紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き20日目の3(坂本地区)

二度目の中山道20日目の3
2020年3月27日(金)の3


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【小石塚の立場跡】

8: :53 小石塚の立場跡
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脇に添えられた地図は、坂本文化遺産保存会が作成した看板です。
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嵐讃岐の供養碑
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案内板
中津川市指定文化財 有形文化財(建造物)
嵐 讃 岐(あらしさぬき) の 供養碑

所 在 地 中津川市千旦林42-1
指定年月日 平成14年4月24日

嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居をかまえ、
千旦林八幡宮(八幡神社)の再建につくした人と伝えられている。
この供養碑は、寛永3年(1626)に嵐讃岐を供養するために建てられたもので、墓石様式の変遷をあらわすものとして貴重であり、岐阜県下でも稀な様式である。

中津川市教育委員会


階段を下ります。(写真に指が入ってしまい、見づらいのですが)
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8:58 中津川インター口バス停
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その先、歩道橋の右を進みます。右斜めへ。
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8:59 分岐を右へ。ちょうど電車が通りました。
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六地蔵石幢】

9:09 六地蔵石幢
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案内板
六地蔵石幢

寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、ここでは南へ百米程参道を入った処に大林寺(現中洗井)が寛永十年(一六三三)に創立しています。この石憧は大林寺の入口として寺の創立二四年後、明暦三年(一六五七)に造立されています。中山道から寺への分岐点に立てられたのは、その入口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を佛にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。その上中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得て行く為でもありました。
地蔵菩薩は古くから多くの庶民にしたしまれ広く信仰されている佛像であります。釈迦入佛後、無佛の間この世に現れて衆生を救済する菩薩とされ、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう力を貸してくれると信じられていました。更に六ツの分身を考えて六地蔵としての信仰が平安末期に始まったといわれています。石憧は六地蔵信仰と結びつき龕部(がんぶ)に六地蔵を彫るものが多く、室町末期から普及していますが、この地域では数少ないものの一つです。

平成二年二月一〇日
坂本地区文化遺産保存会 」

案内板の説明の中で、分からない言葉があったので調べました。


石幢とは デジタル大辞泉より

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せき‐どう【石×幢】
石塔の一。六角または八角の石柱と、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などからなる。中国から渡来し、日本では室町時代以降のものが多い。

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龕(がん)

コトバンクより

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仏像を納めるため,岩壁を掘りくぼめた場所。古くインド,中国にその例がみられる。のち扉つきの厨子に仏像を安置したものを仏龕という。

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9:15 坂本神社八幡宮社標
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9:16 千旦林村高札場跡
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9:20 馬頭観音
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9:24 分岐道標(左に行きます)
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何かぼんやり字が見えますが、風化していてほとんどわかりません。
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分岐の先の道
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9:29 中平弘法堂
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この辺り、雨が激しくなってきました。

小雨のうちは、

「雨の日の歩きは気持ちいいな。幸せだな」

と思っていたのですが、雨がだんだん強くなってくると、写真を撮るのも大変になってきます。

しかし、2度目の東海道の石薬師の大雨のことを思えば、さらには、浜松の嵐を思えば、これぐらい大したことない、と頑張れます。


【中平神明神社

9:32 中平神明神社
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案内板
「 中平神明神社

この神明の森には、神明神社の他に、津島神社・妙見社の二社がお祀りしてあります。神明神社には天照大神津島神社には牛頭大王、妙見社には妙見菩薩をそれぞれお祀りしてあります。
この神明神社には坂本神社八幡宮境内社として外に白山社・熊野社・諏訪社の三社があったとされております。かっての八幡宮別当寺大智山願成寺の塔頭(たっちゅう わき寺)であった十三房の一つである持宝院の棟札(元和七年辛酉九月十六日〈一六二一〉)が保存されているので持宝院とのかかわりから想像して棟札年代以前からの社であったことが伺えます。
この森にお祀りされるようになったのは明治初期からのことであり、それ以前はこれより東方約三百米先の神明沢の地に祀られており、現地には神明神社旧跡地の碑が竹藪の中に残っています。古老からの伝えによると暗夜密かに神明沢からこの地に移されたという。
神仏混淆神仏分離、さらに戦国時代に於ける戦火など永い歴史の中には幾多の出来事がありましたが氏子の信仰は厚く、平成元年四月老朽化した社殿も新たに再建されました。

