紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道1日目の1(日本橋から板橋宿への道)

2度目の中山道六十九次歩きの1

2020年2月24日(月)振替休日の1

f:id:asiandream0804:20200225224208j:plain

日本橋からの出発】

4:00起床

始発電車に乗り、6:00に日本橋駅に着きました。

日本橋駅のトイレでコンタクトレンズを入れてメイク。

6:17 日本橋

f:id:asiandream0804:20200310092108j:plain
f:id:asiandream0804:20200310092207j:plain
f:id:asiandream0804:20200310092238j:plain
案内板(青銅)
「 日本国重要文化財 日本橋

構造 形式
 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
 附 東京市 道路元標 一基
所有者
 国 (建設省
指定年月日
 平成十一年五月十三日
指定の意義
 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である
 また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い
 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定 」

f:id:asiandream0804:20200310092326j:plain
案内板
重要文化財
日本橋東京市道路元標(一基)

所在地 中央区日本橋室町一町目〜
日本橋一丁目(日本橋川)

日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府の主要な五つの陸上交通路(東海道中山道奥州道中日光道中甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある鋳造製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄(よりなか)の考案に基づく麒麟や、東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型製作・渡辺長男(おさお)、鋳造・岡崎雪声(せっせい))は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。

また、附(つけたり)指定を受けた『東京市道路元標』は、
昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣佐藤栄作の筆による『日本国道路元標』のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。

平成三十一年三月
中央区教育委員会

去年3月に2度目の東海道の歩き始めの時、間違えて中山道方面に歩き出してしまってやり直したので、今日は間違えないように、と思ったのに、間違えて東海道方面に歩き出してしまった!24分もロスしました。

二度あることは三度あると言いますからね。次回は(次回があるかどうかはわかりませんが)間違えないように、絵を描きました。

f:id:asiandream0804:20200225224209j:plain
中山道方面は、右にスルガ銀行、左に三越が見えます。スルガ銀行の一階はスターバックスコーヒーでした。
f:id:asiandream0804:20200310092356j:plain
今日は都内では、何軒もスターバックスコーヒーを見掛けました。

やり直しの最初に見たのは、

6:41 日本橋魚河岸跡
f:id:asiandream0804:20200310180011j:plain
案内板
日本橋魚河岸跡

所在地 中央区日本橋室町一丁目八番地域

日本橋から江戸川橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする『魚河岸』がありました。ここで開かれた魚市は、江戸初期に佃田島の漁師たちが証券や諸大名に調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日で千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は大正十二年(一九二三)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(一九五四)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでのさんびゃく余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

平成十九年三月
中央区教育委員会

少し歩いたら、左側に三井住友信託銀行が見えました。(6:45)
f:id:asiandream0804:20200310180041j:plain

6:49 右側に、石町時の鐘 鐘撞堂跡
f:id:asiandream0804:20200310180110j:plain
案内板
「 石町(石町)時の鐘 鐘撞堂跡

所在地 日本橋室町四丁目五番
日本橋本町四丁目二番 地域

時の鐘は江戸時代に本石町三丁目に設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝栄八年(一七一一)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町五―二)に移されて残っています。
鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町三丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を『鐘つき新道』と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成十四年三月に『時の鐘通り』と命名されました。
近くの新日本橋駅の所には江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった『長崎屋』があり、川柳にも『いしちょうの鐘はオランダまで聞こえ』とうたわれ江戸市民に親しまれていてのです。

平成十五年三月
中央区教育委員会


【神田から本郷へ】

6:54 JR神田駅
f:id:asiandream0804:20200310180137j:plain
高架下に、神田須田町の大きな赤提灯が下がっていたのが印象的でした。
f:id:asiandream0804:20200227000049j:plain

7:05 萬世橋
f:id:asiandream0804:20200310180239j:plain
左側に渡って、秋葉原を暫く歩きました。

7:13 秋葉原ドンキ&AKB劇場のビルの写真を撮ったのですが、実はここまで来たら行き過ぎ。少し戻りました。
f:id:asiandream0804:20200310181138j:plain
今日は何回も道を間違えました。

11年前はそんなに間違えなかったのに。

11年前持って歩いていたガイド本、 文芸社「誰でも歩ける中山道六十九次 上・中・下巻」(日殿言成著)は、分厚くて大きくて重くて、持ち歩くには不便でしたが、歩く道の目印が詳細で、あまり迷いませんでしたが、今回持って歩いている、山と渓谷社「ちゃんと歩ける中山道六十九次」は、東と西の二巻だけで、小さくて薄くて、持ち歩くには便利ですが、時々道がわからなくなります。

