二度目の中山道17日目の1
2020年9月4日(金)
【あいさつの町 上松宿】
前夜、八王子まで進んで八王子のホテルに泊まり、八王子発4:52に乗って、高尾、大月、甲府、塩尻で乗り換えて
9:12 上松駅着 トイレ、身仕度して、
9:24 出発
11年前に泊まった田政旅館前で旧中山道に合流しました。
堺重旅館前から左に入ります。
こんな坂を上りました。
斎藤茂吉歌碑
上松材木役所跡
案内板
「 尾張藩直轄 上松材木役所跡
寛文三年から四年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半がとられ、尽山も多いことに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の地に役所を作ったといいます。
(後略) 」
諏訪神社
案内板
「 諏訪神社 Suwajinja Shrine
この神社は、上松の鎮守の神様として古くからこの地にあり、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)の二神で、祭日は九月六日・七日ですが昔は七月二十六日・二十七日であったといいます。
この附近は縄文時代の早期、約八千年前の遺跡で、古くからこの地が良好であったといいます。
このお宮は、諏訪から直接来たのではなく京都から勧進したお宮のため、御柱を建てないともいわれています。
この神社の神主は、弘治二年(一五五六年)頃より代々徳原氏が行い現在に至っています。境内に五社神社・津島神社が祀られています。 」
石仏石塔群
あいさつの川柳があちこちに貼ってあります。
私は、
「あいさつで いい町この町 上松町」
が好きです。
【越前屋・たせや】
越前屋(蕎麦屋)
お向かいが、旅館のたせや
途中で見かけた、寿命そばゆかりの人々
寿命そば越前屋ゆかりの人々
「井伊大老 前田青邨
十辺舎一九 島崎藤村
廣重 降嫁姫君
歌麿 各国諸大名
芭蕉 大岡越前 」
降嫁姫君は、皇女和宮ですね。
十辺舎一九と書いてありますが、十返舎一九 が正しいと思います。
現在の越前屋そば店(中山道沿いから、寝覚めの床入り口に移転しました。)
越前屋そば店ホームページより
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越前屋の歴史
当店は寛永元年(1624年)に創業しました。現在分かっている限りで日本で二番目に古い蕎麦屋と言われております。
当時からさまざまな旅人が宿場に立寄り、立場茶屋として栄えてきました。
喜多川歌麿、十返舎一九、岡本一平氏、前田青邨氏などの書や画も残されており、島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場しております。
旧中山道沿いには大正元年に3回目の建て替えをした旅館も保存されて残って
おります。
宿場として栄えた頃の旅人の姿に思いをはせながら、昔ながらの白いお蕎麦を
どうぞご賞味ください。
続膝栗毛 木曽街道膝栗毛(十返舎一九)より
寿命そばの由来
「─ 寝覚の寺には、浦島太郎の釣竿といふものが有りました。 それも伯父さんの話して呉れたことですが、
浦島太郎の釣をしたという岩もありました。それから、あの浦島太郎が竜宮から帰って来まして自分の姿を
うつして見たといふ『姿見の池』もありました ─」
(藤村童話集 「ふるさとの中の「浦島太郎の釣竿」より)
その浦島太郎の長寿にちなんで「寿命そば」と名付け、現在にいたっております。
また、浦島太郎が愛用したと言われる釣竿が当店のすぐ近くにある臨川宝物館に展示されています。
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11年前のブログより
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2009.10.5.
レトロなポストの手前、民宿のたせや(多勢屋)は、昔は茶屋本陣でした。
向かいの越前屋は、寛永元年(1624)創業の、名物寿命そば」(そばきり)の老舗。松尾芭蕉、十辺舎一九、島崎藤村も立ち寄っています。
越前屋は現在(2009年当時)旅館となり、ここにとまりたかったのですが予約がとれませんでした。
(追記:2017年現在は、写真の大正期に建てられた旧旅館として残されてはいますが、場所を近くに移して蕎麦屋として営業しているようです。)
こちらは、十辺舎一九の木曽街道中膝栗毛に描かれた越前屋。
たせやと越前屋の間を入っていくと、寝覚めの床への道。
途中にある社に、カボチャ2個奉公されていました。
神社だと思っていたら、臨済宗の臨川寺でした。こちらの境内から寝覚めの床を一望できます。(拝観料あり)
寝覚めの床には、浦島伝説があり、浦島太郎の釣竿が宝物館にあるそうです。
竜宮城から帰った浦島太郎が、絶望の末、辿り着いたのが寝覚めの床で、ここで玉手箱を開けた、という伝説のようです。
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【寝覚めの床】
寝覚めの床入り口 臨済宗 臨川禅寺
入場料200円
明治天皇寝覚小休所
芭蕉句碑
山頭火句碑
木曽路随一の景勝地寝覚の床は、昔役の行者 が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎 や三帰の翁 の不老長寿の伝説が生まれた。
謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰いに勅使が遣わされます。三帰の翁は実は医王仏 の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げます。
