二度目の中山道28日目の1
2020年3月20日(金)春分の日の1
【五個荘 大神宮常夜燈】
中山道近江路にやって来ました。
夜行バスで南草津に着いたのが早朝5:35頃。
5:51発 米原行きに乗り、近江八幡で近江鉄道に乗り換え。持参のパンで車内で朝食。途中、車窓から日の出が見えました。
7:13 五箇荘(ごかしょう)駅着。
7:25 出発
7:28 小幡町御代参街道への道しるべ
7:31 大神宮常夜燈
7:34 大同川の橋を渡り、左折して大同川沿いの道を歩きます。
橋には、てんびん坊やのレリーフが。
7:38 藁葺き屋根の家。
7:39 地蔵堂
7:39 てんびんの里 五個荘の絵地図(ポケットパーク)
【松居家住宅洋館】
7:40 松居家住宅洋館(旧五箇荘郵便局)
滋賀報知新聞社 東近江・湖東ニュースより
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登録有形文化財に 五個荘の松居家住宅洋館
2008年12月14日(日) 第15214号|東近江・湖東 ニュース
◇東近江・五個荘 国の文化審議会(石澤良昭会長)は十二日、東近江市の松居家住宅洋館などを登録有形文化財とするよう文部科学大臣に答申した。 国の歴史的景観に寄与しているものやデザイン・建設技術が優れている築後五十年以上の建物を対象に、全国二十八都道府県四十三市町村から百五十八件が答申された。登録されると、県内では二百六十九件目となる。 松居家住宅洋館は、旧中山道沿いの東近江市五個荘竜田町に建つ大正十四年築の洋館で、昭和三十九年まで「五箇荘郵便局」として使用され、かつては一階にホール、事務室、道順区分室など、二階に局長室兼応接室、会議室などがあった。 建物は木造二階建て鉄板葺、建築面積六十一平方メートル。大正期に流行したゼツェッション(十九世紀末のドイツとオーストリアで生まれた芸術の革新運動)の影響を強く受けており、直線・直角で構成された外観は、細部の装飾まで大小の四角い凹凸で幾何学形態がつくられ、正面中央部と両端の突出部を強調している。また、外壁には川崎鉄網(木造の骨組みの上に鉄網を張り、コンクリートを塗り込むラスモルタルの原形)を使用するなど、大正期の意匠・工法が使用されている。 審議会では、郵便局として使用されたことから地域のランドマーク的な存在であり、建設時の設計図書等が保存されていることも含め、貴重な建物として答申した。
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そして、2009年1月8日に登録有形文化財(建造物)に指定されました。
wikipediaで調べてみると、
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五個荘町(ごかしょうちょう)は、滋賀県神崎郡にかつて存在した町。近江商人発祥地の一つとして知られる。
(2005(平成17年)2月11日に近隣の町と合併し、東近江市となりました。)
概要
古来より交通の要衝で、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、現在も国道8号と東海道新幹線が町中央部を横断している。その利点を活かして、中世以降近江商人発祥地の一つとして発展。特に江戸時代後期から昭和初期にかけて多くの商人が発生し、成功して財を成した商人の屋敷や庭園などが残る。1980年代後半頃から「近江商人発祥の地・てんびんの里」のキャッチフレーズのもと、それらの保存活動や観光資源化が進められている。
町名
繖山東麓にあった「山前荘(やまさき、やまざき、やまのまえ-のしょう)」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。
かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っているが、自治体名としては発足当初から「五個荘町」であり、「五箇荘町」は誤りである。俗に「ごかのしょう」とも読まれる。合併によって五個荘町は消滅したが、町名を残してほしいという意見が多かったため、合併後も宮荘を除いて住所表記を「東近江市五個荘○○町」として町名を残している。
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松居家住宅洋館は一般住宅のため普段は公開されていませんが、GWなど、限定公開されることもあるそうです。
【西澤梵鐘鋳造所】
7:40 西澤梵鐘鋳造所
立派な紅殻(べんがら)塗りの門の前に大きな梵鐘が置いてあります。