さらに、道や周辺は刻々変化しているので、目印がなくなってしまっていることも。コンビニや飲食店も変わってしまったりなくなったしまったり。

7:21 某会社のビル前に、「仁王プレミアム体験会」のボードが並べられ、大きなフィギュアも作られていて、準備を進めていました。
f:id:asiandream0804:20200310181234j:plain
こんな朝早くから、そのイベントに参加するらしき、いかにも秋葉原によくいる若者たちがちらほら。

7:25 神田明神下交差点から上り坂。
f:id:asiandream0804:20200310181312j:plain

7:28 左に湯島聖堂。右に神田明神
f:id:asiandream0804:20200310181408j:plain
f:id:asiandream0804:20200310181343j:plain
7:28 甘酒屋
f:id:asiandream0804:20200310181434j:plain

7:41 本郷 町名由来案内板
f:id:asiandream0804:20200310182018j:plain
案内板
「 旧 本郷
(昭和40年までの町名)

『御府内備考』に次の記事がある。
本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。
江戸時代に入って、町家が開け、寛文のころ(1661〜73)には、1丁目から6丁目まで分れていた。
中山道(現・本郷通り)の西側に沿って、南から1〜6丁目まで南北に細長い町域である。

本郷もかねやすまでは江戸の内
(古川柳) 」

7:46 赤門
f:id:asiandream0804:20200310182106j:plain
東大を受験する高校生と付き添いの人が、下見に来ていました。

赤門が赤いのは

ヤフー知恵袋より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

現在の本郷キャンパスの敷地はかつて加賀藩前田家などの上屋敷(大名屋敷)でした。 赤門は、1827年、、加賀藩の第13代藩主、前田斉泰が徳川家11代将軍家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られました。 門を朱色に塗るのは将軍家から夫人を迎える場合の慣習とされていました。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

7:55 東大農学部前(水戸藩邸跡)
f:id:asiandream0804:20200310182140j:plain

7:55 追分一里塚跡
f:id:asiandream0804:20200310182206j:plain
案内板
「 追分一里塚跡(おいわけいちりづかあと)(区指定史跡)
文京区向丘1-1

 一里塚 は、江戸時代、日本橋を起点(きてん)として、街道筋(かいどうすじ)に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃(だちん)の目安、道程(どうてい)の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(おなりみち)(旧岩槻街道(いわつきかいどう))との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎(えのき)が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。

郷土愛をはぐくむ文化財
文京区教育委員会 平成7年3月 」

7:56 静かな国道17号
f:id:asiandream0804:20200311002424j:plain
7:58 本駒込東片町町名案内板
f:id:asiandream0804:20200311002504j:plain
案内板
「 旧町名案内
駒込東片町 
(昭和39年までの町名)

 むかしは、岩槻街道中山道 に沿って発達した宿駅で駒込宿 の名があった。駒込村の内であった。
 寛永年間(1624~44)、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので、駒込片町といった。
 明治2年、徳性寺門前、九軒屋敷、追分町の残地を併せた。中山道の東側にあるので駒込東片町とした。
 同5年、大円寺、正念寺などの寺地を併せた。
 中山道岩槻街道との分岐点が追分で、一里塚があった。東大農学部正門前の角に現在高崎屋がある。宝暦年間(1751~64)の創業で酒屋と両替商を兼ねていた。

  ”くたびれた奴が見つける一里塚”
(古川柳)
文京区 」


7:58 本郷高等小學校跡
f:id:asiandream0804:20200311060800j:plain
案内板
「 本郷高等小学校跡 向丘1-2-15

 『東京市本郷高等小学校』は明治41年(1908)4月、『本郷尋常小学校』(現在地・文京区立第四中学校)の一部を仮校舎として開校した。この年より新しく設けられた高等小学校は、尋常小学校卒業生を対象に修業年限2~3年の普通教育をほどこす小学校で、旧本郷区内に一校設けられた。開校当時の生徒数は431名。10学級。
 明治43年(1910)5月、この地(旧駒込東方町17)に市内では初めてという木造3階建て校舎を新築し移転。明治39年本郷区第一実業補習夜学校』、大正7年東京市立第三実業補習学校』を併設。
 昭和8年(1933)、『追分尋常小学校』と『本郷高等小学校』2校併置の鉄筋校舎落成。
 昭和16年(1941)4月、『東京市本郷第一国民学校(高等)』となる。
 昭和22年(1947)3月、学制改革により廃校。同年4月から新設の『文京区立第六中学校』になる。

郷土愛をはぐくむ文化財

東京都文京区教育委員会
平成元年11月 」


8:06 ほうろく地蔵
f:id:asiandream0804:20200311060849j:plain
山門前右の案内板
f:id:asiandream0804:20200311060927j:plain
案内板
高島秋帆の墓 国指定史跡

