紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

連雀町の由来 田町絹市場の由来

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案内板
連雀町の由来

連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。

 高崎の散歩道より  」

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案内板
「 絹市場の由来
 高崎生絹大織売買所は通称『絹市場』と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、『お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと』と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。 」