二度目の中山道24日目の4
2020年10月11日(日)の4
【大垣輪中】
14:02 神明神社
今回は見つけられませんでしたが、2016年に来たときは、 下柳区夜警詰所という小屋で持参のパンでランチしました。当時は8月であまりに暑かったので、屋根があるから少しは涼しいかと思ったら、とても暑かったし、ベンチは足が届かない高さで座り心地が悪くて長居はしませんでした。
その先、ふたつ地蔵堂があり、前回と今回、それぞれ違う地蔵堂の写真を撮りました。
前回撮った地蔵堂
14:07 地蔵堂 (今回撮ったもの)
14:08 大垣市に入りました。新橋を渡りました。
14:12 墨俣追分道標
14:15 柳原の一里塚跡(神明神社前)
14:18 大垣輪中
暫く土手道を歩きましたが、大垣輪中と呼ばれる堤で、河川氾濫から大垣を守ったそうです 。
14:25 道標「中山道三回り半」
三回り半、はどういう意味なんでしょう?中山道が三回半蛇行している、という説もあります。
14:25 左折
14:27 日本家屋と洋館
目に留まったので撮りました。
14:28 素盛嗚社
案内板
「 素盞鳴社(すさのおしゃ)
〈 御祭神〉
天照皇大神宮の弟『素盞鳴大神 』を鎮守とし、五穀豊穣・無病息災を願う。
(由緒)
明治ニ十一(一八八八)年七月二十九日大垣輪中瀬古堤決壊で、曽根赤花汚泥海と化す。神府が『立木民次郎氏宅』竹藪に流着。大垣八幡神社宮司に鑑定を願うと、素盞鳴尊と判明。早速、村人と相談の上、『立木様宅』古杉の幹に小さな祠を結び置くも、正式な神社敷地について、幾度となく討議を繰り返すが決まらず、ニ十有余年経過。
その後、大正ニ(一九一三)年八月、現在地『中山道馬の瀬 』に遷座。翌年四月遷座の儀式。
大正十三(一九二四)年四月社殿攻造遷宮。
昭和ニ十四(一九四九)年四月社殿新築遷宮。
平成二十七(二〇一五)年四月神木造 りにて修築。現在に至る。 」
稲はまだ刈っていない。遅いのでは?
14:39 秋葉神社
14:41 長徳寺
14:44 聖観世音菩薩
【中山道七回り半
14:48 「中山道七回り半」道標
七回り半について、「中山道道中記」( http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/nakasendo.html)というブログに、土地の古老から聞いた話が載っていました。興味深い話なので引用させていただきます。ありがとうございます。
「中山道道中記」より
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古老の話によると、
「参勤交代の時、殿様は大名行列の人数がが多いほど喜んだものだそうだ。ここへ来て曲がり毎に、前を見て満足し、後ろを見ては満足し、それを七回も繰り返し、最後に前に向き直って 半 だ。だから田んぼの中の道をわざわざクネクネと曲げたんだよ」。
最後にポツリ、「こんな話ができるのもワシ一人になってしまったなー」
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14:52 右折
コーポスプリングを回り込みました。
この辺り、前回来たときのことを覚えています。
14:53 左折
14:57 右折(カワイ線材のところ)
「中山道七回り半」というだけあって、よく曲がりますね。
14:58 地蔵堂
栗の毬が落ちていました。
2016年8月には青々とした毬栗でした。
15:03 日比野五鳳案内板
かなの至宝 日比野五鳳
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日比野 五鳳(ひびの ごほう、1901年2月20日 - 1985年1月27日)は、日本の書家。昭和の三筆の一人。息子の日比野光鳳も書家。
岐阜県神戸町に日比野五鳳記念美術館がある。 また神戸町役場の入口ロビーには、氏による山上憶良の子等を思う歌一首とその反歌を書にしたものが壁書として彫り込まれている。
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神戸町役場玄関ロビーの壁書は、山上憶良の「瓜食めば・・・」の長歌と、その反歌「白銀も・・・」です。
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ
いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ
銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも
15:03 北大垣第9号踏切(養老線)渡りました。
15:13 白山神社
この辺りに池尻の一里塚跡があるはずなのですが、見逃してしまいました。日本橋から110里目だそうです。こちはら2016年に撮った写真です。
この先、少し迷いました。
15:27 これが正解の道
15:32 多賀神社
二度目の中山道24日目の5(赤坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/09/220456
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003