二度目の中山道24日目の3
2020年10月11日(日)の3
【美江寺宿入口】
12:22 樽見鉄道線美江寺踏切
12:23 谷汲追分道標
12:23 美江寺宿名所 遺跡図
12:29 美江神社
ここで曲がるべきところを、行きすぎて、戻りました。
12:38 美江神社に戻りました。
今回、美江寺一里塚を見逃したので、2016年のブログを引用します。
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2016.8.18.
踏切を渡るとすぐに美江寺(みえじ)の一里塚跡がありました。
道が大きく左に曲がる右手に美江神社。
美江神社前にて、自転車で通りかかったおじさん(桜吹雪の入れ墨みたいな柄のアロハシャツみたいなシャツを着てました)が、
「神社の一番奥の観音堂の下にパンフレットがあるから、よかったら持っていって」
と教えてくれたので、お礼を言って美江神社の境内に入りました。
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さらに、今回、美江神社境内には入らなかったのですが、2016年には境内に入ったので、そのブログも引用します。
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2016.8.18.
美江神社境内に、高札場が復元されていました。
さっきのおじさんに教えていただいた一番奥の観音堂まで行くと、観音堂の前の地蔵尊が誰かに似ている。寺尾聡かな?
ありがたくパンフレットと美江寺付近の地図をいただき、トイレもお借りしました。
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【庄屋和田家と本陣跡】
12:40 庄屋和田家
こちらは2016年に撮った庄屋和田家の写真です。
12:42 本陣跡
こちらは2016年に撮った本陣跡の写真です。
12:43 開蒙学校跡
12:45 右折する手前
12:46 墨俣道道標
12:51 高札場跡(ベンチがあって、待合室みたいになっていました。)
【千手観音堂と千躰仏】
12:53 千手観音堂
隙間から千手観音が見えました。
12:53 新月橋脇
12:58 千躰寺と千躰仏 案内板
「 千躰寺と千躰仏
千躰寺 は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡の円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木造の阿弥陀如来立像 、千体が八段に並べまつられている。仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。
千躰仏 は、禅僧、自然居士 の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期~南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。
瑞穗市教育委員会 」
案内板に載っていた千躰仏の写真
13:02 神明神社
13:09 張護寺橋
【大月浄水場公園】
13:11 大月浄水場公園
瑞穂市内の中山道は、幕府へ降嫁された皇女和宮の遺徳をたたえて建設された六の『小簾紅園(おずこうえん)』から揖斐川の『呂久の渡し』、田之上(新月)にある鎌倉時代後期の自然居士(じねんこじ)作の千躰仏をまつった千躰寺、天保四年創建の美江寺千手観音堂前、美江寺宿の本陣跡地、明治三十五年再建の美江寺観音、明治十四年改名の美江神社を経由したのち、五六川を渡り、高札場跡地、寛文十年設立の本田代官所跡地、文化六年建立の本田地蔵堂(延命地蔵)がある本田地内を通過し、河渡宿(岐阜市)に通じていました。終戦直前までは、現在の呂久から田之上(新月)に至る両側には江戸時代初期に植えられた松並木が素晴らしい景観を保ち、当時の旅人の心に安らぎを与えていましたが、その後の土地改良等により、残念ながら当時の松並木は消滅してしまいました。
また、中山道は東海道などに比べ水の難が少なく、江戸へ嫁いだ姫君も頻繁に往来したため、別名『姫街道』と呼ばれていました。 」
石畳風歩道
13:18 「船場ヲ経テ太田町」道標
案内板
「 『船場ヲ経テ太田町』道標
平成27年7月瑞穂市宮田地内の民家で家の建替えに伴い発見されました。
50年程前、建設会社に勤めていた家主の父親が加茂地域の道路工事現場から運んできたどしゃに紛れ込んだらしいが、工事現場がどこだったか不明という。
大月浄水場横から向かいの道へ
この道でいいのか不安になってきた頃、「中山道」の道標があり、ほっとしました。
【鷺田橋トレース】
13:30 土手 鷺田橋トレースへ
前回はガイド本に書いてある通り、正面のトンネルを潜って左に行きましたが、今回は潜らないで左に行くよう道標がありました。
道標に従い左折して進むと
