紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

水戸浪士 熊谷三郎の墓 この先30m

水戸浪士 熊谷三郎の墓 この先30m

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案内板
「 水戸浪士 熊谷三郎の墓

 幕末に水戸藩内一派「天狗党」が、攘夷貫徹を訴えるために、京都をめざし落合宿 を通過したおり党紀に違反した熊谷三郎 が惨殺された。
 それを哀れんだ地元の人々により西山墓地に葬り墓碑を建て供養した。 」

落合五郎兼行の案内板(お伽藍神社下)

落合五郎兼行の案内板(お伽藍神社下)

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案内板
「 落合五郎兼行

平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたと言われている。
落合五郎兼行は、平家物語巻七寿永二年(一、一八三)、五月の『火打ち合戦』の項に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説や、中原氏の一族説等あり、生没不詳で定かでなく、木曽義仲に仕えていたことは事実と思われる。義仲の幼名は駒王丸といい、父源義賢と叔父にあたる義朝との合戦により父義賢が殺されたため、駒王丸は幼少の頃から乳母の夫である中原兼遠のもとて養育された。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻になる巴の三男一女があり、平家物語の中で、義仲の有力な武将として取り上げられている。
館跡とされている所は、『オガラン』と呼ばれ、『伽藍』(大きな寺院)という言葉からきたと推定され、近くには『小姓洞』という地名も残っている。
実際に兼行が当地の落合に居住していた説に関しては不明な点が多いが、江戸期に書かれた『木曽名所図絵』には、『落合五郎霊社』と案内され、『新撰美濃誌』は、落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、『老杉三、四株生い茂るうちに愛宕神社あり』と書かれている。
また、『美濃国御坂越記』には、落合五郎兼行住居の跡地といえども、『兼平か、弟の兼行にてはあるべからざる』と考察している。
兼行の館跡は、後世に文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかった。
現在ここは、愛宕神社寛延年間に建立された石灯籠や兼行の顕彰碑等があり、毎年八月には経た例祭が行われている。

平成六年十二月吉日
中津川市
おがらん四社

愛宕神社
山之神神社
天神社
落合五郎兼行神社 」

善昌寺 門冠の松

善昌寺 門冠の松
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案内板
「 善昌寺の「門冠の松」

・この松は、創建当時の山門を
覆っていたことから門冠の松
と呼ばれている。
・道路新設拡巾・寺の移転等で
根が痛めつけられて来たのか、
凡そ四五〇年の年を経ていると
いわれているが、さほど大きく
なく、宿場の入り口に格好の
風采を添えている。

落合まちづくり推進協議会 」

落合宿 たすけあいの釜

たすけあいの釜
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gifureki.comより

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助け合い大釜(落合宿)概要: 大釜(容量1000リトッル、口径約1.5M)は、元々「寒天」の原料である天草を煮る時に利用したものです。文久元年(1861)、皇女和宮が江戸に下向する際、4日間で約26000人が落合宿を利用し、多くの住民が助け合いながら利用者の接待をした故事から、この地に大釜を設置し、日本の伝統的食文化と密接な関係がある道具(大釜)を保存すると共にイベントなどで大釜料理(千人キノコ汁)を参加者に振舞うようにしたそうです。
皇女和宮降嫁行列は総勢3万人、50キロに及び、利用された中山道沿いにある藩は警護にあたり、各宿場は失礼が無いように整備や清掃が行われ、犬猫や家畜などの動物の声や社寺の鐘などにも十分気くばりされました。落合宿では本陣である井口家で和宮が小休止を行なっている為、当日には特に警備が厳しかったと思われます。4日間は行列で随行した従者などが宿泊や休息で利用した為、まさに宿場をあげての「おもてなし」がなされました。

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落合宿

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案内板
「 歴史の道 中山道
落合宿

落合宿は江戸から82里12町(約323km)京から52里9町(約205km)の位置にある、江戸日本橋から数えて44番目の宿場町である。落合宿は、江戸側から横町、上町(かんまち)、中町、下町(しもまち)に分けられる。
落合宿の長さは、3町35間(約390m)、家数は75軒を数えた。宿場町の両端に桝形を備え、道の中央に用水が流れ4基の常夜燈が設置されていた。
本陣は井口家が、脇本陣は塚田家が代々務めており、それぞれ問屋を兼ねていた。また、落合宿の庄屋は井口家(千村家(久々利方))と塚田家(山村氏(木曽方))が分担して務めていた。
文化元年(1804)、文化12年(1815)の2度、落合宿は大火に見舞われた。その後築造された土蔵造の落合宿本陣やうだつ、古い民家などに江戸時代の面影を垣間見ることができる。
落合宿西側から落合の石畳を含む新茶屋までの道筋(約2475m)、落合宿本陣、落合の常夜燈、新茶屋の一里塚が、平成22年(2010)に国指定遺跡『中山道』へ追加指定された。 」