滋賀県ホームページ「こころに残る滋賀の風景」より
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(株)西澤梵鐘鋳造所では、江戸時代から続く梵鐘づくりが昔ながらの鋳造方法で造られています。梵鐘の原料は銅と錫の合金で、鋳物の成形は全て手作業。一つの梵鐘を製作するには、型作りに始まり、鋳込み、型ばらし、仕上げまで、通常2~3ヵ月かかります。
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2016年9月6日に、2度目の中山道スポット歩きで五箇荘にやって来た時、西澤梵鐘鋳造所の前に、暑いのに服装がきちんとしていて上品そうなご年配の男性が立っていらして(歌舞伎役者さんのようなイメージでした)、私が巨大な梵鐘に驚いていたら、
「この鐘は私が作ったんですよ。」
とにこにこされていました。
西澤梵鐘鋳造所の社長さんか会長さんか。その立派な男性と梵鐘の写真を撮らせていただきたくて、
「写真を撮ってもいいですか」
と聞いたら、男性は
「どうぞ」
と梵鐘から離れてしまい、結局梵鐘の写真しか撮れませんでした。
思い出を頼りに絵手紙に描いてみました。どんな服装だったか。暑いのにビシッとされていたことしか覚えていません。
滋賀新聞2005年10月5日号に写真と記事が載っていました。
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【西澤梵鐘鋳造所】五個荘三俣。300年の歴史を持ち、いまも伝統的な手仕事でぼん鐘作りを続けている=写真左。
主人の西澤吉太郎さん(72)は9代目。注文は全国各地から寄せられ、作品のいくつかは米国やカナダにも渡っている。見学希望者は事前申し込みが必要。電話0748(48)2061
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私がお会いした立派な男性は、この西澤吉太郎さんだと思います。2005年に72歳とすると、2016年にお会いした時は83歳、今回2020年には、お会いできませんでしたが、87歳ですね。
と、思っていたら大阪にある国立民族学博物館のホームページに西澤吉太郎さんのプロフィールが載っていました。
国立民族学博物館ホームページより
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西澤吉太郎(株式会社西澤梵鐘鋳造所 代表取締役社長)
1930(昭和5)年滋賀県生まれ。江戸時代以来、東近江市五個荘三俣町(当時は三俣村)で、代々梵鐘造りを中心に鋳物師の頭領として活躍してきた一族の現当主。1983年に第三代吉太郎を襲名。一子相伝の技法を今に守り伝える名工。
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1930年生まれなら、現在90歳か91歳ではありませんか。
何故、西澤氏のプロフィールが載っていたかというと、国立民族学博物館で、2008年11月1日に西澤梵鐘鋳造所の梵鐘造りの記録映画を上演したのです。
国立民族学博物館ホームページより
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この映画は、国立民族学博物館が1995(平成7)年5月9日から7月5日の約2ヶ月間にわたり、西澤梵鐘鋳造所が、大型青銅製品である梵鐘を鋳造する全工程を詳細に撮影した学術映像記録です。鐘の製作工程を通して、日本の伝統的な鋳造技術や鋳物師とよばれた職人の仕事の実態を知ることができます。
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梵鐘の鋳造記録映画、観たかったなあ。
7:44 大将軍川の標示
「この川は、大将軍川(たいしょうぐんがわ)です。
竜田町自治会 」
【新堂町の常夜燈】
7:45 常夜燈(道標)
台座に 「左 いせ ひの 八日市」
「右 京道」
と刻まれています。
案内板
「 新堂町(しんどうちょう)の常夜燈
基壇の部分に『右 京道』『左 いせ ひの 八日市』と刻まれているんだ。
新堂村(五個荘新堂町)を経て御代参街道へと至る分岐点のひとつを示すもので、天保15年(1844)9月の建立なんだ。
宝珠・請花・笠・火袋・中台・棹・反花・基壇
の全てが揃った美しい常夜燈だよ。
ここは五個荘新堂町
五個荘地区まちづくり協議会・
中山道五個荘にぎわい事業委員会」
7:49 明治天皇北町屋御小休所
案内板
「 明治天皇北町屋御小休所
