計というものがなく、すべて朝の告げ鴇は鶏鳴によっていた頃のこと、彼等は相喋りながら夜中、鶏の止まり木をはずして、竹の中節を抜いたものに変え、その竹に湯を流し、驚いた鶏の鳴き声を合図に宿をせきたてて出発させた。夜中に夜明けと思い出発したので、行けども行けども夜が明けない。その暗やみを利用して、女滝の北の細道で倉科時元と共侍を殺し、宝物を奪って引き上げた。その時、金の鶏は滝壺に舞いこんでしまったということである。夜が明けて、倉科様たちの死体を見つけた下り谷の農民は、遺骸をねんごろに葬り、このことを松本城まで知らせた。早速多勢の武士が倉科様の奥方と共に妻籠宿まで来て調べたが、戦国末期のこととて誰がやったか判らずに終ってしまった。三留野の宿に引き上げた奥方は、南の馬籠峠の方をきっと睨みつけ、『夫の仇、夫の恨み、粟の穂ほど祟れ』と叫んだ。その祟りであろうか、その後まもなく、下り谷の西山が割れ崩れ、下り谷部落を埋め滝壺まで埋めてしまった。このことは滝壺に舞い込んだ金の鶏が、再び悪人どもに姿を見られまいとして、滝壺を埋めてしまったのだと言われている。
下り谷部落は埋められ、辛うじて命が助かった人々は、これこそ倉品さまの霊の祟りだ、金の鶏の祟りだと、祖霊社に倉科様の霊を祀り、山賊共に盗まれた銀の蚕や繭の代わりに木でこしらえたものを御霊代とし祭祀とした。一度でも祭司をおこたると西山の大崖が蛇抜けを起こしたり、蚕が死んだりするので、今でも毎年四月三日には蚕の神様として近所、近在の人々が多数集り、霊をお祭りしている。 」

(この「倉科祖霊社縁起」は、解読がとっても大変でした。)

f:id:asiandream0804:20210110001301j:plain

西山の蛇抜け、という言葉が出てきますが、「蛇抜け」とは、土石流災害のことだそうです。



【分岐と庚申塔

11:06 熊除けの鐘 No.3
f:id:asiandream0804:20210110003647j:plain

11:06 中山道と、男滝、女滝経由馬籠への道との分岐。
f:id:asiandream0804:20210110003712j:plain
f:id:asiandream0804:20210110003736j:plain
f:id:asiandream0804:20210110003800j:plain

10年前に来たとき、男滝、女滝に立ち寄ったのを覚えています。宮本武蔵も見た滝、と感激しました。

10年前、東海道を歩いたときは、なるべく昔の道を辿りたいと思って歩きました。

しかし実際に歩いてみると、地殻変動や水害、また、道路や住宅地の開発、工事で道が失われていたり、どこが昔の道か分からなくなっていたり。

また、中山道では、木曽に入ってから、中山道は歩道のない、ダンプカーが沢山通る道で危ないからと、地元の方に川のはんたいがわのみちを歩くように薦められたり、また、軽井沢の手前の碓氷峠への道は、熊が出て危険だから、皇女和宮が通った林道を歩くように言われたり。

そんなこんなで、中山道は昔の道に必ずしもこだわらず、「楽しく歩こうアバウト中山道」をスローガンに歩きました。

今回も中山道にこだわらず、滝を見るコースを選びました。

ただ、男滝、女滝コースだと庚申塔が見られないなあ、と、ひょいと中山道の坂の上り口を見たら、なんだ、目と鼻の先に庚申塔が見えているではありませんか。

まずは庚申塔を見て、それから数メートル戻って男滝、女滝コースを歩きましょう。

11:08 庚申塔
f:id:asiandream0804:20210110003841j:plain

真ん中が庚申塔、左は三面六臂馬頭観音、右は黒くてわかりません。


宮本武蔵も見た男滝、女滝】

11:11 男滝
f:id:asiandream0804:20210110003908j:plain

11:12 案内板
f:id:asiandream0804:20210110003929j:plain
案内板
「 男滝女滝(町名勝)
Odakimedaki Waterfalls (Male Waterfall and Female Waterfall)