落合本陣跡

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落合宿本陣 中津川市観光情報サイトより

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中山道落合宿は、江戸から44番目の宿場町。落合宿本陣は中山道ぎふ17宿の中で唯一本陣が残っており、歴史の面影を感じることができます。

往時の面影を残す貴重な建物であり、平成22年2月、国史中山道の一部として追加指定を受けました。平成29年3月より、毎週日曜日に一般公開されています。

【公開日時】 毎週日曜日 9:00~16:00
【料金】   無料
【その他】  ガイドが案内いたします。

ボランティアガイド

毎週日曜日に落合宿本陣を無料でご案内いたします。畳の間に上がることはできませんが、姿見の障子、殿様が危機から逃れるための抜け穴など、本陣の見どころについて説明いたします。
【受付】   毎週日曜日9:00-16:00まで 落合宿本陣に直接お越しください。
【所要時間】 15分~30分程度
【備考】   日曜日以外の公開・ガイドについてはお問合せ下さい。
【問合せ先】 落合事務所 0573-69-3201 文化振興課 0573-66-1111

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上町の秋葉様の常夜燈

上町の秋葉様の常夜燈
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案内板
「 上町の秋葉様の「常夜燈」

・宿場通りには、秋葉様の常夜燈 が
四基あり、戸ごとを回る当番により
灯をともし防火を祈ってきた。
・寛政四年(1792)十二月に建てられ
たが、明治十三年(1880)の道路
整備の際、三基は他所に移された。
・この一基だけが道の片隅に寄せられ
往時の姿を留めている。

落合まちづくり推進委員会 」

落合橋の付替えと落合橋

落合橋の付替えと落合橋

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案内板
「 歴史の道 中山道

中山道の付替と落合大橋

 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわれています。
 この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。
 しかしこの道も悪路で、今までより約一・八㎞も遠回りになったことから、明和八年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。
 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって緩やかに登る道に付替られました。
中津川市教育委員会

山中薬師 狐こうやく

狐こうやく
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案内板(後半)
「 又落合宿名物『狐膏薬』は薬師如来の夢のお告げで作られたと伝えられ、當時の看板―

御夢想 狐かうやく 十国峠 医王寺

も残っている。

十返舎一九の木曽街道続膝栗毛六編下巻に
『サア サアお買いなさってござりませ當所の名宝〔狐膏薬〕は道中のお足の痛み、金瘡、切疵、ねぶと はれもの
ところきらわずひとつけにてなおる事うけあい、他に又
〔すいがうやく〕のすいよせる事は金持の金銀をすいよせ、ほれた女中方をもびたびたとすいよせる事奇妙希代おたしなみにお買いなされ』と膏薬の効能をはやしたてて売ったと狐膏薬について書かれている。 」


金瘡=刀、槍など、金属でできた傷
切疵=切り傷
ねぶと= もも・尻など、脂肪の多い部分に多くできるはれもの。化膿 (かのう) して痛む。かたね。(goo辞書より)

