紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

(復元) 柏原一里塚跡

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案内板
「 (復元)柏原一里塚

一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。
慶長九年(一六○四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道中山道北陸道での一里塚築造に着手した。 そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。 工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、五間(九メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。 おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。 (現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。 」