【中津川宿本陣跡】
5:30 起床
6:30 持参の犯で朝食
7:30 チェックアウト
7:41 前回も見た「すや」本店
前田青邨画伯生誕の地
付近の道
中山道往来庭 トイレありましたがパス
7:48 四つ目川橋
7:50 脇本陣跡
「 →
脇本陣はここから
右(西方)約20mの
所にありました 」
7:51 本陣跡
案内板
「 中津川宿本陣
本陣の入口には五軒続きの長家が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪二八三坪の本陣があった。
表庭の右手に長屋があり、その奥が厩(馬屋)になっており、表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その右に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間、次の間、中の間、上段の間へと続いた。上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳おかれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠(せっちん)などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退道の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。」
【中津川村庄屋跡】
名称 「曽我家住宅」
種目 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成十七年一月二十六日
所在地 中津川市本町二丁目 六番四十四号
由来
建設年代は不明であるが、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると推定される。
曽我家住宅は、江戸時代においては旧中津川村の庄屋を務めたこともあった肥田家(田丸屋)の建物であり、数寄屋がかっている『上段の間』の細工がよく、そこからの庭の眺望も素晴らしい。
明治二十六年には恵那山登山のため来訪した登山家ウォルター・ウェストンが宿泊している。
明治中期に曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献した。
「宿場町の用水」
案内板
「 宿場町の用水
このあたりが中津川宿の中心であった。四ツ目川には水面近くに板橋がかかっており、東から来た旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道を登った。登りつめると、街道の真ん中を用水が走っていた。宿の中心部を流れるこの用水は、野中の黒沢川から取水した第三用水(大樋用水)で、宿内の大災に備えて敷設されたものである。用水には、ものを流すことも洗うことも、禁じられていた。広義の生活用水、防火用水として使用されていたと考えられる。
明治十三年(一八八〇)の明治天皇通行の折、馬車が通れるように用水は埋め立てられた。
平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市 」
現在の本町の町並み
【本町広場】
本町広場 トイレを借りました。
本町広場にあった案内板
案内板
「 中津川の食文化
5月、6月の季節、モクレン科の落葉高木であるホオノキの葉に、酢飯と様々な具を包んだ朴葉寿司は、中津川市周辺で見られる独自の食文化である。
朴の葉は1枚が大きく、殺菌作用があることから、もともとは畑仕事の昼食に、手が汚れていても片手で食べられるように作られたとも言われる。
古くは北陸から入ってくる塩鮭を酢でしめ、そのしめた酢で酢飯を作り、乗せただけのシンプルなものであった。
今では家庭により、鮭のほか、金糸玉子や、きゃらぶき、しいたけ、桜でんぷ、ヘボ(蜂の子)など、様々な具材を乗せた色鮮やかな朴葉寿司が作られている。
案内板
「 中津川の和菓子
『栗きんとん』は中津川の名物として知られる。茹でた栗の中身を取り出し、細かくほぐしたものを、茶巾で絞った菓子である。中津川は山栗が多く収穫されたことから、江戸時代には焼き栗、茹で栗、かち栗などいろいろな食べ方をされてきたが、砂糖が家庭で手に入るようになると、栗きんとんが作られるようになった。
また、この地方の名物『からすみ』は、米の粉を主原料として黒砂糖やよもぎを入れて練り上げ、富士山を模った木型に入れて蒸しあげた菓子である。江戸時代にはひなまつりの時に、一般的なボラの『からすみ』が手に入れなかったため、代わりにこれを備えたという。
案内板
「 ギオンバ
中津川の代表的な祭りの一つに、『ギオンバ』がある。津島神社のお祭りで、子供たちが提灯を持ち『ワイショ』『ヨイショ』の掛け声とともに町中を練り歩く。駒場津島神社の祭神は町内中山道筋の小さな祠に分社されている。
ギオンバは明治時代の後半に旧中津川の市街地で始まり、それが駒場など周辺地域に広がって、第二次世界大戦時には、中津川の子どもたちの代表的な祭になったと考えられる。
当時は喧嘩祭りとも呼ばれる激しいもので、小学生から中学生までの男子が参加し、準備から運営までをその子どもたちが行った。昭和の終わり頃からは、女子も参加する祭りとなった。
案内板
「 大坂屋(吉田家)跡
江戸時代から昭和十二年(一九三七)まで、この場所には大坂屋という旅籠があった。主に商人向けの旅籠で、他にも檜笠、屋根板などの白木物の仕入れや、販売を行っていた。