enasan-netより

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ズイトンさんのきつねこうやく
 むかし、山中の医王寺に、ズイトンさんというおしょうさんが住んでおったそうな。とても気のいいおしょうさんで、村の人たちはもとより、うら山のきつねやたぬきにも、ズイトンさん、ズイトンさんと大へんしたわれておったと。
 さて、きょうも朝のおつとめをすませたズイトンさんは、庭そうじをやっておった。ズイトンさんも年での、このところ、かがんでいると腰が痛いので、ゆっくりとていねいに庭をはいておったそうな。すると、本堂のうらの方から何やら苦しそうな鳴き声が聞こえてきた。
「キューン、キューン」
 はて、いったいどうしたのだろう。うら手へまわってみると、その声はやぶの中から聞こえてくる。ズイトンさんがやぶをかきわけ行ってみると、何と、一匹のきつねがいかにも苦しそうにうなっていた。
「おおよしよし、どうした、どうした。」
 きつねをそっとだきあげてみると、足に大きなとげがささっているではないか。
「こんなに血が出て、痛かったろうに。」
といいながら、ズイトンさんはその大きなとげをぬいてやった。
「さあ、もうだいじょうぶ。」
 そういうと、きつねは、うれしそうにズイトンさんの顔を見ておったが、やがて、びっこをひきひき山の中へ消えていったそうな。
 この山中の医王寺は、落合と馬籠を結ぶ十曲峠の途中にあって、大へん淋しいところでの、昼間でもきつねやたぬきをよく見かけたそうな。だから、夜なんぞはまさに動物の世界。お寺がまるで動物たちの集会所のようなものでの、いつもちょうどズイトンさんが床に入る頃になると、動物たちがやってきて、
「ズイトン、ズイトン」
と、大合唱になったそうな。
 なに、ズイトンというのはの、庫裏の戸にしっぽをつけて「ズイッ」とこすってから、「トン」とたたくと、「ズイトン」と聞こえるっちゅうわけさ。
 ズイトンさんを呼びだしていっしょに遊ぶつもりやったかしらんが、なにしろ夜中のこと、そんなわけにはいかん。ズイトンさんも初めのうちはなかなか寝つけず困っておったが、そのうち慣れてしまってな、きつねどもがいくらさわいでも、平気で眠れるようになったと。
 さて、ある晩のこと。その日は、夕方近くからゴトゴトと戸をきしませる風が吹いていた。もう秋が近いのか、すきま風が肌寒く感じられての、ズイトンさんは何となく寝つけなかった。きつねのさわぐのには慣れっこになっていたのに、雨戸のきしむ音が気になって、うつらうつらしておったと。
 そのうちに、ズイトンさんは、はっとした。雨戸の音がさっきとはちがう。耳をすますと、
「トン、トン、トン」
と、玄関の戸をたたく音がする。
 これは、いつも私が相手にならんからいたずらがひどくなったのか、と思ったズイトンさんは、ふとんを頭からひっかぶった。けれども、
「トン、トン、トン、ズイトン、ズイトン」
と、まだ聞こえるんやと。
 うるさくなったズイトンさんは、しかたなく起きて玄関へいき、戸を開けてみた。すると、まあ、この間のきつねが、ちょこんとすわっておったと。
「どうしたんだ、こんな風の晩に。」
 びっくりして聞くと、
「おしょうさん、この間はどうもありがとうございました。おかげで傷はすっかりなおりました。お礼に、よく効くこうやくの作り方を教えてあげましょう。おしょうさんは、腰が痛くて困っているのでしょう。」
といっての、ズイトンさんにこうやくの作り方をくり返しくり返し、ていねいに教えてくれたと。
「まず、マムシグサの根っこの、まあるいやつをすりつぶす。そこへオオバコのたねとキツネノマゴの葉をすりつぶして混ぜる。次はモーチを入れてよくねり合わせる。それと油を、布きれにぬりつけて、痛いところにはれば、たちどころに痛みがとれます。」
 ズイトンさんは、きつねの話を聞いているうちに、汗びっしょりになっていたそうな。いつのまにか、床の中で、こう薬の作り方を何回もくり返していっておったと。ズイトンさんがこう薬の作り方を一口いうと、きつねがまくらもとでうなずくというふうに、くり返しくり返しして、とうとうこう薬の作り方を覚えてしまった。
 と、急に部屋の中が明るくなったので、ズイトンさんは、はっと目をさました。あたりを見まわしたが、きつねの姿はどこにもなく、体じゅうがべっとりと汗ばんでおったと。もう、夜が明けていたそうな。
「夢だったのか。」
 でも、こう薬の作り方をはっきり覚えておる。ズイトンさんは、すぐに起きて、きつねの教えてくれたものを集めてきた。そして、ならった通りにしてこう薬を作っての、さっそく自分の腰にはってみると、腰痛がうそみたいにすっとなおってしまったと。
 よろこんだズイトンさんは、さっそく山門に『御夢想 狐こうやく』と看板をあげ、狐の絵もそこへほりこんだと。
 これが、大へんよく効くと大評判になっての、村の人はもちろん、旅人から伝え聞いて遠くからわざわざ買いにくる人が絶えなんだそうな。

