宝暦五年(一七五五)安藤信成は、父信尹(のぶただ)の跡をつぎ、加納藩主となったが、翌六年、陸奥磐城平に移封となった。
これは、信尹の不行跡にともなう、幕府の処置としてなされたものであった。
その後老中となった信成は、享和三年(一八〇三)十一月、美濃国内で一万八千石余(厚見・方県・葉栗・本巣、四郡の一部)を加増され、再び美濃との関係をもつにいたった。
平藩は、美濃領支配のため、切通村に陣屋を設け、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など、二十二人ほどが詰めていた。
平藩による支配は、飛び地支配のため問題が多く、文政八年(一八二五)には長森騒動が起きている。
切通陣屋は、安藤氏七代にわたり六十七年に及ぶ支配をおこなったが、明治に至り、 廃藩と同時に廃止され、笠松県に統一された。