紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き21日目の1(大井宿から十三峠入口まで)

二度目の中山道21日目の1
2020年9月6日(日)の1


f:id:asiandream0804:20210122083834j:plain


【大井宿に戻る】

今日の行程は9割が山道の33kmという強行軍。そんな無謀な行程は私のミスではなく、今日のコースは恵那市西行の森の入り口から、大湫宿細久手宿御嶽宿御嵩駅までエスケープルートがなく、商店も宿泊施設もない、歩き切るしかないし、食べ物飲み物も準備が必要、という、多分中山道の中でも一二を競う難所かもしれない。

朝、恵那駅に降り立ったのが6:25

ここは中山道では大井宿です。

恵那駅で身仕度を整えて出発は6:30

6:35 菊水堂(栗きんとんの老舗)で中山道に戻りました。
f:id:asiandream0804:20210121125621j:plain

f:id:asiandream0804:20210121125719j:plain
案内板
中山道大井宿と駅前の近代化

盆地の底の平坦地にある大井の町場は、周囲の山間農村を結ぶ道路の結節点として、 人や物が行き交う交通上の要衝となっていた。江戸時代には中山道の宿駅(大井宿)としての役割を担ったことから、旅籠屋や商家が増えて発展し、天保14(1834)年には、宿内戸数110軒、旅籠屋は41軒、人口は466人であった。大井宿の町並みは、大井橋の東の袂から上宿の高札場までの6町半(約709m)で、西から橋場・茶屋町(中嶋町)・竪町・本町・横町に分かれ、道はそれぞれの町のはずれでほぼ直角に折れ曲がり、整然とした町割を形成していた。
これに対して、江戸時代の恵那駅前一帯は田畑、原野だったが、明治になると、中山道をはさんで家が建ち始め、明治28(1895)年に大井町新町となった。明治35(1902)年に中央線大井町駅が開業すると、大井町がこの地域の物資の集散地となり、駅と国道中山道の間が幅6間(約10.9m)の道路で結ばれ、両側には街路樹として柳が植えられた。その後、各町村へ通じる街道が整備され、町の基本形態が出来上がっていった。
駅前からは、正家、東野から岩村、明知方面への南北街道が整備されるとともに、明治39(1906)年に岩村に通じる電気鉄道が開通し、昭和9(1934)年には大井~明知間に国鉄明知線が開通した。大井駅がこの地域の物資の人や物資の乗降場となるに従って、駅前通りには多くの旅館や運送店が開業し、一帯には駅前の集まる人々を対象にしたさまざまな店舗が軒を並べ、商業地として発展していった。

平成24年8月
恵那市恵那市教育委員会

足元に広重の浮世絵の大井宿
f:id:asiandream0804:20210121125750j:plain

6:40 レトロな看板のカクト本店
f:id:asiandream0804:20210121125807j:plain

古い門柱を残す森川クリニック
f:id:asiandream0804:20210121125829j:plain

中山道大井宿のれん倶楽部
f:id:asiandream0804:20210121125843j:plain

町並み
f:id:asiandream0804:20210121125858j:plain


【中野村庄屋の家】


6:42 中野村庄屋の家(本酒屋)
f:id:asiandream0804:20210121200557j:plain
f:id:asiandream0804:20210121200614j:plain
f:id:asiandream0804:20210121200634j:plain
案内板
「 中野村庄屋の家(本酒屋)

中野村庄屋の家で、 屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山路を通って江戸へ 下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。当時大湫宿の の助郷村であった野井村 が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)につかせられました。このことを 不満に感じた野井村百姓代熊崎新三郎は、 和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた 岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。 これは後に事件となりましたが、代官による強制的な 賄役の負担が野井村の今後 の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には 野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。 」

f:id:asiandream0804:20210121200659j:plain
案内板
「 浸水防止壁

田違川は長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいた。そのため洪水のたびに田違川は永田川を堰き止め、水は道路にあふれて本町通りへも流れて付近の人家に浸水した。そこで道の両側に石柱を立て、板をはめて浸水を防ぐことにした。
長島町にはこの水害防止のため、昭和10年、田違川を中央線沿いにつけかえた。

恵那市恵那市教育委員会

6:43 永田川 長島(おさしま)橋
f:id:asiandream0804:20210121200717j:plain

秋葉大権現常夜燈と中野観音堂(高札場跡)
f:id:asiandream0804:20210121200735j:plain

信号に突き当たり、国道19号線を左折しました。
f:id:asiandream0804:20210121200748j:plain

坂の上交差点(恵那市長島町中野歩道橋)
f:id:asiandream0804:20210121200818j:plain
f:id:asiandream0804:20210121200905j:plain
変則五叉路。国道19号線、多治見方面にら進みます。赤い幟旗がたくさん見える豊玉稲荷神社の脇の道を進みます。

6:53 上町観音堂
f:id:asiandream0804:20210121202016j:plain


西行硯水】

6:54 西行硯石公園
f:id:asiandream0804:20210121202040j:plain
f:id:asiandream0804:20210121202101j:plain
f:id:asiandream0804:20210121202119j:plain
案内板
西行硯水
(さいぎょうすずりみず)

文治二年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で三年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年間暮らしたといわれる。歌人である西行は、大久の歌を詠み、こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。

