紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

鏡島湊跡

鏡島湊跡
f:id:asiandream0804:20210206145529j:plain
案内板
「 鏡島湊(かがしまみなと)

鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。位地は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ川下にありました。天正二十年(一五九二)岐阜城織田信秀は鏡島の(馬渕)与左衛門に、新町を造ることを命じ、ここ以外での舟荷の陸揚げを禁じました。分流し水流が少なく川瀬の関係で荷を積んだ舟がそれ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜町から城下町の外港として整備し、自らの支配下にしようとしてのです。
鏡島湊の権益は、関ヶ原の合戦(一六〇〇)後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中山道として公道化すると、交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、町並みは長く伸び発展しました。
しかし、加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下近くで荷揚げされるようになりましたが、鏡島湊の特権は、完全にはくずされることがなく江戸時代を通じ守られました。
湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代後半になるとその役目を終えました。このように長久保当地の発展を支えた湊と先人を讃え後世に伝承するために、ここに湊の案内板の建設をしました。

平成二十二年九月
鏡島の歴史書刊行委員会
岐阜市教育委員会
協力 国土交通省