二度目の中山道26日目の6
2020年11月11日(水)の6
【ケヤキ並木】
13:01 日枝神社
13:02 休憩所?
13:02「出町」石標
13:03 ケヤキ並木
これは、2016年に撮ったケヤキ並木です。
13:11 蔵
13:16 春日神社
【豊郷小学校旧校舎群とやりこの郷】
13:20 豊郷小学校旧校舎群
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豊郷小学校旧校舎群は、昭和12年に近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられました。
当時は、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」といわれ、平成25年には国の登録有形文化財に登録されました。
現在は、町立図書館や子育て支援センターなど町の複合施設として利用されており、校舎のご見学も自由にしていただけます。
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アニメファンからは、「けいおん」の舞台に似ている、「けいおん」の聖地、と呼ばれているそうです。
12:32 やりこの郷
豊郷小学校旧校舎群のお向かいに、「やりこの由来」という案内板があります。
案内板
「 やりこの由来
安食南には、古くから『矢り木』(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らして頂くようお願いしたところ、
『安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく』
と、お教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面に矢がつきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を『矢池』と名付けました。この矢をはなった大木が『矢射り木』と呼ばれ、それがなまって『やりこ』と言われるようになったと思われます。
今日、その大木が生えていたところが『矢り木』という地名になって伝わっており、はるか昔の名残をとどめています。
平成七年二月
安食南区 」
【間の宿石畑】
13:42 間の宿 石畑
一里塚の郷 石畑 石標
石畑の一里塚の復元
案内板
「私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。一一八五年(文治元年)源平の争乱の中、八島の合戦で『弓矢の名手』として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民武大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。一二三九年(延応元年)男山八幡宮(京都・・石清水八幡宮)から勧進した八幡神社と一二五七年(正嘉二年)に創建した称名寺があります。
また、江戸時代後期には、街道の往来で賑わっていた中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。
さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、『一里塚』が設けられ、『高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた』と、豊郷村史に記されています。 」
一里塚の復元や、上に紹介した案内板は、八幡神社の境内にあります。
【くれなゐ園】
13:53 くれなゐ園
豊郷町ホームページより
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伊藤忠兵衛翁碑
伊藤忠兵衛の本家のすぐ近くの「くれない園」は、丸紅関係者で結成した酬徳会が初代の功績を偲んで昭和10年に築造したものです。園内には彼の肖像をはめ込んだ碑が建っています。
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伊藤長兵衛屋敷跡碑
碑の脇に「 九代目伊藤長兵衛(1868~1941)の偉業」の碑があります。(Wikipediaには、七 代目とある。)
16歳で伊藤長兵衛商店に入り、六代目の娘婿となり、九代目を襲名、1921年には伊藤忠商店と合併し、株式会社丸紅商店を設立し、初代社長となる。
1925年には私財と土地を寄付し、財団法人豊郷病院を創設し、1997年には子孫が当地を寄付して、病院の駐車場となっている。
この石碑は、財団法人豊郷病院によるものです。
滋賀・びわ湖観光情報より
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伊藤忠兵衛記念館
現在の大手商社伊藤忠(いとうちゅう)・丸紅(まるべに)の創始者で近江商人の筆頭としてあげられる伊藤忠兵衛(いとうちゅうべえ)(1842-1903)が住んでいた屋敷を記念館として開放しています。
