二度目の中山道26日目の5
2020年11月11日(水)の5
11:21 矢除け地蔵堂
( 説明板より)
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地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。
この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、
通称矢除け地蔵尊と呼ばれ親しまれている。
元は旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたもので、
以後松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、
以来現在の集落を地蔵村と呼ぶようになっ た。
この地蔵さんは、西暦570年三十代敏達天皇のころ、
仏教が伝来した。
当時疫病が流行し、仏教の信仰によるものと、
これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、
守屋からの難を避けてこの地方に隠れておられた。
――中略――
守屋の軍勢が聖徳太子を発見し、
矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。
あとになって松の根方に、
小さな地蔵さんが右肩に矢を射込まれて血が流れた後があった。
世人はこれを尊び一宇の堂を建て、
往来の安全を願った。――後略)とある。
それで地蔵堂の前の松ノ木の下に沢山の地蔵尊がある。
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11:22 素敵な旧家
【史跡 床の山】
11:29 中山道旧跡 床の山
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句碑 中山道 旧跡 床の山
旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。
表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。
「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」
鳥籠山につきましては諸説がありますが、はるか昔、吉野から攻め上った大海人皇子と近江朝の大友皇子の軍が皇位をかけてここで戦いました。また万葉集にもこの2つの山が詠われています。「鳥籠の山」が大堀山で、「不知哉川」(いさやがわ)が芹川であるという説がある。
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11:29 旭森公園(床の山石碑のある公園です。)
案内板
「 たいせき岩の中にくまれて いる炭質物がねつなどの作用 をうけて形をかえてかたまってで きたものである。」
公園内は紅葉がきれいでした。
11:39 地蔵群
11:39 地蔵堂
【石清水神社】
11:40石清水神社
案内板
「 石清水(岩清水)神社
石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する石清水神社は、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら三韓との戦いに出陣、肥前の国(佐賀、熊本県)松浦で無事出産されたといういわれから安産祈願『鈴の緒』を拝受する人が多い。
本殿の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築
大祭は春(4月) 秋(10月)である。
( 大堀町史跡顕彰委員会) 」
階段を上っていくと、途中右側に扇塚がありました。
案内板
「 能楽喜多流(北流)は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、この地で発展した。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち数年間彦根にいて、多くの門人の育成と能楽の発展に力を尽くした。
いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき、門人たちの所望に応じて記念に「面と扇」をあたえた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を建てたのである。もともと一対だったとおもわれるが面塚の行方はわからない。
右側面 享和元年(1801年)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる時にあふぎのしるしとてここにもきたの名を残しおく
(大堀町史跡顕彰委員会) 」
石清水神社境内
【「かどや」跡と井戸】
11:43 「かどや」跡と井戸の
案内板
「 『かどや』跡と井戸の由来
石清水神社前に『かどや』という『お休み処』があった。およそ200年前に建てられ、用材は欅を『チョンノ』(鉋の一種)で削り、くぎは使われていない。内部は幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていた。井戸は岩を掘り下げて、井戸側はなく、岩の間からにじみ出た水で文字どうり『岩清水』であった。
この井戸を掘る時、その位置を決めるのに屋敷のあちこちに、幾つものお椀を伏せておき、露の付き具合が一番多いところが、水量も多く、水点も近いであろうと、西南の角に、決めたといわれている。
江戸時代旅人たちが、この岩清水で沸かしたお茶でのどを潤し、一夜の宿で、旅の疲れを休めたところである。
2005年12月設置
(大堀町史跡顕彰委員会) 」
11:45 唯稱寺
11:46 旧家
11:47 道標
「すぐ 中山道
左 彦根道 」