秋帆、1798~1866年(寛政10~慶応2)。長崎の人。諱(いみな)は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12) 武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行なった。
翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命ぜられた。

斎藤緑雨の墓

緑雨、1867~1904年(慶応3~明治37)。三重県の人。名は賢(まさる)。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鷗外幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。 墓碑銘は幸田露伴

曹洞宗 金龍山大円寺
文京区向丘1-11-3
- 郷土愛をはぐくむ文京区 -
文京区教育委員会 平成8年3月 」

f:id:asiandream0804:20200311060958j:plain
案内板
「 ほうろく地蔵
大円寺(向丘一‐十一‐三)内

八百屋お七』にちなむ地蔵尊。天和二年(一六八二)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさゆえに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた。゛お七゛を供養するために建立されたお地蔵様である。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した炮烙(ほうろく・素焼きの縁の浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(一七一九)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など昔から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。

━━━郷土愛をはぐくむ文化財━━━

東京都文京区教育委員会
平成元年三月 」
f:id:asiandream0804:20200311061027j:plain

8:14 東洋大学
f:id:asiandream0804:20200311061100j:plain
東洋大学前のコンビニ(何の店だったか失念)でトイレを借りて、R1ヨーグルトとスニッカーズミニを買って、すぐに食べました。

朝からマスクはしていましたが、この時から保護ゴーグルを着けたら、目が楽。もっと早くから着ければよかった。

今日はジョギングしている人にたくさん会いましたが、走りなれていない、休日ランナーが多いようでした。


とげぬき地蔵界隈】

8:42 JR巣鴨
f:id:asiandream0804:20200311061202j:plain

8:46 真性寺 (東京六地蔵)
f:id:asiandream0804:20200311101318j:plain
f:id:asiandream0804:20200311101632j:plain
f:id:asiandream0804:20200311101717j:plain

江戸六地蔵 wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像である。

歴史
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。

鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。造立時には鍍金が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える。

江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊された。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている。

第六番の代仏が、上野の浄名院(台東区上野桜木二丁目6-4)に祀られている。浄名院が江戸六地蔵を名乗っている事については、他の札所でも賛否両論あるらしい。

江戸六地蔵一覧

第1番 品川寺 真言宗醍醐派
1708年(宝永5年)鋳造
高さ 2.75m 現存
旧東海道
東京都品川区南品川三丁目5-17

第2番 東禅寺 曹洞宗
1710年(宝永7年)鋳造
高さ2.71m 現存
奥州街道
東京都台東区東浅草二丁目12-13

第3番 太宗寺 浄土宗
1712年(正徳2年)鋳造
高さ2.67m 現存
甲州街道
東京都新宿区新宿二丁目9-2

第4番 真性寺 真言宗豊山派
1714年(正徳4年)鋳造
高さ 2.68m 現存
中山道
東京都豊島区巣鴨三丁目21-21

第5番 霊巌寺 浄土宗
1717年享保2年)鋳造
高さ 2.73m 現存
水戸街道
東京都江東区白河一丁目3-32

第6番 永代寺 高野山真言宗
1720年(享保5年)鋳造
高さ 不明 現存せず
千葉街道

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


真性寺江戸六地蔵
f:id:asiandream0804:20200311101448j:plain
f:id:asiandream0804:20200311101557j:plain
豊島新聞より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

3037号 2014年6月18日号

百万遍大念珠供養
 江戸六地蔵尊開眼300年祭
 巣鴨・眞性寺

 江戸六地蔵尊開眼三百年祭が行われている真言宗豊山派名刹巣鴨地蔵通りの眞性寺で6月24日、約300年続く「江戸六地蔵百万遍大念珠供養」が行われる。毎年ご利益を求め約300人を超える人々が詰めかける伝統行事。

 当日は、午後4時半、江戸六地蔵尊の前で鳥居慎誉住職による厳かな法要につづいて、念珠回し。鳥居住職と長島真檀家総代など関係者が念珠の輪の中央に座するなか、鳥居住職の「南無阿弥陀仏」の念仏と鐘の音にあわせて27メートルの大念珠を時計回りにゆっくりと回しご利益を願う。すぐそばでは子ども用の念珠回しが行われ、5時半過ぎには終了。お供物のお菓子が参加者全員に配られて、伝統の行事は終了する。