この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所としてしたしまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。
この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治 著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。
滝に向かって左が男滝、右が女滝である。滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道 は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」

11:13 女滝
f:id:asiandream0804:20210110003957j:plain


【 男埵の国有林

11:20 男埵の国有林案内板
f:id:asiandream0804:20210110004018j:plain
案内板
「 男埵(おたる)の国有林 State Forest in Otaru

中山道 の東側一帯は、木曽森林管理署南木曽支署管内の南蘭国有林である。国有林には大木が多いが、この中山道沿いの男埵山一帯は風致保護林 に指定され、檜をはじめ、椹・明檜・高野槇・鼠子のいわゆる木曽の五木が、鬱蒼と生い茂っている。これらの大木は、江戸時代は停止木として、明治になってからは官林さらに明治二十二年以降は御料林 として保護されてきた。
またこの一帯は、現在国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定されている。 」


「男埵(おたる)の国有林」の 男埵の「埵」という字は、東海道を歩いているときに思わぬ難所だった 薩埵(さった)峠でも使われた、なかなか変換しない漢字です。「つつまれる」という意味だそうです。

この案内板のところで、先ほど分かれた中山道と再び合流します。

11:22 馬籠宿は右へ橋を渡る
f:id:asiandream0804:20210110004101j:plain

11:23 上り坂は氷っている所がありました。
f:id:asiandream0804:20210110004131j:plain

11:26 熊除けの鐘 No.7
f:id:asiandream0804:20210110004149j:plain

f:id:asiandream0804:20210321061234j:plain

11:28 中山道石碑
f:id:asiandream0804:20210110004203j:plain


【かもいぎ(神居木)】

11:28 国史中山道案内板
f:id:asiandream0804:20210110005929j:plain

案内板
国史跡『中山道

南木曽町を南北に貫く中山道 は、その大部分が昭和六十二年十月三日に『国史跡』に指定されました。中でもこの付近は中山道の形状がよく残っている所ですが、主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、一部を施工範囲に含めざるを得なくなりました。
 関係機関(文化庁・長野県木曽建設事務所・南木曽町教育委員会)での協議の結果、車道敷になる中山道については破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。 」

11:28 石畳
f:id:asiandream0804:20210110010057j:plain

11:32 かもいぎ説明板
f:id:asiandream0804:20210110105356j:plain

案内板
「 かもいぎ(神居木)

この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますが、このような形に似ていることから枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と行きます。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。
傷つけたり、切ったりすると、たちまち祟(たた)ると言い伝えられ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ることも嫌がりました。
この木のように両側に枝の出た木を両神居(りょうかもい)と言います。

木曽森林管理署
南木曽支署 」

11:32 さわら・かもいぎ説明板
f:id:asiandream0804:20210110105436j:plain

案内板
「 さわら(椹)大樹
樹齢 約三〇〇年
胴廻り 五・五米
樹高 四一米
材積 三四立方米

椹材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われますこの木一本で約三〇〇個の風呂桶を作ることができます。

かもいぎ(神居木)
この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますがこのような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)といいます。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。
傷つけたり、切ったりするとたちまち、祟(たた)るといい伝えられ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ることもいやがりました。
この木のように両方に枝の出た木を両神居といいます。

木曽森林管理署
南木曽支署 」

説明板のすぐ横の、この木がかもいぎ(神居木)かなあ?
f:id:asiandream0804:20210110105530j:plain


【一石栃白木番所跡と立場茶屋跡】


11:33 熊除け鐘 No. 8
f:id:asiandream0804:20210110105607j:plain

11:36 葉っぱのお面
f:id:asiandream0804:20210110105629j:plain

多分、朴の木の葉だと思います。朴葉味噌が有名なので、ついつい朴葉の木、と言いたくなりますが、朴の木の葉です。

最初、かわいい、面白い、きっと子ども達が遊んだんだろうな、と思って写真を撮ったのですが、ふと、何か宗教的な意味や、呪術に使ったのでは?と思うと怖くなってきました。深追いはやめましょう。