「すぐ」は、すぐそこ、ではなく、真っ直ぐの意味です。
11:55 多賀神社常夜燈
11:55 近江鉄道本線踏切を渡りました。
【木之本分身地蔵尊】
11:58 木之本分身地蔵尊(大北の地蔵さん)
案内板
「 普通、地蔵様は石造りが一般的であるが、この地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。
側には明治三十三年四月の記で、
『木之本分身地蔵菩薩』と書かれた石柱があり、
木之本浄信寺にある眼病のご利益で名高い、 木之本地蔵の分身といわれている。
しかしその由来等についての古文書は
残念ながら不明である。
高宮街づくり委員会 」
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中山道 高宮宿
中山道高宮宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から
六十四番目の宿場町になります。
天保14年(1843)の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間(約800m)総戸数835軒、人口3,560人、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさで、本陣1、脇本陣2、旅籠数23などの施設を持つ宿場でした。
また多賀大社への門前町としても賑わい、多賀大社一の鳥居が宿中程に建っています。特産品として、室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊な経済力を持っていました。
細い街道筋に松尾芭蕉の句碑、無賃橋など当時を偲ばせる風景が残っています。
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高宮神社太鼓まつり
Discover 滋賀
webアミンチュ(淡海人)より
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【滋賀の祭り】不思議なお祭り 彦根市・高宮神社の太鼓祭り
彦根市では毎年4月に高宮神社で太鼓祭りが行われます。
たくさんの大きな太鼓を担いで中山道を練歩く、鎌倉時代末期から続いている歴史あるお祭りです。
胴回りが6m、重さが2トンもある大太鼓をぜひご覧ください。
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木之本分身地蔵尊のお堂の回りには、エプロン(よだれ掛け)を着けた石野お地蔵様がたくさん立て掛けられていました。
news.livedoor.comより
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お地蔵さんと言えば「赤いよだれかけ」や「赤い帽子(頭巾)」を着けていることがよくあります。
これは、お地蔵さんが「子供を守る神様」として信仰されてきたことから、人々が「自分の子供が健やかに育つように」という願いを込めてよだれかけを奉納するようになったのです。
お地蔵様に奉納されるよだれかけや帽子が赤いのは、「赤」という色に「魔除け」の意味があると信じられていたから。
あなたの町にも静かに佇んでいる、小さなお地蔵さん。
そこには「地域や子供を守りたい」という、地域のみんなの願いが込められているのですね。
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12:02 旧家
【布惣跡】
12:03 宿駅 座・楽庵(布惣跡)
町屋と蔵をジョイントさせた素敵なスペースの喫茶&ギャラリー「宿駅・座・楽庵」は、布惣(問屋場)跡です。
案内板
「 高宮布の布惣跡
高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。
高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。
布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。
現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。 」
座・楽庵の建物は加藤家住宅だそうです。
JAPAN GEOGRAPHICより
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国登録文化財指定:主屋、一之蔵、二之蔵、三之蔵 ■加藤家住宅は、高宮宿の旧中山道に面して建ち、高宮神宮参道と向かい合っている。かつて「布惣」の屋号で高宮布を扱う麻布商だった。
高宮は麻布の集積地として栄えた。この周辺で産出される極細の麻糸で織った高宮麻布は歴史が古く室町時代にすでにその名が知られてた。
産地は犬上・愛知・神崎・蒲生・坂田など今の東近江市近辺の緒郡で高宮の問屋に製品が集積され全国に売り出された。
高宮布の伝統は豊富な軟水、適度な湿気に恵まれて成立った。布惣は大きな問屋で高宮布を全国に宣伝販売していた。江戸時代には彦根藩の保護を受けて大いに栄えた。彦根藩では献上品として高宮布を使った。
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12:03 高宮神社
12:05 馬場提灯店
12:05 松本酒店
【多賀大社一の鳥居】
12:05 多賀大社一の鳥居
案内板
「 高宮の大鳥居
中山道と多賀大社への参詣道(多賀道)の分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永十二年(一六三五)に建立されたもの。柱間は約八メートル。高さは役十一メートルあり、県の文化財に指定されている。鳥居建立工事は、多賀町四手の山中から花崗岩を切り出し、足場は妙蓮寺の裏あたりから階段式に高く土のうで築いたといわれている。