『伝馬役人名簿』には大坂屋善左衛門の名前があり、中津川宿の伝馬役人三五人のうちの一人で、歩行役の半分を請け負う宿内の有力者であった。
文久二年(一八六二)の皇女和宮下向時の宿割図には、『八畳二間、六畳三間、三畳、四畳三三坪、板の間が五間半、土間七坪』とあり、当時の屋敷の規模をうかがえる。
画家の吉田耕雲は大坂屋の生まれで、結婚後京都に出て肖像画学校を開いた。
案内板の(石碑)
「 常夜燈
この石燈篭は、中津川宿本町にあったもので、嘉永元年(1848)に建てられています。
常夜燈は、一晩中灯りをともして旅人を導き、また宿場や道中の安全を祈願したものであります。
その灯りは当時の人々の心を和ませるとともに、防犯と照明を兼ねた街灯の役目を果たしていました。
中津川市 」
8:00 この家の写真を撮っていた朝の8:00。
今日1番テンション上がったのは、中津川で朝8:00に鳴った時報チャイムが、「グリーンスリーブス」だったこと。大好きなんです、あの曲。
8:01 枡形
案内板
「 町並と枡形
中津川宿は江戸日本橋から数えて四十五番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。武家は常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊するところを下宿といった。
本陣は中津川でも最も高い場所に置かれ、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、自身番も置かれていた。横町から下町にかけて町角を直角に曲がる枡形は、人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に見渡すことができないように造られていた。
栗蔵 栗菓子 川上屋
SPIRA オトナの情報マガジン より
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1864年創業の「川上屋」は、中津川市のかつて宿場町として栄えた町にあり、歴史の感じられる建物が軒を連ねている一角にあります。
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川上屋ホームページより
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木曽路の風味を創り伝え続けて百有余年
川上屋の歴史は、初代原四六(はらしろく)が中山道宿場町中津川宿で江戸末期の1864年(元治元年)よりはじまり、
交通の要所として東美濃随一の宿場町として栄える中で恵まれた土地から生み出される産物を使用し、
こだわりの風味逸品を創り歴史を重ねて参りました。
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十八屋(間家)
案内板
「 十八屋(間家)
江戸中期に園田大学が建てたと伝えられており、上がり框や天井の梁などは当時のままである。屋号を十八屋山十といい、中津川の豪商であった間杢右衛門家の流れをくむ間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいた。同時、旅籠は宿役人しか営むことができなかったと記録されている。
元治元年(一八六四)十一月に水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦で負傷した若き武士を隠し部屋に匿った。その後、武士は病死したが、当家にはその遺品が今も残されている。皇女和宮の下向の時には、京都御供が宿泊しており、その時の記録には当家の間取りなどが克明に調べられている。
江戸時代の面影を如実に残す建物。この家は、山科屋遠山林蔵の依頼で、当家の先祖である宮大工の横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が天保十三年(一八四二)に建てたものである。
中二階に四畳ほどの隠し部屋が今も残されている。部屋に入る梯子を取り外すと、そこに部屋があることが外からは全く分からない。遠山家は明治末期まで住んでいたが、現在は駅前に移住し、うなぎ屋『山科』を営んでいる。
その後、家屋は横井家に渡り、現在は建物の一部を『中山道お休み処 白木屋』として一般公開しており、中山道を訪れる人々の憩いの場や、住民のまちづくり活動の拠点となっている。
【旧中川家と卯建のある家】
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部である。中川家の屋敷は、ここより南東側一帯にあり、広壮な屋敷であったものと思われる。この屋敷は南に向かって西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていた。現在東西に延びる旧清水町の通りはなく、街道を直角に曲がる枡形という道のつくりになっていた。歌舞伎絵で著名な中川とも画伯は、この中川家の出である。明治の代になって原作吉が購入し、呉服商を営んでいたが、大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っている。昭和三十年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、これを舞台に映画『青い山脈』のロケが行われた。