明治11年(1878)明治天皇が北陸東海巡幸の際に、10月12日高宮円照寺を発し、愛知川竹平で小休の後、市田太郎兵衛邸で小休し、武佐の広済寺に向かわれたんだ。
帰路は東海道を三重県に向かう予定だったんだが、桑名で疫病発生のために再び中山道に変更となり、21日往路と同じく同邸において小休されたんだ。
市田家は、丸棒の屋号を持ち、呉服等を商う近江商人だったんだよ。
ここは五個荘北町屋町
五個荘地区まちづくり協議会・
中山道五個荘にぎわい事業委員会」
7:50 お堂
7:54 北町屋の郷
東近江市のコミュニティセンターだそうです。
【京町屋風商家 市田庄兵衛家本宅 】
7:55 市田庄兵衛家本宅
案内板
「 京町屋風商家の保存
この建物は明治初期の建築で、江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した、市田庄兵衛家の本宅です。
奥に細長い京町家風の建築様式で、平成十三年に北町屋町が購入、保存、活用しています。(市指定文化財)
7:56 大郡神社
【 片山半兵衛家と金毘羅大権現常夜燈】
7:58 片山家と金毘羅大権現常夜燈
案内板
「 片山半兵衛家
片山家は、武佐宿と愛知川宿の中間に位置し、小休所として大名家等に利用された んだ。当家に残る資料によると享保17年(1732)松平大勝太夫様(長門国藩主 毛利氏)を初めとして、元治元年(1864)の尾州前大纳言様(名古屋藩主徳川氏)、同御家老山村多門様に至るまで、計72件の喜六が残されているんだよ。
五個荘地区まちづくり協議会・
中山道五個荘にぎわい事業委員会」
8:02 観音正寺(かんのんしょうじ)道標
案内板
「 観音正寺への道標(みちしるべ)
正面に『三十二番くわんおん山』
右側側面に『是より十八丁』と刻まれており、ここから西国三十三ヵ所観音霊場、第三十二番札所『観音正寺(かんのんしょうじ)』へと続く道を示していて、
享和3年(1803)6月に建立されたんだよ。
ここは五個荘石塚町
五個荘地区まちづくり協議会・
中山道五個荘にぎわい事業委員会」
【石塚の一里塚跡】
8:06 石塚の一里塚跡
案内板
「 中山道 石塚一里塚史跡
石塚一里塚は、中山道を江戸日本橋から123里(483km)の、この地にありました。
徳川家康は、慶長六年(1601年)江戸城防衛を目的に、街道の整備を始め、東海道は寛永元年(1624年)に完成しました。
中山道は木曽路の街道化に時間が取られ、全体の完成は元禄七年(1694年)でしたが、近江地区の中山道は、慶長十三年(1608年)に完成していました。
石塚一里塚は、明治六年の『石塚村地券絵図』に、『一り塚(地番)二百三十五』と円形に記録され、一里塚の存在を証明しています。
昭和四十年発行の『近江神崎郡志稿 下巻』には、『本郡中山道なる一里塚は旭村大字石塚の郊外おぶく田(御仏供田)と呼ぶ處にあり、塚は担らげられ畑となってあるが、下廻の石垣は在してある。』と記され、つい最近まで、一里塚史跡の石塚が残っていたことが確認できます。
天保年中に出版された『東海木曾両街道道中懐寳圖鑑』に、『清水鼻北町屋間の一里塚には東方榎二本西方一本』とあり、石塚一里塚には、恵野木が植えられ、石塚が側は2本、山本側は1本で、これは『中山道分間延絵図』の一里塚の図に一致します。 」
8:08 松並木
8:10 てんびんの里モニュメント
ここで国道8号線に合流しました。
【清水鼻の名水】
8:12 清水鼻交差点
この先で右折しました。
8:16 清水鼻の名水
案内板
「 湖東三名水の一つ、清水
昔から湖東三名水の一つ、清水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。
古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、道行く人達にも潤いを与え、喜ばれています。
2016年に来たときは、備え付けのジョッキで名水をいただき、とても美味しかったのですが、コロナ禍の今、置いてあるコップを使うのも、流れているとはいえ、ここのミズヲ飲むのも怖いので、残念ながら今回は飲みませんでした。
「近江ノ國 清水鼻の名水 旧中山道」と刻まれた石碑
清水鼻の名水の前に並んでいるエプロン地蔵
8:18 浄敬寺
浄敬寺から出たら、急に雨。それも、急に寒くなりました。寒冷前線通過?
二度目の中山道28日目の2(老蘇の森から西生来)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/01/144235
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003