二度目の中山道27日目の3
2020年11月12日(木)の3
【睨み燈籠(東側)】
愛知川の一里塚跡から暫く国道を歩きます。
幾つか横断歩道があるので、左側に渡っておきます。
9:44 分岐、斜め左へ
9:45 祇園神社
愛知川を挟んで2つの睨み燈籠があり、こちら側(東側)の睨み燈籠
案内板
「 常夜燈
弘化三年(一八四六)に建てられたこの常夜燈は、総髙四・三五メートルで、基礎の四周には寄進者や石工の名が刻まれている。寄進者には愛知川宿の宿役人のほか、次宿、武佐の人々で構成される『武佐郷中』、伊勢参りの『伊勢講』などの集団名が見える。
弘化二年の史料によれば、五〇年前、街道筋の愛知川両岸に燈籠が建てられていたが、放置されていたという。その後、対(南)に新たな常夜燈が建てられ、北岸にもあらためて建てることになったと経緯が記される。
建立場所である祇園神社は、もとは牛頭天王社といわれ、愛知川宿に鎮座していた。愛知川での水難事故を減らすために架けられた『むちん橋』の守護神として天保九年(一八三八)この地に遷座した神社である。
橋神のもとで絶えず明かりをともす常夜燈の存在は、愛知川宿への道しるべであるとともに、旅行者の安全を祈る地元民の思いのあらわれでもある。
「牛頭天皇川原ニ移由来」
読めないので、調べたら、愛荘町ホームページにこんな記事がありました。
愛荘町ホームページより
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祇園神社
もとは八幡神社近くに牛頭天王社として鎮座したが、愛知川渡河安全のため天保9年(1838年)に河畔に遷座して祇園社と改称されました。愛知川の渡しの常夜燈が向岸と対に建てられています
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9:50 御幸橋(愛知川)を渡りました。
9:53 愛知川南踏切を渡りました。
【睨み燈籠(西側)】
9:55 中町出町(なかちょうでまち)の常夜燈
案内板(三代目ごかしょうてんびん坊や)
「 中町出町の常夜燈
この灯篭は、対岸の祇園神社境内の西隅にある灯篭(弘化3年(1846)2月建立)と対峙しているもので、『にらみ灯篭』ともいわれ、愛知川を渡る人々の安全を守り、中山道を往還する旅人の大切な道しるべだったんだ。
文政8年(1825)4月に『中村講中』が建立したんだよ。
五箇荘地区まちづくり委員会・
中山道五箇荘にぎわい事業委員会」
9:57 秋葉神社常夜燈
9:58 愛宕神社
【東嶺禅師生誕の地 】
9:59 東嶺禅師(とうれいぜんじ)生誕の地
案内板(三代目ごかしょうてんびん坊や)
「 東嶺禅師生誕の地
享保4年(1719)この地に生まれ、幼児より神童の誉れあり。9歳の時に自ら請うて五箇荘中町の齢仙寺を経て、能登川大徳寺に入り剃髪、出家されたんだ。
臨済宗中興の祖・白隱慧鶴に師事し、禅の道を定め一門の隆盛につくされ、寛政4年(1792)齢仙寺において、示寂されたんだよ。
五箇荘地区まちづくり委員会・
中山道五箇荘にぎわい事業委員会」
10:02 小幡踏切を渡りました。
10:05 聖徳太子御舊跡 善住寺
【中澤酒造】
10:05 中澤酒造
案内板(三代目ごかしょうてんびん坊や)
「 中澤酒造
中澤酒造は昭和23年(1948)小幡の地で創業されましたが、平成12年(2000)一旦休業しました。現蔵元の中沢一洋さんが、再開を模索していたところ、畑酒造の蔵元から誘いをうけ蔵人として研鑽を深め、平成16年(2004)に自身のブランド『一博』を立ち上げたんだ。そして平成27年(2015)に念願の自社蔵を復活されたんだよ。
五箇荘地区まちづくり委員会・
中山道五箇荘にぎわい事業委員会」
10:06 小幡神社御旅所
10:07 長寳寺
【小幡町御代参街道への道標 】
10:08 小幡町御代参街道への道標
案内板(三代目ごかしょうてんびん坊や)
「 小幡町御代参街道への道標
小幡町から奥町をへて八日市へ至る『御代参街道』への重要な分岐点で、『右 京みち』『左 いせ ひの 八日市みち』と刻まれているんだ。
享保3年(1718)丁酉(ひのととり)の建立なんだよ。
五箇荘地区まちづくり委員会・
中山道五箇荘にぎわい事業委員会」
10:10 五箇荘駅着
トイレに行っていたら、10:14発の電車が行ってしまいました。
ここまでの歩数 10,888歩 6.64km
五箇荘発11:02に乗り、八日市、近江八幡で乗り換えて大津へ向かいました。
二度目の中山道28日目の1(五箇荘から武佐宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/27/185104
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003