11:40 一石栃白木改番所
f:id:asiandream0804:20210110105715j:plain
f:id:asiandream0804:20210110105751j:plain

一石栃(いちこくとち)白木改番所

「ぶらり南木曽」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

最初下り谷に設置された妻籠宿の白木改しらきあらため(木材・木工品などの出荷取締り)番所は、後に馬籠峠に近いここ一石栃いちこくとちに移され、明治2年まで、木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)をはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行ってきました。
 また、ここには立場たてば茶屋(宿と宿の中間にある休息所)の遺構が現存しています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

11:40 立場茶屋案内板
f:id:asiandream0804:20210110105827j:plain

案内板
「 立場茶屋

立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃(いっこくとち)は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて、八間に縮小されている。 」

ここに出てくる牧野家住宅は、現在「いちこくお休み処」となっています。


【いちこくお休み処】

11:41 いちこくお休み処
f:id:asiandream0804:20210110151253j:plain
f:id:asiandream0804:20210110151336j:plain

「立場茶屋跡」の案内板にあった、牧野家住宅を地元の方達で手入れして、お休み処を無料休憩所として運営してくれています。

立場茶屋跡案内板の一部より
「 牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて、八間に縮小されている。 」

お休み処の真ん前には、水舟の水場があります。
f:id:asiandream0804:20210110151419j:plain

10年前にここを訪れた時は、この水場を見て「山小屋みたいだなあ」と思いました。

お休み処入り口に掛けられた看板にはこのように書いてあります。
f:id:asiandream0804:20210110151458j:plain

立て看板
木曽一石栃
いちこく御休み処」

上の横看板
「 Free Tea rooms
無料休憩所 (韓国語で同意義語) 」

下の横看板
「 木曽街道づえ
焼印所 」

中に入ると囲炉裏が一際目を惹きました。
f:id:asiandream0804:20210110151525j:plain

木のテーブルの前の椅子に座ると、おじさんがお茶を入れてくれました。

さらに、赤かぶの漬け物を勧めてくださり、これが歯応えといい、味といい、美味しい!

10年前は雨でした。

南木曽駅のSL公園では降っていなかったけれど、妻籠ではしっとりとした雨が降っていて、その時は、「木曽路は雨が似合う」と思っていましたが、この一石栃に着たときには本格的に降っていて、本当はお休み処でゆっくりしたかったのですが、雨に急かされて、確か座りもしなかった気がします。

今日はおじさんに、熊は出るのかを聞いてみました。

今はやはり冬眠中で出てこないし、昨年は春から夏、秋も熊は出なかったそうです。

今はまだ降っていませんが、昼から雨予報なので、降らないうちに少しでも稼ぎたいので、

「 雨が降らない内に馬籠に行きたいので」

と、早々に席を立ちました。

後日、2020年8月に娘と木曽路を歩いていちこくお休み処を訪れた時のエピソードを補足として書きます。

2020年8月20日(木)のブログより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

小屋(いちこくお休み処)のおじさんに、熊が出るか聞いたら、毎日のようにすぐ近くに来ているけれど、街道に出てくることはないそうです。
f:id:asiandream0804:20210110151621j:plain
また、春に小池百合子氏がお買い物は三日に一回にしてください、と言った意味がこの辺りの人には分からなかったら(この辺りはたまに買い出しに行ってまとめ買いが当たり前で、むしろ3日に1回は多い)、横浜に住んでいた友人が戻ってきたとき、その意味を教えてくれて驚いたそうです。

それから、猿の話も聞きました。猿はたくさん出て来て農作物に悪さをするので、鉄砲好きがバンバンぶっぱなしたお陰で全く出てこなくなったそうです。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


【ラッキーポイント・777m】

11:48 道に雪が残っています。
f:id:asiandream0804:20210110154011j:plain

今日は外国人(欧米の方)とたくさんすれ違いました。今、中山道を歩いているのはほとんど外国人?

