紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道1日目の2(板橋宿)

2度目の中山道1日目の2

2月24日(月)振替休日の2

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9:21 板橋平尾宿
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案内板
「 ここは板橋平尾宿

 中山道六拾九宿の第一番宿 江戸日本橋より約二里九丁(約九キロ)駕籠や・馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった。 」

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環七を渡り、板橋宿のゲートを潜ろうとしたら、ゲートの上にオーバーオールを履いた親子のうさぎが座っている!
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青空に白いうさぎが映えて、絶好の写真チャンスなのに、スマホが電池切れ。充電器に繋げたけれど、暫くは写真を撮れない。数分待ってみたけれど復活せず、きっと出口側にも同じゲートがあるんだろうことを期待して、出発しました。

商店街のあちこちに、餅をつくうさぎや、アイロンをかけるうさぎなどの旗や看板が出ていて、板橋宿とうさぎはどんな関係なのかな?
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調べてみたら、 板橋宿の不動通りのキャラクターのラッピー。不動通りのキャラクターですが、板橋宿全体のキャラクターではないようです。

ラッピーは、ラパン(フランス語でうさぎ)とhappyを足した造語だそうです。

板橋宿仲宿の出口にも同じラパン親子のゲートはありましたが、逆光で、入り口で見た、青空に白いウサギが映えて美しい、さっきのイメージの写真は撮れず、残念。逆光ですが貼っておきます。
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9:34 板橋宿案内板
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案内板
「板橋宿今昔みちしるべ


板橋宿

日本橋から北ヘ、中山道第一番目の宿場。東海道品川宿日光街道千住宿甲州街道内藤新宿とならび、江戸四宿に挙げられている。
中山道を京方面から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に、また、ここから中山道ヘ旅立っていった。
宿場は南から平尾宿、中宿、上宿で構成され、本陣が一軒、脇本陣が三軒、五十四軒の旅篭屋があった。


加賀藩下屋敷

板橋宿の旧街道に面した町場部分の外は、畑と水田が広がり、南東部一帯は二十二万坪(約72.6ha)におよぶ加賀藩下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和三年(一六八三年)とされる。
明治維新により、江戸内の藩邸や武家地が官有地どなった時、加賀藩下屋敷も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治九年(一八七六年)のことである。
これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に集積する契機となった。


如意山観明寺

真言宗豊山派で、室町時代の創建。本尊は正観世音菩薩。入口に寛文元年(一六六一年)に建立された庚申塔がある。
境内の豊川出世稲荷と赤門は、かつて加賀藩下屋救にあったもの。明治時代には、宿場の賑わいを回復しようと成田山のお不動様を勧請し、縁日を開いて繁栄した。


近藤勇と豊田家

新撰組隊末であった近藤勇は、慶応四年(一八六八年)、板橋処刑場で処刑された。近藤の墓そのものは、現在のJR板橋駅前 にあるが、処刑される直前まで平尾宿の脇本陣豊田家に軟禁されていた。
豊田家は、代々平尾宿の名主として、江戸時代中期より脇本陣を務めた。脇本陣の建物自体は現存していないが、明治末期まで江戸時代の風情をとどめていた。現在、脇本陣の跡には碑が立っている。」


やっとカメラが復活しました。

9:34 観明寺と寛文の庚申塔
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案内板
「 観明寺と寛文の庚申塔

 当寺は、真言宗豊山派の寺で、 如意山観明寺 と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人びとの信仰を集めました。
 明治6年、当時の住職照秀和尚は、街の繁栄祈願のため、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、この不動様に由来します。
 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当時へ遷座されました。
 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月に造立されたもので、 青面金剛像 が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。

 平成12年6月 板橋教育委員会

こちらが観明寺。
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9:47 板橋
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案内板
「 板橋

この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(一七九八)と天保年間の二回修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。

平成十二年三月
板橋区教育委員会

9:52 板橋宿上宿
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案内板
中山道板橋宿上宿

江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約一・七)でした。天保十四年(一八四三)には人ロニ四四八人、家数五七三軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。
板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。
平成十四年(二〇〇二)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長七年(一六〇二)から四〇〇年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。

平成十四年十一月
板橋区教育委員会

9:53 縁切榎
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案内板
「 縁切榎(えんきりえのき)
板橋区登録文化財

 江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助 の抱屋敷(かかえやしき)がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切り榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(一八六一)の和宮下向(かずのみやげこう)の際には、五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路(うかいろ)がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆(おお)ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書(ふれがき)の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削(そ)ぎとり煎(せん)じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。

平成十八年三月
板橋区教育委員会

境内の、写真に写した碑は、往時の縁切榎の一部を残したものでしょうか?
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往時の縁切榎のイメージ画が、絵馬に描かれていました。
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縁切り榎の奥にトイレがあったのでお借りしました。

悪縁を断ち、良縁を招き入れるという事で、この前を通る通りは縁結びロードというらしいです。

その先にセブンイレブンがありましたが、白いボディーの電動の貸し自転車が並んでいました。
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HELLO CYCLING という、ソフトバンクセブンイレブンが提携した貸し自転車で、 HELLO CYCLING ステーションなら、どこでも乗り捨て自由なんだそうです。

10:19 氷川神社
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立派なクスノキがありました。
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そろそろ休憩したいと思っていたのですが、縁側には先客のおばあちゃんがいて、なんとなく遠慮してしまいました。

そのすぐ先右側に寶勝山南蔵院
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11年前に通ったときは、この南蔵院の垂れ桜がきれいでした。写真は11年前に撮ったもの。
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両塚揃っている志村一里塚が見えて来ました。
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そして、志村一里塚に到着する直前に、

