紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き24日目の2(河渡宿から美江寺宿への道)

二度目の中山道24日目の2
2020年10月11日(日)


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【消えた大燈籠】

10:33 馬頭観音
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ガイド本に書いてある大燈籠がない!

2016年に来たときはありました。

2016年のブログより

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2016.8.18.

先ほど土手から階段を降りてきましたが、少し進むと右手に馬頭観音堂があり、白い百日紅観音堂を抱くように揺れていました。

観音堂の向かい側に河渡宿大燈籠(モニュメント。写真)があり、そこを左折し、土手の下の道を歩きます。
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この先、小祠があるはずなのですが、ない。10分ほど迷って、戻ってきました。

10:49 やっぱり小祠はありました。
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【河渡の一里塚跡】

10:52 河渡の一里塚跡 松下神社
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中山道河渡宿 石碑
中山道河渡宿

 江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。
 加納宿 へ一里半、美江寺宿へは一里六町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁栄した。
 ここはかつて一里塚のあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。

平成五年五月
中山道河渡宿文化保存会  記 」

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松下神社 石碑
「 松下神社

中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。碑は太平洋戦争の戦災で焼きこわれ、今は一部しか残っていない。

平成五年五月
 中山道河渡宿文化保存会 記」

10:58 河渡2交差点
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10:59 慶応橋
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【生津縄手】

生津(なまづ)縄手 (平安時代に生津荘園があった)は一本道。

一本道は退屈なんだよな、と思っていたら、すぐに終わってしまいました。


11:19 馬場地蔵堂
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11:23 延命地蔵尊(本田地蔵堂)
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案内板
「 本田地蔵堂延命地蔵

 この地蔵は高さ九十センチメートルの石仏座像で彫りが美しく優雅な面相である。背面に『石工名古屋門前町大阪屋茂兵衛 』、台座には『文化六巳巳歳(1809年)八月二十四日建立、濃州本巣郡上本田村 』と刻まれている。
毎年八月二十四日に盛大な地蔵祭が行われる。かっては、尾張美濃・江州の三国素人相撲 が行われたが、現在は子供相撲が行われている。
江戸時代、この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵さまに旅の安全を祈ったのであろう。

瑞穂市教育委員会

本田は「ほんでん」と読みます。

11:25 秋葉神社
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【旧家が残る「中山道町並」】

11:26 趣のある塀
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11:27 本田代官所
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案内板
「 本田代官所

江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十〇年(一六七〇)、野田三郎左衛門 が、初代代官に任じられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝 (十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和七年(一七七〇)大垣藩に預けられるまで続いた。今も『代官跡』『御屋敷跡』『牢屋敷跡』という地所が残っている。

瑞穂市教育委員会

こちらも旧家
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11:30 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

きりしたん制札など幕府や領主が行政的
に周知の必要な事項を木製の高札に書い
て掲げ住民に知らせる場所であった。江戸時
代の中山道分間延絵図 によると、このあたり
に高札場があった。

瑞穗市教育委員会

11:54 清水屋でうなぎを食べました。
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入る前にネットで調べて、ランチなら、そんなに高くない、と思って入ったら、土日はランチがなかった!


12:09 出発


二度目の中山道24日目の3(美江寺宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/08/144302


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003