11:50 石仏石塔群
f:id:asiandream0804:20210110154045j:plain
f:id:asiandream0804:20210110154106j:plain

11:58 熊除けの鐘 No.9
ラッキーポイント 777m
f:id:asiandream0804:20210110154139j:plain
f:id:asiandream0804:20210110154211j:plain

なんだか幸せな気持ちになります。


【馬籠峠と越県合併

12:02 馬籠峠
f:id:asiandream0804:20210110154246j:plain

馬籠峠 wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠。標高801m。

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にあり、中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い両宿を含めて観光地として訪れる人も多い。峠には「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている。

かつては長野県内の峠だったが、山口村が中津川市越県合併したことで県境の峠となった。峠道は中山道の旧道と岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、分岐と交差を繰り返している。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

12:02 峠の茶屋
f:id:asiandream0804:20210110154319j:plain

学生時代、歩く旅のサークルに入っていました。

木曽路を歩いた時、楽しそうな観光客を横目に、大きなリュックを背負って、妻籠や馬籠を走り抜けました。

いつか、観光客としてゆっくり妻籠や馬籠を見に来たいと思いました。

峠の茶屋で、五平餅も食べてみたかった。

また妻籠馬籠を訪れる夢は叶いましたが、10年前に来たときも今日も、峠の茶屋は閉まっていました。

正岡子規句碑
f:id:asiandream0804:20210110154401j:plain

「 馬籠峠
『白雲や青葉若葉の三十里』 」

峠の茶屋に来ると、昔、NHKみんなのうた」で流れていた「木曽路はきょうも」が頭の中に流れます。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

木曽路はきょうも

伊藤 海彦 作詞
川口 真  作曲
森山 良子 唄

(1)
遠い昔をそのままに
木曽路はきょうも山の中
煙る御岳宿場は雨よ
過ぎて泊まって またひとり
旅の心も ぬれてくる

(2)
梢はるかに緑をかさね
木曽路はきょうも木の香り
陽ざしこぼれて 峠は午(ひる)よ
送り送られ またひとり
旅のうれいも はれてくる

(3)
白く泡だつ流れに沿って
木曽路はきょうも山の中
あれは幻(まぼろし)筏(いかだ)の唄よ
吹かれ吹かれて またひとり
旅の想いも 暮れてくる

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

私は、今回改めて「木曽路はきょうも」の歌詞を調べてみるまで、ずっと間違って覚えている箇所がありました。

1番の、「宿場は雨よ」と2番の「峠は午よ」を混同していて、「峠は雨よ」と思っていて、10年前も今日も、峠にやって来て、「峠は雨よ」と歌っていました。

12:04 岐阜県中津川市(県境)
f:id:asiandream0804:20210110154442j:plain

峠のすぐ先で県境を越えるのはよくあることなのですが、実は、以前は県境はここではありませんでした。

wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

山口村(やまぐちむら)は、長野県南西部にあった木曽郡の村である。 島崎藤村の出生地である馬籠宿で有名である。 2005年(平成17年)2月13日、岐阜県中津川市と県を超えた合併をした。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

越県合併は前例はありますが、珍しいことです。

私が学生時代に馬籠峠で、「いつか峠の茶屋で五平餅を食べたい」と思ったとき、まだ馬籠は長野県でした。

10年前、中山道を歩いてやって来た時は、もう、妻籠は長野県、馬籠は岐阜県でした。

島崎藤村は長野県出身の文豪と思われていましたが、2005(平成17)年の越県合併により、岐阜県出身文豪に 変わってしまったことになります。

不思議な越県合併に思えますが、実は地元住民にとっては、悲願だったそうです。

馬籠の人たちは、買い物に行くなら中津川へ行っていたし、テレビの民放も岐阜県のものしか映らなかったのだそうです。


【ラッキーポイントふたたび】

右へのフェイク分岐あり(ここは中山道ではない、と注意書がありました。)