坂本地区文化遺産保存会 」

坂本地区まちづくり推進協議会のホームページによると、神明神社の急な移転は、飢えに苦しんだ村人たちが神域の林を伐採するためにこしらえた作り話であったというのが真実だったようで、当時の人々の苦しみを想像できる逸話のようです。

9:37 将監塚
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案内板
「 将監塚

岡田将監善同(よしあつ)は慶長十八年(一六一三)より寛永八年(一六三一)まで二代目美濃代官でありました。
善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を名乗ってこともありましたが、関ヶ原戦では、東軍(徳川方)に属しました。
慶長六年(一六〇一)六月釆地五千石を与えられ可児郡姫村に住み慶長十年から初代美濃代官であった大久保長安の配下であったが、長安の死去により二代目美濃代官になりました。
当時大井村には名古屋築上の際の『材木番所』があり、木曽材持出奉行として当地方に駐在していたようです。
善同の子義政も寛永八年(一六三一)父の死後、美濃代官を勤め、正保二年(一六四五)には幕府の命により、美濃国図を調整して提出しました。
恵那郡史には、坂本村千旦林に岡田将監の墓と伝えるものが間地三ツ屋地内にあって、旧中山道の北の一小丘で五輪の石塔(実際は宝筺印塔)が建っている。
これを『ショウグン塚』と呼んでいるが、将監塚の訛伝(かでん)であろうと記されているし併せて、この付近には将監乗馬の塚と云うのがあり他名を岡田ということも記されています。

平成元年八月二十六日建之
坂本地区文化遺産保存会 」


将監(しょうげん) wikipediaより

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近衛府の三等官。またはそれにちなんだ武家官位

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9:40 三ツ屋の一里塚跡
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江戸日本橋から86番目の一里塚。

9:45 馬頭観音
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9:50 坂本立場跡
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9:51 石仏石塔群
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9:52 県道420号線ガードを潜りました。
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9:54 坂本橋を渡りました。
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9:55 坂本観音様の由来
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案内板
「 『坂本観音様』の由来

中山道坂本坂の麓に馬頭観音が祠られていることが『中山道文間延絵図』(文化三年編)にある。
この観音様は、地元は勿論、街道を行き交う人々からも厚い信仰をあつめてきた。
観音様の建立は、礎石の刻銘から、延享二年(一七四五年)と考えられる。
その昔坂本坂登り口付近にあった観音様がいつの時か中山道のから離れたら所の川端に祠られ観音様が大水により川の底への沈んでしまわれた。
その為に祟りがあったので元の場所近くに手厚く祠った。また悪性の病が流行った折に観音様の竹数珠を持って病人宅前を皆で念仏を唱えて廻ったら、霊験あらたかであったと伝えられている。
その後の変遷は明確ではない。明治二十九年(一八九八年)に再建とあるのでこの時に前位置(稲荷様入口)に建立されたのである。
この度県道の建設に伴い現地に移転された。
堂内には、江戸期の名僧“徳本上人”が当地で念仏を弘めた折の『南無阿弥陀仏』碑『弘法大師尊像』も祠られている。

平成五年吉日 」


9:58 茄子川村の高札場跡
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10:00 尾州白木改番所
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案内板
「この番所がいつ設けられたかは詳しい記録はないが、尾張藩享保十六年(一七三一)茄子川下新井に『川並番所』を設置した記録があるのでこれに対応して設けられたものであろう。
寛政元年(一七八九)の『中山道筋路之記(すじみちのき)』には『番所錦織(にしきおり)役所支配』とあります。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木のゆそうは重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑木(くれ)、土居(どい)等白木類は牛、馬による駄送の方法が採られていました。
木曽川筋には各所に『川番所』が、中山道には『白木改番所(しらきあらためばんしょ)』が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行なわれていました。
これ等の施設は明治四年(一八七一)廃藩置県の措置によって廃止されました。

