紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業

中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業

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案内板
中山道

中山道江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、 その距離は江戸の日本橋から京都三条大橋まで、百三十五里二十四町八間(約532km)ありました。
この道は中部山岳地帯を通り難所が多い一方で、川留めになる河川も少なく渡海の難もないため、姫宮の通行のほとんどが中山道を利用していました。
また、中山道には、参勤交代や西国諸大名を支配するための『政治の道』、江戸と上方を結び、物流や情報が行き交う『経済の道』、絵画や俳諧などを育み街道文化が華やいだ『文化の道』など、さまざまな側面がありました。


中津川市内の中山道

市内には約20kmの中山道が東西に延び、江戸から数えて四十三番目の馬籠、四十四番目の落合、四十五番目の中津川の三つの宿場町がありました。中山道六十七宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされていますが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

馬籠宿

木曽十一宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが三町三十三間(約386m)ある中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町です。度重なります火災のため、往時の建物はほとんど遺っていませんが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていません。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されています。

落合宿

落合宿は信濃国から美濃国に入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。
新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合の常夜燈、代々井口家が当主を務めた落合宿本陣は、国史跡『中山道』の構成要素となっています。

中津川宿

中津川宿の町並みは約十町七間(約1.1km)、戸数百七十五戸、人数は九百八十人でした。
宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町とに分かれていました。
皇女和宮が降嫁のために江戸へ向かう際に、中津川宿本陣に宿泊しました。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩尊皇攘夷へ方針転換した『中津川会議』の舞台でもあります。


歴史の道整備事業

中津川市は昭和六十三年から平成七年度にかけて文化庁岐阜県の補助を受けて、歴史の道・中山道の整備を行いました。
江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県境からの約1kmを整備対象区間とし、道全体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の両側に残っていた『新茶屋の一里塚』の修復、また、『休憩所』一基を活用施設として設置しました。
従来から、『中山道落合の石畳』として保存されていた石畳(三ヶ所、延長七十、八m)をつなぎながら復元した約八百四十mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気をもっています。 」