さっきの、中津川市の県境の看板の奥の方に見えていたので、写真に○をつけておきました。
f:id:asiandream0804:20210110160300j:plain

12:02 分岐を右に入ります。
f:id:asiandream0804:20210110160335j:plain

12:07 熊除けの鐘
f:id:asiandream0804:20210110160359j:plain

岐阜県に入ったので、熊除けの鐘 にNo.はふってありませんでした。連絡先も変わっていました。

中津川市役所と、馬籠観光協会の電話番号が書いてありました。

熊除けの鐘のすぐ先に、またラッキーポイント777m地点がありました。
f:id:asiandream0804:20210110160448j:plain

さっきの777m地点から坂を上って峠へ行って、峠からまた下ってきたので、当然再び777m地点は訪れる訳です。
f:id:asiandream0804:20210110160513j:plain


明治天皇峠御膳水】

12:09 明治天皇峠御膳水
f:id:asiandream0804:20210110160535j:plain

峠集落の熊野神社入口横に建てられています。石碑表面には「明治天皇峠御膳水」と刻まれています。明治13年明治天皇御巡幸の際の記念碑だということです。

12:09 熊野神社
f:id:asiandream0804:20210110160602j:plain

12:09 明治天皇御小憩紀念碑
f:id:asiandream0804:20210110160710j:plain

12:10 馬籠宿案内図
f:id:asiandream0804:20210110160733j:plain
f:id:asiandream0804:20210110160754j:plain

少し前から雨が降り始めて傘をさしていましたが、少し行くと廃屋があったので軒下をお借りして雨具を着ました。

リュックを一旦置くとき、リュックを濡らしたくないし、差している傘も一度閉じなければならないので、軒先をお借りできるのは助かります。

十返舎一九狂歌碑と梨子ノ木坂】

12:21 十返舎一九狂歌
f:id:asiandream0804:20210110162227j:plain

十返舎一九狂歌

「日本歴史街道中山道ガイド』」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「渋皮の剥(む)けし女は見えねども栗のこはめしここの名物」峠の集落を抜けたあたりの路傍に、十返舎一九狂歌碑が目に入る。 文化8年(1811年)に十返舎一九中山道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

碑の奥に立派な建物があり、トイレをお借りしようとしたら鍵がかかっていて、冬季は閉鎖しているとのこと。

12:28 石畳風下り道
f:id:asiandream0804:20210110162303j:plain

12:30 梨子ノ木坂
f:id:asiandream0804:20210110162326j:plain

梨子ノ木坂

「『梨子ノ木坂』の地名由来
2018-12-16 08:40

baba72885
『目からウロコの地名由来』」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

ナシはナラ(均)すの転で、比較的緩やかな場所を示すことが多く、この坂道がはじまる写真の地点は比較的緩い平地になっており、格好の休憩地となっている。木(キ)はもちろん場所を示す接尾語だ。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

12:31 熊除けの鐘
f:id:asiandream0804:20210110162407j:plain

12:36 熊除けの鐘
f:id:asiandream0804:20210110162433j:plain

12:36 中北道標
f:id:asiandream0804:20210110162453j:plain

この写真は、中北道標を写したというより、その向こうの木の形が好きだったので撮った写真です。

12:39 またも上り
f:id:asiandream0804:20210110162513j:plain

この後、だんだん昔ながらの道というよりは人工的な階段になってきて、右へ上っていくのが中山道、左の砂利の広場からは展望がよい、という分岐に来た時、10年前もここに来たなあ、と思い出しました。

10年前は、展望台にある東屋で持参のパンか何かで昼食にしたような記憶があります。

今日はどうせ展望は期待できないので、中山道の階段を上りました。


二度目の中山道19日目の5(馬籠宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/10/180111



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003