紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道1日目の3(蕨宿)

2度目の中山道1日目の3

2月24日(月)振替休日の3

f:id:asiandream0804:20200328004415j:plain

13:09 橋を渡りきりました。
f:id:asiandream0804:20200324195817j:plain

13:09 中山道案内
f:id:asiandream0804:20200324195830j:plain
案内板
「 歴史のみち中山道のご案内

ここから階段を下りて東側へ約130m先へ進むと『歴史のみち 中山道』があります。中山道は、江戸日本橋を始点として慶長7年(1602年)に整備が始められ、第一の宿場である板橋宿を過ぎ、次の蕨宿との間にあるのが荒川(戸田川)にあった『戸田の渡し』でした。戸田渡船場跡から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806年)に作成された『中山道分間延絵図』にその様子が描かれています。また、天保13年(1842年)『中山道戸田渡船場微細御書上』によると、渡船場には家数が46軒あり、渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、街道筋には渡船にかかわる家々や旅人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。現在もその様子が残っており、周辺には水神社や地蔵堂があります。 」

13:15 川岸橋
f:id:asiandream0804:20200324195854j:plain

ガイド本に目印として書かれている魚久はありませんでした。

13:29 ローソンでトイレを借り、サンドイッチと缶コーヒーで、外の駐輪場脇でランチ。

13:44 ポケットパーク
f:id:asiandream0804:20200324195921j:plain

13:56 国道17号線から右斜めへ分岐
f:id:asiandream0804:20200324200005j:plain

この、蕨宿の入り口で工事をしていて、左側を歩くように指定されたため、歩道に描いてある中山道六十九次の絵が上下反対向きで見にくい。宿場が飛び飛びだなあ、と思ったら、こちら側と反対側でひとつおきに描かれているためで、全体としてはすべての宿場が描かれているようでした。

14:01 蕨市立歴史民俗資料館
f:id:asiandream0804:20200324200028j:plain
やっているのかいないのか。閉まっている感じでした。ここには11年前来たときの思い出があります。

11年前のブログ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

蕨の郵便局の斜向かいの蕨歴史資料館分館を見学。無料でした。

明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用しているので、古い家の様子と、蕨の特産物の織物と機(はた)の展示をしていました。

一通り見終わって外に出たら…

プラスチックを燃やしている匂い。

見ると、資料館分館の隣のマンションの2階から煙が。

火事だ!

分館に駆け込み、隣が火事であることを知らせました。

分館の職員さんが、消防署に通報。

私がさっきもらった資料館分館のチラシに住所が書いてあり、職員さんが通報するにあたり、そのチラシを持っていってしまったので、また新たにチラシをもらって外に出たら、たまたま通りかかった救急車の人がやはり通報していて、住所が分からないので、私はまた、チラシを渡しました。

さすがは消防署員さん。素晴らしい通報の台詞でした。

私はまたチラシを持っていかれたので、またチラシをもらいに行きました。

その内、職員さんや近所の人が集まり始めました。

マンションは3階建てで、各階4軒ぐらいの小さいマンションですが、誰もいないようでした。

その内、資料館の方が、「こんな状況なので、閉館させていただきます。せっかく来ていただいたのに申し訳ありません。また遊びに来てください」と門を閉めました。

私は、職員さんに、何度もお礼を言われました。

分館を出たのは中山道ではなく反対側の道で、中山道に戻りたくても消防車が何台もいて消火活動中で通れず、遠回りして中山道に戻りました。道路は火事のために大渋滞でした。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑



蕨市立ホームページより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

蕨市立歴史民俗資料館分館

明治時代に織物の買継商をしていた家を、分館として公開しています。
建物は、木造平屋寄棟造り。中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に建てられたものです。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑

渋沢栄一の筆による額や、昔の電話ボックス、腰掛け待ち合いなどが展示されているそうです。

f:id:asiandream0804:20200324200108j:plain
案内書き
蕨市立歴史民俗資料館

分館は、明治時代に織物の買継商(かいつぎしょう)をしていた家をそのまま利用したものです。敷地は516坪(1,705㎡)あり、建物は床面積98坪(313㎡)の木造平屋(ひらや)、寄棟(よせむね)造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)につくられたものです。 」


