紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

金久保神社

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案内板
「 金久保神社
1962年2月22日指定
上里町指定文化財

金久保神社は大永5年(1525) 金窪城主斉藤盛光が 鎌倉の鶴岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、 神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失しました。その後、 元和年間(1615~24)に 村民より中山道の現在の地 に 遷座したと伝えられています。
ここには、拝殿に狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描か れた天井絵があります。 この天井は中央に雲竜図が描かれ、 そのまわりに66枚の花鳥画が描かれています。中央の龍の絵に『文久3年(1863) 癸(みずのと)亥卯月吉日 狩野探僕守邦門人 祥雲斎俊信画』とあります。
また、拝殿の外側の彫刻は、もともと東京の湯島天神に設置する予定だったものを譲りうけたもので、明治の中頃に造 られました。
この神社には金久保神社獅子舞保存会があって、今でも秋の大祭には獅子舞が行われています。
上里町教育委員会


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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
金窪神社 御由緒
上里町金久保一五一一―八
□御縁起(歴史)
神流(かんな)川と烏川の合流点付近に位置する金久保は、『金窪』とも書き、その地内には秩父郡土豪で、南北朝時代新田義貞と供に転戦した畑(はた)時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は、戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に徳川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斎藤氏の居城であった。
『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運守護の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に、口碑によれば、元和年間(一六一五〜二四)に中山道の回答によって現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇メートルほど東にある旧地は『元八幡』と呼ばれている。
江戸時代には天台宗長命寺別当であったが、神仏分離に頼その管理を離れ、明治五年に村社となった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後、明治四十一年に字松原の無格社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には、字西金の村社丹生(たんしょう)神社、その境内社三社、大字内の無格社七社の計十一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。

□御祭神と御神徳
誉田別命(ほむたわけのみこと)・・・
交通安全、厄除開運、家内安全

□御祭日
(以下略) 」