鷺田橋に上っていく小道。この小道が新たに出来たので、鷺田橋トレースが前回と変わったのでしょう。
13:42 見えてきた呂久歩道橋を渡ります。(鷺田橋を渡りきると、左へとオレル歩道橋が呂久歩道橋です。)
良縁寺
13:47 白鳥神社
13:49 蓬生寺
【馬渕家長屋門と小簾紅園】
13:50 馬渕家長屋門
馬渕家長屋門前には「明治天皇小休止所」の記念碑があります。
13:53 小簾紅園(おずこうえん) トイレをお借りしました。
13:53 観音堂
小簾紅園内の石碑
この石碑の説明がこちら。
案内板
「 副碑には、遺跡造営の願いや経緯が記されています。前段には、降嫁される和宮様が、御座船が飾らせた紅葉を愛でながら、詩を詠われたこを紹介しています。中段では悲壮な決意で降嫁される和宮様の心境を推察し、後段では記念碑造営の経緯と、その願いが書かれています。
撰文は、下田歌子 書は棚橋絢子です。岐阜県とかかわりが深いこの二人は、明治から大正にかけて、皇族や貴族の女子教育をはじめ、日本の女子教育の推進と発展に活躍しました。 」
金紋先箱を先頭に警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が蜿蜒(えんえん)と続いた。公武合体のため仁孝天皇の第八皇女和宮が、徳川十四代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された時のようすは想像を絶するものであった。
惜しまじな君と民との為ならば
身は武蔵野の露と消ゆとも
と悲壮な御決意をされた宮は、文久元年(一八六一)十月二十日京都を出発され、同十月二十六日瑞穂市呂久の呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになられた。その時、対岸の馬渕孫左衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みになった。これを舷に立てさせられ、玉簾の中からあかずにご覧遊ばされ、
おちてゆく身と知りながら
もみじ葉の人なつかしく
こがれこそすれ
と御感慨をお詠いになられた。この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に和宮遺跡を保存したいという気運が上がり、昭和の初め当時の郡上郡長、本巣郡南部の村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされた。昭和四年四月その名もゆかしい『小簾紅園』が見事に完成し、除幕式が立派に行われた。その後、毎年春と秋の二回、宮の遺徳をしのび例祭が行われている。昭和五十一年十月には、皇女和宮百年祭が秩父宮妃殿下のご来臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御臨席を得て盛大に挙行された。
昭和六十年十月 瑞穂市 」
石碑
「 清流揖川呂久津
當是和宮駐輦屯
悲痛挺身救国難
哀歌一首泣郷民
流祖 西脇関風書 」
小簾紅園内の庭園
13:58 呂久の渡し
案内板
「 呂久の渡し
呂久渡船場跡
天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長一五年(一六一〇)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、一三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれた。
その頃の川幅は、平水で九〇メートル、中水で一二〇メートル、大水では一八〇メートルに及んだといわれている。
文久元年(一八六一)には、皇女和宮親子内親王が中山道を御降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて、『落ちていく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ』と詠まれた。
後に、和宮様の御遺徳をしのび、昭和四年(一九二九)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした『小簾紅園』が建設され昭和四五年(一九七〇)には、巣南町(現瑞穂市)指定史跡となった。
この地『呂久の渡船』」は、大正一四年(一九二五)木曽川上流改修の揖斐川新川付け替え工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。
昭和四五年(一九七〇)
呂久渡船場跡碑建立
瑞穂市 」
案内板左下の呂久の渡しの地図
二度目の中山道24日目の4(大垣市入口から赤坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/09/095028
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003