渓花坊(本巣郡)の句は、天保十四年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪したときに、ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。

西行ゆかりの水』

岐阜県の名水 昭和61年始12月認定 」

f:id:asiandream0804:20210121202146j:plain
案内の右側の石仏石塔群の、向かって右側の石が、字は風化してほとんど読めませんが、多分、西行の歌碑

「道の辺に 清水ながるる 柳かげ
しばしとてこそ 立ちどまりつれ 西行

向かって左側はうっすら読める、渓花坊(川柳作家)

「陽炎やここにも
ふじ見の節の跡 渓花坊 」

水がたたえられている写真もネットで見かけたのですが、この日は渇れていました。
f:id:asiandream0804:20210121202214j:plain

6:56 銀幣社 神明神社
f:id:asiandream0804:20210122062645j:plain

6:58 分岐 「西行塚」の標柱の所を、踏切に向かって左側が上ります。
f:id:asiandream0804:20210122062750j:plain

分岐の左側は西行公園。
f:id:asiandream0804:20210122062821j:plain

西行公園には、「中山道 中野村」の石標がありました。
f:id:asiandream0804:20210122063326j:plain

f:id:asiandream0804:20210122062916j:plain
案内板
中山道 大井宿

中山道江戸幕府が進めた五街道(東海道中山道日光道中奥州道中甲州道中)の一つで、中部山地を越えて江戸から京都へ通じていた。この街道は木曽を通るため木曽街道とも呼ばれ、また江戸の将軍家に嫁ぐ公家の姫宮が通行したので姫街道とも呼ばれた。姫宮の通行では、文久元年(1861)の和宮の降嫁の大通行が名高い。
東海道が海沿いの平坦な街道であるのに対して、中山道は山間部を通るため道が険しく、距離も長い中山道の宿駅は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、東海道の宿駅である草津、大津の両宿を入れて69宿という場合もある。江戸から京都までは132里10町(約520km)で、1日7里から10里(25km~40km)歩いたとして13日から18日の行程である。
大河川を渡ることの少ない中山道では川止めを受けることはまれで、好んでこの道を通る人もあった。しかし、碓氷峠和田峠鳥居峠・十三峠といった詳しい峠や山道が多く旅人にとって困難な街道であった。
美濃を通る中山道はおよそ30里(約120km)で、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須の16宿があった。大井宿は、名古屋、伊勢に向かう下街道の分岐点に位置する交通の要衝であり、中山道46番目の宿場として41軒の旅籠が立ち並び、美濃16宿中随一のにぎわいを誇った。
現在、かつての大井宿は恵那市街地の一画を成しているが、今でも他の宿場には例のない6か所の枡形、本陣の門と松、旧旅籠屋などの建物がみられる。大井宿から西の武並町深萱までの中山道は、昔日の面影をよく残し、西行硯水、西行塚、槙ヶ根一里塚、槙ヶ根追分、姫御殿跡、紅坂一里塚など史跡も多い。

恵那市
恵那市教育委員会

歴史の道 中山道 地図
f:id:asiandream0804:20210122062937j:plain


【十三峠へ向かう】

7:00 「中山道十三峠のみち」標柱
西行の森1.2km 西行塚0.5km
恵那駅1.6km →
f:id:asiandream0804:20210122063012j:plain

線路手前にあった、妙見大菩薩と山灯籠
f:id:asiandream0804:20210122063029j:plain
f:id:asiandream0804:20210122063043j:plain
f:id:asiandream0804:20210122063058j:plain

踏切を渡り、
f:id:asiandream0804:20210122095035j:plain

7:02 中山道道標
西行塚 350m
西行硯水 200m →
f:id:asiandream0804:20210122095101j:plain

7:03 中仙道自然薯つつみ園藤川ファーム
f:id:asiandream0804:20210122095139j:plain

7:04 右折して橋の方へ。
f:id:asiandream0804:20210122095206j:plain

中部北陸自然歩道道
恵那駅 1.8km
中山道十三峠のみち
西行の森 1.0km 西行塚 0.3km→
f:id:asiandream0804:20210122095237j:plain

田違川の西行橋を渡りました。
恵那高架橋を潜ります。
f:id:asiandream0804:20210122095303j:plain

7:07 十三峠入口 「是より西 十三峠」
f:id:asiandream0804:20210122095331j:plain
中部北陸自然歩道道
恵那駅2.0km
中山道十三峠のみち
西行の森0.8km 西行塚0.1km →


「是より西 十三峠」の標柱の脇に張り紙がありました。
f:id:asiandream0804:20210122095347j:plain
「 告
中山道はここより御嵩駅まで幹道鉄道を外れ山間を行きます。途中食堂や商店宿泊所などありません。十分な準備、下調べで前へお進み下さい。 」

そうなんです。ここから御嵩駅までは、一歩踏み込めば30km逃げ場(エスケープルート)のない山道。

11年前にここを歩いた時は、細久手宿に大黒屋という旅館に泊まったのですが、今回は連絡がとれませんでした。廃業してしまったのか、コロナ禍で宿泊客をとっていないのか。

この張り紙を見ると、やはり大黒屋は営業していないみたいです。

ここからは石畳の道に入ります。


二度目の中山道21日目の2(十三峠)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/23/065816


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003