紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き20日目の2(中津川宿から会所沢まで)

二度目の中山道20日目の2
2020年3月27日(金)の2


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駒場村の高札場跡と小手の坂】


8:17 津島神社参道社標(この前を左へ)
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石仏石塔群
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駒場村の高札場跡
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茶亭市川
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灯籠など 工事中なので、ここに集められたのかな?
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工事中で、シートの上を歩きました。
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8:30 小手の坂・坂元駅(駒場)
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案内板
「 こでの木坂

 ここから上宿の一里塚 にいたる坂道は『こでの木坂』といい、市内の中山道 の中でも急峻な道です。明治十三(1880)年に明治天皇の巡幸 があり、このとき駒場村の青年たちが待ち構え、天皇を乗せた馬車がこの坂道を通るとき、懸命に馬車の先引きをして通したといわれています。
 明治になり、交通手段として馬車が多く利用されるようになると道の改修が行われ、明治二十一(1888)年には坂道の一部を取り壊して緩やかなS字の道に整備しました。また大正七(1918)年にバスが通るようになると、道幅が拡張され、現在の道路のようになりました。
 こでの木坂の名称は、坂の頂上に大きな『こでの木』が生えていて、これが目印になっていたのでこう呼んだといわれています。

中津川市
中津川市教育委員会・第三区」

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案内板
坂本駅中津川市駒場 こまんば)

古代、近江と陸奥を結ぶ官道として拓かれた東山道は、
都から美濃の国・坂本駅を経て信濃の国・阿智駅へと通じていました。
この二駅間は、距離が長い上に急峻な神坂峠越え(標高1595m)を控え、道中でも名の知れた難所でした。
このため両駅には特例として通常の二~三倍、三十疋の駅馬が用意され、
また、輸送にあたる駅子にも免税の恩典が与えられていました。
その坂本駅が置かれていた場所は現在特定されていませんが、この辺りであったと思われる。

歴史の道推進協議会
中津川市

8:33 苗木道
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案内板
「 苗木道

 中津川市 内を東西に通じている中山道 は、江戸時代の五街道 の一つで日本の主要基幹路線 として利用されていました。
 この基幹路線である中山道などから分かれる道は、一般に脇街道 や脇道とも呼ばれ、中山道沿いにも飛騨方面へ向かう『飛騨街道 』をはじめ、幾筋も存在していました。
 中津川宿 付近の中山道から飛騨方面にいたるには、二つのコースがあり、茶屋坂 から北野、打越・妙見山を経る道と、駒場『小手の木坂 』から分岐する道があり、後者は別名『苗木道』と呼ばれていました。

 この苗木道のルートは所々建物や道などにより分断され、地形が変わったり草木が生い茂る場所に変わるなど、昔の面影を残すところは少なくなり、現在全線を踏破することはできなくなっています。
中津川市教育委員会


石仏石塔群
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双頭一身道祖神
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案内板
中津川市指定文化財  建造物

双頭ー身道祖神

所在地 中津川市駒場397-2
指定年月日 昭和57年4月8日
 石像の左上に『是より苗木道』と彫られたこの道祖神は、中山道の通称『こでの木坂 』の頂きにあり、『道しるべ 』にもなっていて、中山道から分かれる苗木道との分岐点に置かれている。
 文化13年(1816)に建立され、男女別々 の頭部 を持ち、肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の石造物である。
中津川市教育委員会

石仏石塔群の中で、どれが双頭一身道祖神かわからず、ちゃんと写真を撮りませんでした。

この写真の◯のところ、
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拡大すると、これがその双頭一身道祖神
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中津川市のホームページからお借りしてきました。
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8:35 上宿の一里塚跡
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案内板
「 歴史の道 中山道 上宿の一里塚

 中山道の両側には、一里(約4km)ごとに塚が築かれ、松や榎が植えられていた。
 一里塚は旅路の行程の目安を与えるとともに、休息の場としても利用され、市内には4カ所あった。
 この上宿にあった塚は、江戸 から数えて85番目 にあたり、両側とも複が植えられていた。
 現在南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。
 規模としては往時の約1/3の大きさである。 」

8:39 上用水之碑
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8:46 シデコブシ会所沢群生地
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4月上旬に咲くそうです。こちらの写真は「育て方ラボ」からお借りしました。
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二度目の中山道20日目の3(坂本地区)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/19/093824


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003