紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

むちん橋の由来 (愛知川宿)

むちん橋の由来

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案内板
「 『むちんばし』の由来

『旅人をあはれみかけてむちんばし、深き心を流す衛知川』
西園寺藤原実丈
(さいおんじふじわらさねたけ)

この歌は愛知川宿の成宮家に家宝として残る一部。鈴鹿山系の水を集める幅二百余メートルの愛知川は、出水すると『人取り川』の異名のとおり、川沿いの人々(住民・民衆)をのみ、通行する旅人を困らせました。愛智川宿の、成宮弥治右衛門忠喜(ただよし・一七八一年―一八五五年)が四人の同志とともに、彦根藩に橋の建設を申し出たのは文政十二年(一八二九年)のことです。三年の歳月をへて、天保二年(一八三一年)に完成したのが無賃橋です。
当時の橋は通行料を支払うのが普通でしたが、慈善事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ばれました。安藤広重中山道六十九次『恵智川』にも『むちんばし はし銭いらず』として描かれて、後世にその篤行を伝えています。
愛知川の豊かな流れに沿ったこの地方一帯は、古くから交通の要所として栄え、江戸時代には中山道の宿場町として発展し、寛永十年(一六三三年)からは、幕府から『往還馬次米(おうかんばじまい)』として毎年十一石(こく)五斗七合の米が支給され、また、本陣・脇本陣も設置されました。
その後、橋は、愛智川宿の人々により大切に保護され、明治に入ると、二十二年の、大津―長浜間の鉄道開通、三十一年の近鉄彦根八日市間の敷設などで中山道はだんだんさびれたが、いちじるしい交通網の発達、道路の整備で、再び交通の要所となりました。
現在の御幸橋は、こうした歴史を秘めて昭和三十六年、国道八号線の新設とともに架橋されたものですが、橋名の由来は、明治十一年秋、天皇巡幸を記念して建設された木橋を御幸(みゆき)橋と名付けられ、かぞえて四代目のものです。」