紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

かぶと観音

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案内板
南木曽町史跡かぶと観音

かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲 が、以仁王源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承四年(一八O)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷
の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を伺ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒した『袖振りの松』や、義仲が腰掛けたという『腰掛』が残されています。
そうした伝承故か、かぶと観音は古くから、木曽にゆかりの武将たちに手厚く保護されてきました。戦国末期の天正一五年(一五八七)には木曽義昌から三百文が寄進され、同一七年(一五八九)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されましした。江戸時代中期の宝暦七年(一七五七)に書かれた『吉蘇志略』には『俗に神戸観音と日み、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ』と記されているように一般庶民からも尊崇を受け、堂内には正保四年(一六四七)の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。幕末の弘化四年(一八四七)の『観音堂勧化帳』によれば、堂舎の改修に際してその寄進の範囲は、木曽谷中はいうに及ばず、木曽家旧臣が領する東美濃の各村にまで及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。
観音堂は、間口二間半、奥行き四間、入母屋造りの建物で、西側面には二間四方の庵室が設けられ、ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。
堂舎の建築年代は内陣・外陣境の虹梁や絵様墓股の様式から、貞享・元禄期(一六八四~一七〇三)と推定され、中の厨子も正徳五年(一七一五)頃のものと思われます。また格天井の絵は、上松町東野の阿弥陀堂と同じく、山村代官お抱え絵師 池井裕川が描いたものと考えられます。
このようにかぶと観音は、木曽義仲伝説の重要な地であり、堂舎も木曽の中では 古く貴重なものなので、南木曽町教育委員会では堂舎と境内を含めて平成六年1十月一日町史跡に指定し、平成九年度には半解体保存修理工事を
実施しました。 」