謡曲「飛雲 」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢います。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退けます。
謡曲史跡保存会 」
寝覚めの床看板
展望台から寝覚めの床を見下ろしたところ。
ここから坂道を下って寝覚めの床まで行くと、かなり時間もかかるし、上って戻るのも大変なので、ここから眺めるだけにしました。
子どもの頃、長野県に住んでいて寝覚めの床まで降りた記憶も残っているので、その思い出をもとに描いた絵です。
尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(一七一一年)寝覚めの地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁財天堂を建てるよう上松の役人に命じ、翌正徳二年に完成したお堂です。
現存する上松町の建築物では最も古いもので、大工の棟梁は、名古屋の岩崎治兵衛他四名で当時の木曽では珍しいお堂の造りといわれています。石屋は三名で高遠から来ています。 」
弁財天堂の裏側
明治天皇寝覚御膳水
浦島太郎旧縁跡
浦島太郎姿見の池
長野県の情報【E-cure】より
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上松町は、浦島太郎が晩年を過ごしたといわれる場所。
現世に戻って、諸国を旅した浦島太郎は、上松の里が気に入って住みつき、毎日寝覚の床で釣りを楽しんだという伝説が残っています。
(中略)
浦島太郎は竜宮城から地上へ帰るが、まわりの風景は変わっており、知人もおらず、旅に出ることにした。
旅の途中、木曽川の風景の美しい里にたどり着き、竜宮の美しさを思い出し、乙姫にもらった玉手箱をあけた。
玉手箱からは白煙が出て、白髪の翁になってしまう。
浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。
このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという。
Wikipediaより
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白髪と化した浦島太郎太郎が、自らの姿を映し見た池が、この浦島太郎姿見の池だったの言われています。
亀の家
寝覚めの床を後にして、中山道に戻りました。
【小野の滝と荻原一里塚跡】
大樟
分岐点(郵便局)
石塔群
石畳風歩道入り口
石畳風歩道を下って下の舗装道へ。
滑川橋からの川の流れ
こんな道を歩きました。
小野の滝
案内板
「 小野の滝 Ononotaki-warterfall
名所 (木曽八景のひとつ)
広重と英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。
明治四十二年鉄道の鉄橋がこの上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。
かつてここを旅した細川幽斉は『老の木曽越』のなかで『木曽の小野の滝は布引や箕面の滝にも、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける』と、手放しで誉めています。
また、浅井洌は、この地を訪れて
ふきおろす松の嵐も音たえて
あたりすずしき小野のたきつせ
と、歌を詠んでいます。今も上松の旧蹟にかわりありません。 」
荻原一里塚跡
案内板
「 荻原一里塚跡 Ogiwara Ichiri-zuka
―上松町指定文化財指定―
この一里塚は、上松宿内の一里塚か
らちょうど一里(約四キロメートル)
南へきた荻原集落の入口にありま
した。集落の北の入口であるこの一
里塚には、左右両方とも榎が植え
られていました。南の入口には、高
札場があったといわれています
この一里塚の位置は
京へ六十四里
江戸より七十三里です
残念ながら現存しません。 」
案内板
「 榎(えのき)と紅葉(もみじ)の合体木
一里塚 は江戸時代の徳川家康 のときから作られたが、そこに何か木を植えようということになり、家康の家臣が、どの木にしようかと家康に伺ったところ、「ええ木を植えよ」との答え。それが家臣には「えのき」に聞こえたらしい。よって、「一里塚=榎(えのき)ということになった。
(「ええ木」の他に「余の木」など諸説あります)
←200m先水場(和水)あります 」
【雲生まれ雲を抱く木曽路】
石塔群
上松駅から歩き始めた時は晴れて暑かったのに、この頃から雨が降り出しました。
雨の山道
雲が生まれる木曽路
石塔群
木曽古道
人の家の前を通るみたいな道です。
線路の脇の道
11:51 雨がかなり激しくなったので、
倉本駅バス停でランチ。
メープルバウムクーヘンと
メープルワッフル
倉本駅周辺
稲田の向こうに倉本駅
黄色いコスモスと倉本駅
コスモスの季節です。
石仏石塔群
えっ、ここ、中山道!?
逆N字にヘアピンカーブ的に進むところ。ここ、11年前にも歩いたことを覚えています。
立町橋をくぐります。
池の尻分岐
分岐の先は、こんな道です。
【急に草の道】
急に草の道 11年前と変わっていなくて嬉しい。
歩いてくると、急に道がなくなる、そんな印象です。
廃レストラン裏
レストランは「ていしゃば」という名前でした。
12:41 標高588m
エドヒガン桜を見たかったのですが、見に行くための分岐がわからず、違う道だから見られた石塔群を撮りました。
枝垂れ桜
歩道が草ぼうぼう
歩道
二度目の中山道17日目の2(須原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/05/165353
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003