高宮街づくり委員会 」
「 常夜燈
大鳥居の脇に立つ、高さ六メートル、底辺が三・三メートル四方の大きな石造りの常夜燈である。
燈明を灯す小窓までは、石造りで十三段の階段が付いている。古くは一対で建立されていた。
燈明は、暗くなった多賀道に明かりを灯し、道行く人々や多賀大社に参詣する人々が安心してお参りできるための設備で、今の街灯にあたる。
高宮街づくり委員会 」
常夜燈の足元には、道標がありました。
「是より 多賀みち 三十丁」とあります。
【芭蕉の紙子塚】
12:08 芭蕉の紙子塚(かみこづか)
案内板
「 芭蕉の紙子塚
たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
貞享元年(一六八四年)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を描いてこの句を詠んだ。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて『紙子塚』と名づけた。
高宮街づくり委員会 」
【本陣跡】
12109 本陣跡
案内板
「 本陣跡
江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)として宿場に設けたのが本陣である。構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿には本陣が一軒あり、門構え・玄関付きで、間口約十五間、建坪約百二十三坪であったという。現在では表門のみが残されている。
高宮街づくり委員会 」
12:10 円照寺 明治天皇行在聖跡
【無賃橋】
12:13 むちん橋地蔵尊
私が今回行った時、むちん橋地蔵尊には案内板はありませんでしたが、2016年にいった時には案内板がありました。
2016年に撮った撮ったむちん橋地蔵尊の写真です。左の方に案内板が見えています。
何故、その案内板が取り外されたのかわかりませんが、以前設置されていた案内板にはこのように書いてありました。
以前に設置されていた案内板
「 むちん橋地蔵尊由来記
昭和五二年(一九七七)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。
近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代天保三年(一八三二)最初に架橋された『むちん橋』の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、お堂を建立『むちん橋地蔵尊』と名付けてお祀することにした。
以来、河川・交通安全並びに町内の守り本尊として多くの人達の信仰を集めている。
平成十一年八月建之
むちん橋地蔵尊奉賛会 」
12:14 無賃橋
案内板
「 無賃橋
天保のはじめ、彦根藩は増水時の『川止め』で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じて費用を広く一般の人に募らせ、橋をかけさせた。
当時、川渡しや仮橋の通行が有料であったのに対し、この橋は渡り賃を取らなかったことから『むちんばし』と呼ばれた。
現在の無賃橋(高宮橋)は、昭和七年(一九三二)に鉄筋コンクリートで作られた古い橋である。
高宮街づくり委員会 」
渡った先にもむちん橋の石碑がありました。
12:28 地福寺地蔵堂(月通寺)
案内板
「 地福寺地蔵堂(月通寺)
真言宗豊山派の寺院である。
別名『柏原地蔵』とも呼ばれており、本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。
山門前に『不許酒肉五幸入門内』と刻まれた石標があるが、これは延命山地福寺といわれ、禅宗であった頃の名残を今に伝えるものである。
山門は、左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りとなっている薬医門と呼ばれる門の一種である。
平成十年十月に、葛籠町有志一同の山門修繕事業により修復された。
葛籠町自治会 」
【若宮八幡宮「産の宮」】
12:29 つづら村、若宮八幡宮「産の宮」
案内板
「 由緒
若宮八幡宮『産の宮』
南北朝の爭乱の頃足利尊氏の子義詮(よしあきら)が文和四年(一三五五)後光厳天皇を奉して西江州に戦い湖北を経て大垣を平定し翌五年京都に帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、ここで男子を出産した。付人として家臣九名がこの地に残り保護したが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり、髪を下ろして醒悟と称して尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。こゝに土着した家臣九名が竹と藤蔓でつくった葛籠を生産するようになり、松寺の北方に一社を祀りてこの宮が出来た。古来『産の宮』として安産祈願に参詣する人が多い。 」
産の宮井戸の傍らの手水鉢。「足利氏降誕生霊地」と刻まれています。この写真は2016年に撮った写真です。
この写真の家は茅葺きだしタイルを壁に使っていたのが面白くて、2016年に撮りました。 しかし、今回、見つけられませんでした。
12:30 還相寺
12:30 浄土宗了法寺
ここで持参のパンで昼食。トイレもお借りしました。
12:48 蔵
12:51 松並木
12:53 彦根市モニュメント
商人風の男、旅姿の女、麻布の原料を
入れた円筒形の長い俵を担いだ女の像
二度目の中山道26日目の6 (間の宿石畑)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/25/233218
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003