卯建のある家
案内板
「 卯建(うだつ)のある家
この二軒は長屋になっており、中川家の一部であった。卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。これによって隣家からの火事をある程度防ぐことができたが、卯建を設けるためには多額の費用がかかった。『うだつがあがらない』という慣用句は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたものである。
卯建は中津川でも、ここ横町通りの数軒でしか見られなくなり、宿場町の面影を今に伝える貴重な財産である。こに二軒のうち南側にある卯建は、前田青邨の絵にも描かれた。
【枡形とはざま酒蔵】
8:04 枡形
はざま酒蔵(銘酒恵那山)
間酒蔵ホームページより
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江戸時代の五大街道のひとつ、「中山道」に67あるうちの45番目の宿場、中津川宿の造り酒屋。
間家が中津川の地に移り住んだのは、岐阜にて行った歴史的な戦い「関が原の戦い」の翌年である慶長6年(西暦1601年)
酒造りを始めたのは、江戸中期。以来、200年以上にわたって「美味しい酒造り」にこだわってきた。
400年の歴史と伝統
間家はもともと京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住みました。江戸中期より酒造りを始め、以来200年以上にわたり醸造業を営んでいます。
江戸時代には尾張徳川家の御用商人となり、美濃国屈指の豪商としてその名を馳せました。
はざま酒造の真正面には、古事記にも記載がある霊峰「恵那山」を望むことができます。
この辺りは恵那山の伏流水が豊富に流れており、はざま酒造では創業当初からこの恵那山の伏流水を仕込み水として使っています。
その清らかな水のごとく澄んだ酒を目指し、「恵那山」と命名しました。
はざま酒造 新章
「料理とともにお酒を楽しむという文化をもっと広げたい」という思いから、2016年 純米酒だけを造る純米蔵として生まれ変わりました。
そして、霊峰恵那山のふもとという風土を生かしながら、岐阜県中津川市から日本を代表する酒造りを目指しております。
新たな挑戦として、初仕込み「恵那山 純米」と「恵那山 純米吟醸」を、世界で最も権威のあるワインコンペティション「インターナショナル ワイン チャレンジ(IWC)」の「SAKE」部門に出品。
「純米酒部門」「純米吟醸酒部門」でそれぞれシルバーメダルを受賞いたしました。
酒はできるものではなく、造るもの
「中津川から世界へ。お酒を楽しむすべての方に」
全世界の皆様、全国の皆様に楽しんでいただきたい。日本の誇りであるような蔵元をめざします。
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8:06 「下町かいわい」案内板
案内板
「 歴史の道中山道
下町かいわい/The neighborhood of Shimo-machi
下町は、かつて中津川宿における西側の玄関口でした。往時の姿はほとんど留めていないものの、このあたりには、下町から旧・川上川(中津川)までを繋ぐ中山道の道筋が存在したことが分かっています。時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成した『分間延絵図(ぶんかんのべえず)』には描かれていないものの、かつてこのあたりにも高札場があったと言い伝えられています。 」
津島神社の小さな祠の南側を、真っ直ぐ西へ、中津川に向かってのびているのが現在の道であるが、かつての中山道はこの小祠の北を、急な坂を下って中津川の河原に出ていた。現在は行き止まりになっていて、通り抜けはできない。
この坂を下る辺りの道幅が狭いのは枡形の名残である。枡形に入る手前の道の両側に石を積み、道幅を規制して一度に大人数が通れない様に作られたところを枡形見附とし、番人を置いた。
枡形見附の脇には、宿場の中へ悪いものや病気が入ってこないように、『おたてふ様』といわれる牛頭天皇(津島神社)の祠を祀っていた。
平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市 」
8:10 中央橋
案内板
「 中津川と柳の木
浮世絵『中山道六十九次』は、江戸日本橋から京都までの中山道の宿場町を描いたもので、中津川宿は四五番目の宿場町として歌川広重によって描かれた。この中津川宿の絵図には、晴れと雨の二種類が存在し、それぞれ図版が異なる珍しいものである。
このうち『晴れの中津川』と呼ばれる一枚には、中津川にかかる中津川橋と柳の木が描かれている。
かつての中津川橋は、現在橋がある場所よりも百メートルほど下流にかけられていた。当時橋がかけられていたと考えられる場所の近くには、浮世絵とちょうど同じように、古い柳の木が立っている。
浮世絵 「晴れの中津川」
浮世絵 「雨の中津川」
8:11 中津川橋
二度目の中山道20日目の2(中津川宿から会所沢まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/15/181533
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003