文・笠木 由紀子
絵・高橋  錦子


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山中薬師

山中薬師
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案内板
「 山中薬師
浄土宗瑠璃山 医王寺

當山はもと天台宗名刹として栄えたが戦国時代に兵乱にあい法燈は一時中絶したが天文十三年(1544)正誉存徹が再興し浄土宗に転じたという。本尊は薬師如来 で名僧行基 の作と伝えられる。
 又奈良時代聖武天皇 の御代諸国に疫病が流行したので勅命をうけた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し病気の治療法を伝授したと伝えられ之医王寺もその一つであると云い三河の国の鳳来寺可児郡御嵩の蟹薬師(願興寺)と並んで三大薬師 の一つである。寺内には薬師如来のほか多くの仏像があり、さらに民間信仰の庚申等安置され往時の信仰の盛大さを物語っている。又医王寺は山中薬師とも呼ばれ古来より子供の虫封じの薬師として名高く人足が絶えない。境内には枝垂れ桜があり、(原木は樹齢三百年の大きなしだれ桜であったが昭和三十四年(1929)の伊勢湾台風で倒れたので今の木が二代目となる)毎年季節になると風雅な花を咲かせ街道を歩く人々の心をなごませたとされる。尚之木は木曽義仲 が京に上る途次手にした桜の枝を逆さに刺したものが根づいたと伝えられている。尚境内泉水のほとりに「梅が香にのっと日の出の山路かな」の芭蕉 の句碑があり、弟子を連れ馬の背にゆられて急峻な木曽路の山峡をどんな思いで旅を続けたのであろう。
落合宿 は中山道の一宿であるから大名や高貴な女性などの通行が多かった特に京都から江戸の将軍家に嫁入る場合等は東海道をさけて中山道を経由した 又善光寺詣りや御嶽講の連中などここから木曽路へ入る人々が旅の安全を祈願しに立ち寄った際には之山中薬師で家内安全 道中無事 無病息災を祈って旅立っていった。 」

落合の石畳

落合の石畳
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案内板
国史跡 中山道 
平成22年2月22日追加指定
落合の石畳

 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。

 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には『馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7キロメートル)、道幅2間から3間、尾州より普請』とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間中山道の維持管理を行っていたことがわかります。

 石畳の構造としては石畳の道幅約4メートルで、1平方メートルあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。

石畳の長さは約840メートルで、その間3ヶ所(径70.8メートル)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度『歴史の道路整備事業』にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。
中津川市教育委員会

なんじゃもんじゃの杜

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案内板
なんじゃもんじゃの杜

・本名をひとつばたごといい、
古世代の依存木である。
・五月中旬頃の開花で、満開時は
樹上が真白になり雪積もった
ような景観を醸す。
・この杜は昭和五十一年落合老人
クラブが植樹したものである。

落合まちづくり推進協議会


ヒトツバタゴ wikipediaより

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ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。

なお、別名はナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意を要する。

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中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業

中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業

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案内板
中山道

中山道江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、 その距離は江戸の日本橋から京都三条大橋まで、百三十五里二十四町八間(約532km)ありました。
この道は中部山岳地帯を通り難所が多い一方で、川留めになる河川も少なく渡海の難もないため、姫宮の通行のほとんどが中山道を利用していました。
また、中山道には、参勤交代や西国諸大名を支配するための『政治の道』、江戸と上方を結び、物流や情報が行き交う『経済の道』、絵画や俳諧などを育み街道文化が華やいだ『文化の道』など、さまざまな側面がありました。


中津川市内の中山道

市内には約20kmの中山道が東西に延び、江戸から数えて四十三番目の馬籠、四十四番目の落合、四十五番目の中津川の三つの宿場町がありました。中山道六十七宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされていますが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

馬籠宿

木曽十一宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが三町三十三間(約386m)ある中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町です。度重なります火災のため、往時の建物はほとんど遺っていませんが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていません。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されています。

落合宿

落合宿は信濃国から美濃国に入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。
新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合の常夜燈、代々井口家が当主を務めた落合宿本陣は、国史跡『中山道』の構成要素となっています。

中津川宿

中津川宿の町並みは約十町七間(約1.1km)、戸数百七十五戸、人数は九百八十人でした。
宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町とに分かれていました。
皇女和宮が降嫁のために江戸へ向かう際に、中津川宿本陣に宿泊しました。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩尊皇攘夷へ方針転換した『中津川会議』の舞台でもあります。


歴史の道整備事業

中津川市は昭和六十三年から平成七年度にかけて文化庁岐阜県の補助を受けて、歴史の道・中山道の整備を行いました。
江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県境からの約1kmを整備対象区間とし、道全体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の両側に残っていた『新茶屋の一里塚』の修復、また、『休憩所』一基を活用施設として設置しました。
従来から、『中山道落合の石畳』として保存されていた石畳(三ヶ所、延長七十、八m)をつなぎながら復元した約八百四十mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気をもっています。 」

落合石畳遊歩道

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案内板
「 落合石畳遊歩道(全長120m)

平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により、新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。
この場所から、旧長野県境までの約120m 間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。
(この事業は、岐阜県からの補助金を受けて整備したものです。)
平成17年10月
中津川市

新茶屋の一里塚跡

新茶屋の一里塚
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案内板
「 歴史の道 中山道 新茶屋の一里塚

 一里塚 とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠 が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中 などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。
 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。
 新茶屋の一里塚は天保安政時代(1830~1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しました。
平成六年 二月
文化庁 岐阜県 中津川市