平成六年四月十五日
坂本地区文化遺産保存会 」


10:03 長連寺薬師堂
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案内板
「 長連寺薬師堂

この薬師堂のある付近は字名長連寺といいますが、昔、ここには長連寺と云う大きな寺が建っていたそうです。これを建立したのは織田信長に仕え、天正十年(一五八二)岩村城主となった森蘭丸であると云われていますが、建立してから五・六年後、兵火のため焼失したと伝えられています。
医学の発達していなかった時代には火災の不安と同様、病気に対する人々の不安は常に生活の中にありました。そうしたことから神仏を頼り信仰することによって、そこから救ってもらおうと、ここに薬師堂を建立したものと思われます。
薬師は薬師瑠璃光如来といい、人間世界の救世主であって浄瑠璃光で衆生の病苦を救う如来です。堂内の厨子薬師如来木像と他に仏像三体、弘法大師一体その他、閻魔大王とその類と思われる木像十数体がありますが、大東亜戦争後何者かによって銅製仏像を始め保存の文献等殆どが盗まれてしまい造立の頃のことは不明であります。

坂本地区文化遺産保存会 」

10:06 茄子川小休所 篠原家
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案内板
「 茄子川小休所 篠原家

篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来します。
篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張領の庄屋、戸長等を歴代にわたり務めていました。
ここから中津川宿へは一里23町 (約6.4km)、大井宿までは一里 (約4km) の距離があり、家の脇には中山道から遠州秋葉道(あきばみち)への分岐点を示す大燈籠が置かれています。
篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客の足跡も残されています。
和宮(かずのみや)・明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、(厠かわや)・表門等は当時のままに保存されています。 」

明治天皇茄子川御小休所篠原家
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10:07 秋葉大権現常夜燈(篠原家を回り込んだ所にあります。)
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秋葉大権現常夜燈 さっきの常夜燈と道を挟んで左右に建っています。
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10:09 鯉ヶ平高札場跡
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10:10 茄子川案内板
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案内板
中山道 茄子川

江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家とその給人の山村氏(木曽方)、千村氏(久々利方)、それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、村高千三百六十八石余は、この付近でも大きな村の一つであった。
中山道は村内を東西に縦貫し、中町通りの西はずれにある常夜燈は、安永五年(一七七六)に建てられ、『是れよりあきはみち』と刻まれている。この常夜燈が、遠州秋葉道との分岐点となっていた。
ここから中津川宿まで一里二十三町十一間(約六・四km)、大井宿までは一里(約四km)の距離だった。両宿の距離は二里半六町(約一〇・五km)、中津川・落合両宿間一里弱とくらべると長丁場(ながちょうば)のため、ここに茄子川御小休所(篠原家)がおかれ、大名・姫宮通行などの休憩所の役割を果たした。

中津川市教育委員会

旧家
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10:19 鯉ヶ平妙見
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妙見菩薩 wikipediaより

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妙見菩薩(みょうけんぼさつ、旧仮名遣:めうけんぼさつ)は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる。

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10:23 茶屋跡
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10:25 茄子川焼 案内板
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案内板
「 茄子川焼

茄子川焼は天正六年(一五七八)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめといわれています。
天保三年(一八三二)広久手の丹羽久右衛門が先年より始めた陶器作りの改良を図り、土岐郡妻木村の加藤喜兵衛を師匠に迎えて磁器製造を起こしました。同八年篠原利平治が同じ広久手で陶器作りをはじめ、同十四年には諏訪の町で安田新吉が土地の人々に呼びかけて、磁器製造を興しました。
茄子川焼が発展してのは弘化二年(一八四五)篠原利平治が越中(富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからであります。人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特な風雅な味をつくり出した奥州の相馬焼きに似た『茄子川相馬』でありました。
明治に入って窯株制度が廃止になると、鯉ヶ平の藤井久左衛門が鈴木栄八と共同で、久谷の職人を呼び寄せて、茄子川焼ではめずらしい久谷風の茶器などを焼きました。
販路は木曽、伊那、松本方面が多く、中山道を旅する人々には峠の茶屋や窯元でも売っていて、村の重要産業として明治末期まで続きました。
平成元年八月二十六日建之
坂本地区文化遺産保存会 」


二度目の中山道20日目の4(恵那市に入り、大井宿まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/20/164607


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003