10:31 齋藤商店
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案内板
「 齋藤商店

齋藤商店は、襷を主に扱う原木商として明治二十二年(一八八九)に当地で創業しました。現在は竹材を主とし、幕や笈などの竹製品も商っています。
現在の建物は、昭和八年(一九三三)の中山道(現:国道一七号線)の拡張工事に伴って新築されたものです。
建物全体は、店舗部分と住居部分が一体となっており、下屋庇(しもやひさし)を廻したL型平面の入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)の平屋に二階部分を載せた複雑な構造となっています。築材には国産材を使っており、また宮大工が建てたとも伝わりますが、大工の名前などは不明です。
建物の外観には、破風(はふ)を各所に見せる複雑な屋根の構成や、二階の窓の手すりに高欄風の反りを持たせるなどの意匠が見られます。さらに外壁には真壁漆喰塗りが施されています。
齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(大正十一年国史跡)と一体化した町のランドマークとしても親しまれています。また、平成四年には
『活き粋いたばしまちなみ景観賞』にも選ばれています。
齋藤商店は、区の歴史や文化に関係が深く、また、意匠的、技術的にも優秀であることから、区の建築史を明らかにするうえで重要な建造物です。平成二十四年度に登録文化財となりました。

平成二十六年二月
板橋区教育委員会

11:32 志村の一里塚
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案内板
「 志村一里塚

江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六〇四)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより五間(約九m)四方、高さ一丈(約三m)の塚が江戸日本橋を起点として一里(四㎞弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(一八三O)の『新編武蔵風土記稿』では『中山道往還の左右にあり』と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(一八七六)に廃毀(はいき)を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(一九二二)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。

平成十七年三月
板橋区教育委員会

反対側の一里塚を、道路のこちら側から撮ったもの。
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その先、左側にミニストップが見えたので、そこで休憩しようかと思っていたら、右側にマックがあったので、ちょこっとマックで休憩しました。
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10:57 志村坂上交差点
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この辺りから迷ってしまいました。

迷わなかったらどんな景色が見られたのか、11年前のブログにはこう書いてありました。

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志村坂上国道17号線から別れ、暫く行くと下りながらカーブする清水坂

清水坂碑の反対側の家の庭に、桜の大木が花を咲かせていました。

下っていくと、線路の高架下を潜る手前に、小さな広場。清水坂の地名由来となった泉が流れ出ています。

道は少し上って、17号を斜めに横切ります。

少し左に進んだところにある歩道橋を渡り、その先の環八は信号のある横断歩道を渡って、また脇道に入ります。

何本かの道を横切り、また国道17号線に合流します。

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清水坂碑と、清水坂の地名由来となった泉が見られなかったのが残念です。


12:36 志村坂下交差点
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やっと、旧中山道に戻ることが出来ました。

12:42 蓮根川緑地
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12:47 志村橋
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橋を渡って、パチンコGARDENを回り込みます。写真の橋の右前方に見えている、緑と白の斜めの縞模様の印象的な建物がパチンコGARDENです。

12:51 舟渡の板碑
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案内板
「 舟渡の板碑

ここで祀られている石造物は、鎌倉時代から室町時代末にかけて親や自身の供養(逆修)のために造立されていた石製の供養塔で、板碑と呼ばれています。一般的に板碑の表面には、仏を表す梵字(種子)や、被供養者名、供養年月日、供養内容が刻まれています。旧武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)で分布するものは、荒川上流で産出する緑泥片岩(秩父青石)を板状に加工し、その最上部を山形に成形し、二条線を施す特徴があり、武蔵型と呼ばれています。
ここの板碑は、周辺にあったものをお祀りしたもので、破片を合わせて十基あります。そのうちの四基は、文明九年(一四七七)、文明十七年(一四八五)、明応五年(一四九六)、大永年間(一五二一〜二七)、の年号が確認できます。舟渡一〜三丁目には舟渡遺跡があり、近年の発掘により、古墳時代から中世にかけての遺構や遺物が出土していますので、ここの板碑も舟渡遺跡に由来するものと考えられます。
なお、最近までここの板碑が『はしか』の平癒に霊験あると信じられていました。

平成三十一年一月
板橋区教育委員会

この案内板に、「ここで祀られている石造物」と書いてあるのに、案内板が立つフェンスの中にはそれらしきものはありませんでした。

工事で移動したか、別の理由で移動したのでしょうか?

ネットで、本来こういうものがあった、という写真をお借りしてきました。
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12:58 突き当たりを右へ回り込みます。
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突き当たって右を見た景色。
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右に進んで、逆「く」の字に左に上がって行きます。上がる前に振り返った景色。
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行く先に小さく見えている三角屋根は、公衆トイレです。

荒川土手を左へ上っていくと、さっきの写真の公衆トイレがあり、こういうトイレは皆さん敬遠するかと思いきや、何人も入っていくなあ、と思ったら、すぐ近くの川原でバーベキューでもしているのか、たくさん集まっていたので、その方達が利用しているみたいです。

坂を上りきり、階段を登るとと交番があり、その辺りが都県境です。
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荒川を渡れば埼玉県。
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橋を渡るのに、8分かかりました。
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ここに上げた写真はサイズを小さくしたため、拡大するとクリアではないのですが、元の写真を拡大してみたら、バーベキューではなくサッカーの試合をしていて、応援なのか見物なのか、見に来ている人たちがたくさんいました。


2度目の中山道1日目の3(蕨宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/03/28/004030


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003