紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

間々田 日光道中中間点 逢の榎

f:id:asiandream0804:20220105113928j:plain

案内板

「   日光街道中間点 逢の榎

 元和3年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、21の宿が設けられました。
 宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
 間々田宿は、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ11番目の宿場にあたり、距離もほぼ18里(約72km)の中間点に位置していました。
 天保14年(1843)、間々田宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が50軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
 また、中田宿(茨城県古河市)から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
 間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間(あい)の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
 この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。
 (昭和34年1959頃の写真と「日光道中分間延絵図」東京国立博物館蔵)  」