紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き24日目の1(加納宿から河渡の渡し)

二度目の中山道24日目の1
2020年10月11日(日)


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秋葉神社がいっぱい】

前夜の矢向バスに乗り、朝6:40名古屋笹島ライブ着。

名古屋駅ドトールで朝食。

名古屋7:52発 JR東海道線新快速大垣行きに乗り、

8:12 岐阜着

身仕度して、

8:27 出発
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行きすぎてしまい、中山道に戻ってきたのが8:40
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歩数計を見たら、電池切れらしく歩数計が消えていたので、スマホ歩数計アプリを入れました。

8:41 秋葉神社
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8:46 秋葉神社
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8:50 秋葉神社
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秋葉神社が多い。秋葉神社は火防の神様なので、宿場町は火災を恐れていたので、秋葉神社が多いのでしょうね。


8:53 加納本町9
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8:56 阿賀多(あがた)神社
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案内板
「 阿賀多神社由緒

【御座地】岐阜市南本荘一条通二〇
【祭神】仁徳天皇
【例祭日】四月四日
【由緒】応仁二年八月の勧請と伝えられている。
社伝よれば、一条兼良 郷が当地の角藤大夫の屋敷に滞在した折り、河川が氾して
尊い御神体が漂着したのを、大夫が拾い上げ屋敷に安置した。
八月十五日の夜、霊夢により、御神体がた仁徳天皇てあるとのお告げがあり、畏みて祠を建立し、角藤大夫家の守り神として奉祀した。
その後、霊験あらたかな神として天正四年より郷土の氏神として地域の人々の崇敬を受けう日に到っている。 」

9:04 清本町2 線路(JR東海道線)を潜りました。
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9:08 清本町10 交差点はどっちに進むか分かりづらいですが、RAYビルを左に見て進みます。
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少し先に、進み方の案内地図がありました。
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9:19 ガイド本に目印として載っている店、ミルトンバナナがありました。
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9:23 ローソンでトイレをお借りして、昼用のパンと、今食べるお菓子を買いました。



【多羅野八幡宮

9:39 天満神社(多羅野八幡宮)
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夫婦銀杏
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神歌碑
「千早振る神の御徳の
尊(ト)とけれ四方(ヨモ)の
真人(マヒト)も心揃いて 」
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2016年のブログより

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2016.8.18.

小さな神社や寺を見ながら進み、国道92号線を横断した先に、多羅野(だらり)八幡宮

往時はだらり餅(あんころ餅)が評判の立場だったそうです。

境内に夫婦銀杏がありました。
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(2016年8月18日撮影)

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本荘公民館ホームページより

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多羅野(だらり)八幡神社

多羅野八幡神社は、一名盗宮とも言い、昔付近に家もなく背丈ほどの笹が茂り盗賊が潜んでいたのでそう呼ばれたのです。はじめは、3箇所にあった八幡神社天満神社秋葉神社を大正9年の台風後三社合併した。 
 境内には、御神木の夫婦銀杏(南:雄木 北:雌木)がありそれぞれ直径70cmほどある。

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本荘神社ホームページより

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多羅里(だらり)の伝説

昔この神社附近に家もなく背丈ほどの笹が生い茂り、盗賊が潜んでいて、おいはぎが出没したことから「盗人の宮」と呼ばれていました。
また、多羅里は加納宿と合渡宿の真ん中の間宿(あいのしゅく)で、旅人が休憩する場所でありました。「松屋」という茶屋があり、旅人の間で「だらり餅」というあんころ餅が名物として知られていました。「だらり名物は、あんころ餅藤の棚」「行こうか合渡へ 帰ろうか加納へ ここが思案の だらり餅」と謡われるほどでありました。

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9:54 追分橋
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この辺りの進み方の地図
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9:56 乙津寺
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10:03 神明神社
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10:07 北野神社
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10:10 南無地蔵尊
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土手へ向かいました。
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【鏡島と河渡の渡しと柵の切れ目のオフロード】

10:13 鏡島湊跡
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案内板
「 鏡島湊(かがしまみなと)

鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。位地は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ川下にありました。天正二十年(一五九二)岐阜城織田信秀は鏡島の(馬渕)与左衛門に、新町を造ることを命じ、ここ以外での舟荷の陸揚げを禁じました。分流し水流が少なく川瀬の関係で荷を積んだ舟がそれ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜町から城下町の外港として整備し、自らの支配下にしようとしてのです。
鏡島湊の権益は、関ヶ原の合戦(一六〇〇)後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中山道として公道化すると、交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、町並みは長く伸び発展しました。
しかし、加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下近くで荷揚げされるようになりましたが、鏡島湊の特権は、完全にはくずされることがなく江戸時代を通じ守られました。
湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代後半になるとその役目を終えました。このように長久保当地の発展を支えた湊と先人を讃え後世に伝承するために、ここに湊の案内板の建設をしました。

平成二十二年九月
鏡島の歴史書刊行委員会
岐阜市教育委員会
協力 国土交通省

土手道に向かって坂を上ります。
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10:17 河渡橋東
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河渡の渡しはあの辺りかなあ。
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10:23 柵の切れ目から下に下りるはずなのですが、草が繁って道がなくなっていて下りられません。
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ぐるっと回って

10:27 下りてくるはずの斜面を下から見上げました。
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2016年のブログより

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2016.8.18.

多羅野八幡宮を過ぎると、鏡島という地域。鏡島と書いて「かがしま」と読みます。

かがしま、と打つと、携帯がちゃんと鏡島と変換してくれました。

7:40頃から突然大雨。

写真は、善政院前のお地蔵様。
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あまりの激しい雨に、雨宿りも兼ねて善政院に立ち寄ると、善政院と隣の神明社は境内奥で繋 がっていて、神明社のトイレをお借りしました。ありがとうございました。

神明社を出ると、雨がやんでいました。

南無地蔵尊前から土手道に上がります。

その時に、土手の夏草に、かやつり草やワレモコウなど、秋草が混じっているなあ、と思いました。

つくつくぼうしも鳴いているし、晩夏から初秋の感じですね。晴れれば凄い暑さですが、少しずつ秋が忍び寄ってきているんですね。

河渡(ごうど)橋で長良川を渡りますが、往時は渡し船で渡ったそうです。

河渡橋を渡ると、ガイド本(「ちゃんと歩ける中山道六十九次山と渓谷社)に従って、フェンスの切れ目から土手道に下ります。

一応鎖が緩く張ってあって、危険注意と書いた下り坂オフロード。

通行禁止とは書いてないので、注意して下りました。

下りると、白百合と、ふかふかの芝生みたいな土手道が出迎えてくれました。

振り返ると、写真みたいな感じ。こちらから見ると行き止まりに見えますね。
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土手のふかふか!
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蜻蛉飛び飛蝗(ばった)飛ぶ土手中山道
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少し土手道を歩きます。
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10:31 小祠 河渡の渡し跡
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10:32 この階段を下ります。
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車がたくさん通る道を渡り、また階段を下ります。
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二度目の中山道24日目の2(河渡宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/07/150732


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003