 今年開眼三百年を迎えた眞性寺の江戸六地蔵尊は(第三番)江戸・深川の地蔵坊正元が願主となって宝永3年(1705年)から享保5年(1720年)に至る15年間に大凡同型の地蔵菩薩像6体を造立した中の一体。唐銅製の坐像で、ご本体の高さは2メートル68センチ。眞性寺の地蔵尊は六体のうち四番目に作られたもので、街道中山道の出入口の寺に正徳4年(1714年)に造立された。

 江戸六地蔵尊の造立の由来は、地蔵坊正元の書いた「当国六地蔵尊造立之意趣」によれば、地蔵坊正元は25歳の時に難病を患い、父母が非常に悲しんで地蔵菩薩に一心に祈願する姿を見て、自分も親の嘆きが身に染みて一心に地蔵菩薩に祈願し、ご利益が得られたならば世の中の人々に地蔵菩薩のご利益をすすめ、多くの尊像を造立して人々に帰依することをすすめたいと誓ったところ、その夜に不思議な霊験があってたちまち難病から本復したので、祈願の通り地蔵尊の造立を発願し、多くの神前へ十日参りをし、江戸御府内の多くの人々の寄進を集め造立したという。

 江戸六地蔵尊は江戸地域全体をつつむように江戸から地方への六街道の出入口に安置され、これで江戸の守りとした。金銅佛であれば火災に滅せず、壱丈六尺の大像であるので盗難はなく、諸人往来の街に立てれば衆生悉く縁を結ぶことになるという思いが込められているということである。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

境内に芭蕉の句碑があります。
f:id:asiandream0804:20200311101845j:plain
f:id:asiandream0804:20200311101804j:plain

東京すがも園(塩大福の御菓子司)HPより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

芭蕉の「萩の句碑」
当店の包装紙に使われている「芭蕉の句碑」が、真性寺境内を入って左手に、「白露も こぼれぬ萩のうねりかな」。
葉に宿した白露をこぼしもせず、萩がしなやかに風に身を任せているさまを詠んだもの。
この碑は、寛政5年(1793)芭蕉の百年忌に、採荼庵(さいとあん)梅人と社中の人々により建てられた。
梅人は、蕉門十哲の一人、杉風の曾孫弟子に当たる。
また、芭蕉の句碑の裏面に、彼の句に呼応して作った「萩植てひとり見習ふ山路かな」という杉風の句も刻まれている。
残念ながら芭蕉巣鴨を訪れた痕跡はないが、当時、真性寺の境内には萩が植えてあり、茂みのようになっていた。
梅人らは、芭蕉の「萩の句」こそ、この巣鴨の地にふさわしいと思い、この句碑を建てたのだろう。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


8:49 地蔵通り入り口
f:id:asiandream0804:20200311101938j:plain
車両通行止めになっていました。

8:52 高岩寺 とげぬき地蔵
f:id:asiandream0804:20200311102014j:plain
wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

とげぬき地蔵の由来

江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。

その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。

境内

本堂
1957年(昭和32年)の建立。鉄筋コンクリート造。設計は東北大学教授の横山秀哉。2009年(平成21年)1月、国の登録有形文化財に登録された。

本尊
本尊の地蔵菩薩像(延命地蔵)は秘仏につき非公開である。本尊の姿を刷った御影(おみかげ、縦4センチメートル、横1.5センチメートルの和紙に地蔵菩薩立像が描かれている)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどしても、病気平癒に効験があるとされる。「巣鴨のお地蔵様」として信仰されている。

洗い観音
境内に立つ石造の聖観音(しょうかんのん)像で「洗い観音」と通称される。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるという。かつては像の表面をタオルでなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作された。現在の像は1992年(平成4年)に奉納されたもので、彫刻家・八柳尚樹の作。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

本尊は非公開なんですね。みんなが洗っているのは本尊とは別の洗い観音。新しく見えたけれど、平成四年生まれの2代目なんだ。
f:id:asiandream0804:20200311102126j:plain

ということは、学生時代に見に行ったものは初代だったんだなあ。写真、撮っておけばよかった。

朝という時間帯の問題なのか、新型コロナウィルスの影響なのか、洗い観音に今日は誰も並んでいませんでしたが、いつもは行列が出来ているのです。こちらの写真は11年前の写真。
f:id:asiandream0804:20200311104155j:plain

地蔵通り商店街には、屋台が並んでいました。
f:id:asiandream0804:20200311102250j:plain
三連休だから出ているんでしょうね。でも、お店を出している人たちも、多分新型コロナウィルスの影響で人があまり来ないのでは、と思っているようで、

「どうなるかわからないね」

と言っていました。

都電荒川線を庚申塚駅の踏み切りで渡り、暫く行くと板橋駅

この辺りで初めて「中山道」の道標がありました。


2度目の中山道1日目の2(板橋宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/03/19/040219


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003