14:13 蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡)
f:id:asiandream0804:20200324200129j:plain
碑文
「 蕨宿

蕨宿開宿四百年

四百年もの永きにわたり、文化と伝統が現在まで受け継がれてきていることへ感謝し『変わらない人情が蕨宿を変えてゆく』を掲げ魅力ある『現代の宿場』として次世代へつなげていくことを誓い、記念碑を建立する。

平成二十四年十月

蕨宿開設四百年記念事業特別委員会 」

f:id:asiandream0804:20200325040732j:plain
f:id:asiandream0804:20200325040743j:plain
案内板
蕨市指定文化財

蕨本陣跡

 蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである
 慶長十一年(一六〇六)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられる 
その後その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた
 蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し文久元年(一八六一)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となりついで明治元年(一八六八)同三年には明治天皇大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった
 現在岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている

 撰文 大野 晋
蕨市教育委員会

f:id:asiandream0804:20200328003748j:plain
道標
中山道蕨宿

江戸江 五里
京江 百三十里 」

14:17 薬屋
f:id:asiandream0804:20200328003804j:plain

14:20 歴史的建物
f:id:asiandream0804:20200328003823j:plain

14:21 中山道ふれあい広場
f:id:asiandream0804:20200328003842j:plain
f:id:asiandream0804:20200328003855j:plain
中山道ふれあい広場の案内板
中山道蕨宿


中山道と蕨宿

江戸時代、埼玉県内には御街道のうち、中山道日光道中が通り、日光御成道(おなりみち)や多くの脇街道が通っていました。
中山道は、江戸日本橋から近江国(滋賀県)守山宿までの67宿の街道で近江国草津宿東海道と合流し、京都三条大橋に向かい、江戸と京都・大阪を結ぶ幹線道路として創設されました。
蕨宿は、この中山道にあり、江戸日本橋から数えると、2つ目の宿場で、67宿でも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場でした。


蕨宿の成り立ちと形態

蕨宿の成立の時期には諸説がありますが、慶長17年(1612)成立という説が有力と考えられています。
天保14年(1843)の蕨宿は、総家数430軒、進行は2223人でした。大名、公家など身分の高い人々の宿泊施設である本陣が2軒、脇本陣が1軒、一般の旅人の宿泊のための旅籠が23軒ありました。また、旅人と荷物を輸送する事務を行う問屋場と高札を掲げる高札場が一ヶ所ずつありました。
蕨宿は宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、乗り継ぎをする馬や人夫の用意、物資の運輸、周辺の村々からの人馬の動員などを行っていました。


蕨宿のまちなみと人々の暮らし

蕨宿は中心部のまちなみが、南北10町(約1090m)で、宿の周囲を用水堀で囲み、外部の攻撃から守れるようにしてあるのが特徴でした。この堀は防火用水の役割も果たしていました。
蕨宿には、青物、穀物、菓子、荒物、材木など、様々なものを商う店があり、他にも豆腐屋、煙草屋、髪結いなど色々な職業の人々が暮らしていました。毎年7月11日と12月26日には市が立ち、賑わいをみせました。 」

このふれあい広場には大きな壁画が2枚あり、1枚は大名行列、もう1枚は皇女和宮のお輿入れの行列から現代へと繋がる、不思議な絵です。
f:id:asiandream0804:20200328003923j:plain
f:id:asiandream0804:20200328003931j:plain

14:31 宝蔵寺(日蓮宗)
f:id:asiandream0804:20200328003943j:plain

14:35 一六橋
f:id:asiandream0804:20200328004003j:plain
f:id:asiandream0804:20200328004025j:plain
案内板
「 一六(いちろく)橋のいわれ

この橋は、見沼(みぬま)用水の分流『一六用水』にかかっておりそこから一六橋と名付けられた。『一六という名』は南北町時代から戦国時代(十四世紀から十六世紀)にこの辺りで『一と六』のつく日『市(いち)』が開かれたことによると考えられる。
江戸時代にはすでに一六橋の名がみえており明治時代に書き上げられた『武蔵嵐山国群村誌』には、長さ五尺(約百五十一cm)巾五尺の石造りと記されている。

平成二十四年四月吉日
一六会 」

一六橋は、蕨市さいたま市の境にあります。


2度目の中山道1日目の4(浦和宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/03/28/102145


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003