忠兵衛は繊維品小売業を営んでいた紅長(べにちょう)の家に生まれました。彼は、17歳で西日本へ近江麻布を持って行商に出かけ、長崎出島で見た海外貿易の盛んな様子に刺激され、後に我国の海外貿易のパイオニアといわれるまでになった人物です。貿易のほか、銀行・造船・保険なども手がけ、豊郷村の村長も務めました。
忠兵衛の旧宅(現在は記念館)は、旧中山道に面し、「見越しの松に黒い塀」と呼ばれる板張りの塀と、その向こうに見える松がひときわ目立ちます。内部は、忠兵衛が生活していた頃をそのままの形で残されています。また、旧宅のすぐ近くに伊藤忠兵俺の遺徳を偲んで造られた、くれない園があります。
現在の大手商社伊藤忠(いとうちゅう)・丸紅(まるべに)の創始者で近江商人の筆頭としてあげられる伊藤忠兵衛(いとうちゅうべえ)・ 丸紅(まるべに)の創始者で近江商人の筆頭としてあげられる伊藤忠兵衛(いとうちゅうべえ)(1842-1903)が住んでいた屋敷を記念館として開放しています。
忠兵衛は繊維品小売業を営んでいた紅長(べにちょう)の家に生まれました。彼は、17歳で西日本へ近江麻布を持って行商に出かけ、長崎出島で見た海外貿易の盛んな様子に刺激され、後に我国の海外貿易のパイオニアといわれるまでになった人物です。貿易のほか、銀行・造船・保険なども手がけ、豊郷村の村長も務めました。
忠兵衛の旧宅(現在は記念館)は、旧中山道に面し、「見越しの松に黒い塀」と呼ばれる板張りの塀と、その向こうに見える松がひときわ目立ちます。内部は、忠兵衛が生活していた頃をそのままの形で残されています。また、旧宅のすぐ近くに伊藤忠兵俺の遺徳を偲んで造られた、くれない園があります。
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【犬上の君遺跡公園】
14:00 犬上の君遺跡公園
滋賀・びわ湖観光情報より
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犬上氏は、現在の滋賀県犬上郡にゆかりのある豪族です。
もとは「犬上君(いぬかみのきみ)」と名のっていました。
犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)が遣隋使や遣唐使を
歴任、犬上君白麻呂(いぬかみのきみしろまろ)が高句麗に派遣されるなど、対外交渉の分野で活躍しました。
一族には「犬上建部君(いぬかみのたけべのきみ)」と名のり、
孝徳天皇(六四四〜六四五年)の即位儀式に立ち会うものも
いました。天武天皇一三年(六八四年)以降は、「犬上朝臣
(いぬかみのあそみ)」と名のるようになりました。
平安時代のはじめには、本拠を平安京に置いていたよう いていたようですが、
その一方で犬上郡に住み、犬上郡司をつとめる 一族がいたことを
確認することができます。
『日本書紀』の景行天皇五十一年八月壬子条で、犬上氏は、
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子孫であると言われ、
日本武尊と両道入姫皇女(ふたちいりひめのみこ)との間に
生まれた稲依別王(いなよりわけのみこ)が犬上君の祖先だと
説明されています。
この地より南西の集落の中心にある鎮守が犬上神社です。
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犬上の君遺跡公園内の六地蔵
同公園内の、江州音頭発祥地の案内板
案内板
「 江州音頭発祥地 豊郷江州音頭は、和尚と村人の合作だ。
豊郷町中山道沿い下枝地先に在る日吉山千樹寺は奈良時代行基により創建され、幾度の火災によりたびたび焼失しましたが、その度に再建が行われ、その落慶供養の余興の中で、『江州音頭』の原形ができ上がりました。
千樹寺は、永祿・元亀年間(1558~1572年まで)の頃、織田信長と天台宗派の内紛に巻き込まれ、戦火に遭いましたが、天正十四年(1586年)、当地の藤野太郎右ヱ門は、浄財を投じて再建したとき、当時の住職、根誉上人はその落慶供養の余興として、境内に人形を多数並べ、参拝の老若男女を集めて手踊りし、自ら、
『ぎゃあてい ぎゃあてい
はらぎゃ
あてい はらそうぎゃあてい
ぼうちそわか 』等
経文の二、三句を節おもしろく繰り返し、音頭の調子をとり、手振り
足踏み踊り出すと、見物人も踊り出し
夜の更けるのも忘れて踊りあかしたという。
それ以来、毎年七月十七日(旧暦)に
この行事は続けられました。 」
同公園内に紅葉と赤い実がきれいな木。多分ハナミズキだと思います。
14:06 豊郷駅着
本日の歩数 36,801歩 22.44km
二度目の中山道27日目の1(間の宿石畑から愛知川宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/26/084940
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003